第30回 谷口尚己氏が遺してくれたもの -挑戦と情熱、そして気遣い-
2022年12月4日、谷口尚己氏が逝去されました。ご冥福をお祈りいたします。
谷口氏とは20年ほど交流させていただきました。本田宗一郎氏のレースに対する考え方や当時のホンダの雰囲気など、さまざまな歴史的な出来事を直にお話してくださいました。私がホンダ社員として、広報担当者として足りなかった知識を埋めてくれました。そして、挑戦することの意義や生涯にわたって情熱を持ち続けることの大切さを、身をもって教えてくれたことは大きな財産でもあります。
谷口氏と接することができた限られた期間ではありますが、その足跡を辿りオートバイの素晴らしさを伝え続けてきた情熱と気遣いを記したいと思います。以下、谷口さんと記載させていただくことをお許しください。
谷口さんは、1959年6月の世界選手権ロードレース・マン島TTレースに於いて、125ccクラスで6位に入賞しホンダのチーム・メーカー賞獲得に貢献されたレーシングライダーです。当時のレーシングスーツやヘルメットは、現在とは比べ物にならないレベルですから、転倒は、すなわち重傷を意味し、時には死に至る危険性が高いものでした。公道を使用するマン島TTレースでは、その危険性はさらに高くなります。そのような環境ですから、日本から遠征したホンダの社員ライダーたちは命がけの挑戦でもあったのです。世界で最も過酷なロードレースに初挑戦で好成績を挙げたことは、ホンダのみならず日本のオートバイ産業が世界に飛躍するきっかけになりました。
1959年 マン島TTレース 初出場でチーム・メーカー賞を獲得したホンダチーム3名。左から、鈴木義一選手(7位)、鈴木淳三選手(11位)、谷口尚己選手(6位) ともにRC142。※田中楨助選手は、3名で登録するホンダチームメンバーではありませんでしたが、2バルブのRC141で8位の好成績を挙げました(写真右)。
このマン島TTレースの熱戦の模様は、承前啓後第3回目で紹介した二輪車新聞に詳しく紹介されていますので、ご覧いただければと思います。掲載した当時の二輪車新聞は、谷口さんから頂いたものです。
私が初めて谷口さんにお会いしたのは、ホンダが創立50周年を迎えた1998年でした。
八重洲出版社で企画していた創立50周年特集本に掲載する、マン島TTレースの取材対応でした。谷口尚己さん、飯田佳孝さん(チームマネージャー)、秋鹿方彦(あいか みちひこさん、メカニックの後監督)の3名でした。6月のマン島TTレースで開催されたホンダ創立50周年記念イベント(クラシックパレードなど)から帰国されたばかりでした。
取材では、谷口さんが持参された沢山の写真や新聞の記事などがとても参考になりました。当時のホンダにも保存されていない貴重な写真類は、お借りしてアーカイブ資料として保管し、大いに活用させていただきました。
1998年 ホンダ・モーター・ヨーロッパが企画した創立50周年記念イベントのパンフレット。左下は、歴史を紹介した小冊子です。谷口さんは、レジェンドライダーとして60年代のRCマシンでクラシック・パレードに参加されました。(写真右)。
この取材では話題に上がりませんでしたが、直後に読売新聞社から谷口さんの取材をさせていただきたいとの電話がありました。「英国で切手になった日本人」というテーマで取材したいので、ご本人の了解を取っていただきたいというものでした。初めてお会いしてから一週間後、再びお会いできる機会に恵まれました。お借りしていた写真と資料の返却も兼ねて、谷口さんが横浜市青葉区で経営するレストランで新聞社の取材に立ち会わせていただきました。
先日の取材では、切手の話は一言もありませんでした。谷口さんは、自分一人が切手に採用されたことを話題にしなかったのは、他のメンバーや関係者に配慮したのだと感じました。常々「レースは一人で出来るものではないのです。設計する人や部品を調達する人、コースを整備する人や観客を誘導する人など、沢山の人たちのおかげで走ることができるのです」と語っていましたから。
1998年は、ホンダ創立50周年という節目の年でしたから、新製品PR業務の他に、歴史に触れる取材対応も多くあり、変化に富んだ一年でした。その中でも感動的だったのは、10月4日にオープンしたばかりのツインリンクもてぎで行われた「ありがとうフェスタ」でした。このイベント会場で、谷口さんと私の友人である幸野武彦さんの対面が実現したのです。静岡県の函南町に住んでいた幸野さんとは、1983年に中国のシルクロードバイクツアーで知り合いました。鉄工所を経営しながら、F1とWGP500のエンジンを設計して、いつかはホンダに採用してもらうことを夢に描いていました。
彼は、1960年頃から谷口さんと手紙のやり取りをしていました。私はその葉書や手紙を見せてもらう機会がありました。谷口さんは、静岡の中学生に鈴鹿サーキットやマン島などから葉書を送っていました。そこには、レーシングマシン造りの大変さや未知のヨーロッパ事情などがつづられていました。時折、若い頃の勉強がいかに大事なのかを説いてもいました。幸野さんにとっては、スーパースターから直接便りが届くわけですから、谷口さんとホンダの大ファンになりました。谷口さんとは、何度か電話でお話したことがあるようですが、直接お会いしたことはなかったとのことでした。
そのような縁から、ツインリンクもてぎで谷口さんと幸野さんが出会える時間帯と場所をセッティングしました。手紙のやり取りを始めて40年後の事でした。谷口さんは62歳、幸野さんは53歳になっていました。そして、1960年代のホンダレーシングサウンドをレジェンドライダー・ドライバーたちが奏でる夢のような世界を共有してもらいました。
幸野さんは、2014年に69歳の若さで他界しました。遺族の方からいただいた遺品には、谷口さんとの葉書や手紙もありました。今、あらためて読み返しますと、谷口さんの細やかな気遣いがあふれています。これらの手紙は私の自宅で保管していますので、谷口さんのご家族に見ていただく機会をつくりたいと考えています。
【前田淳選手への気遣い】
前田淳選手とは、2001年頃に知り合いマン島TTレース出場に対して少しばかりお手伝いをしていました。年々成績が向上してきて、日本人としての優勝も夢ではないように思えました。専門誌の取材で、谷口さんと前田さんは何度か対談する機会があり、私も同席していました。谷口さんは「淳ちゃん。とにかく無事にゴールするのが一番大事なことだよ。マン島では無理をしないことがとても大事なんだ」と、繰り返し話していました。マン島の先輩として、前田さんの成績が年々向上していることを心配しての事でした。前田さんは「谷口さん。自分もマン島の事は分かっているので、無理はしないですよ。大丈夫ですよ」と。
不幸にも、2006年6月のマン島TTレースにて事故にあい他界されてしまいました。将来有望な若者がマン島で亡くなったことに、谷口さんの失望は大きいものでした。
【RC142復元車との出会い】
2009年は、ホンダが世界選手権ロードレース(WGP)のマン島TTレースに出場してから50年を迎える節目の年でした。私は広報担当として、4月にツインリンクもてぎで開催される日本GPに合わせて、挑戦の記録をまとめたパンフレットの作成を進めていました。
2月9日、朝霞研究所から「面白いものを見せてあげるから、今から朝霞に来い」という、無茶な電話がありました。この方には逆らえませんから朝霞に駆けつけると、そこにはゼッケン8番があしらわれたマン島TTレース用マシンが組み立てられようとしていました。研究所メンバーに事情を聞きますと、”WGP参戦50周年を記念して一から復元したマシン。日本GPでお披露目させたい。広報としてもアイデアを出して協力して欲しい”というものでした。
その日のうちに、復元メンバーに集まっていただき緊急作戦会議を行いました。可能であれば、谷口さんに乗車してお披露目したい。しかし連絡先が分からない。メンバーは、谷口さんと面識がなかったので、私から谷口さんに事情を話してマシンに乗車いただくことに快諾を得ました。谷口さんにとっては、まるで夢の話のようで、何回も「本当の話ですか」と聞かれました。
私の考えは、いきなり日本GPでデモ走行するのはもったいない。デモ走行では、RC142が主役になることはできない。その前に、報道へのお披露目会を行って、徐々に盛り上げを図った方が得策と提案しました。復元マシンのテスト日程やもてぎ側との調整などから、3月24日実行と決めました。3月23日、谷口さんを青山本社から私が運転する四輪に乗っていただき、一路ツインリンクもてぎのコレクションホールに向かいました。完成したRC142を見ていただき、明日の報道取材会の打ち合わせに臨むためです。
翌3月24日は、報道関係者に復元車製作の目的やメカニズムなどの説明を行った後、いよいよ谷口さんによる初走行です。当日は、気温10度の肌寒い気候で心配しましたが、RC142のエンジンが始動すると、報道陣も我々も緊張が高まってきます。
RC142は、私が想像していた甲高い音ではなく、低音で太い感じでした。マシンに合わせ、ライディングギアは50年前のデザインを忠実に再現したものです。谷口さんとRC142は、颯爽ともてぎの1コーナーに消えていきました。
50年の時を超えて、写真でしか見ることができなかったシーンが、蘇ったようでした。仕事中であることも忘れて、ただ茫然と谷口さんの走りを見ていました。この取材会のリポートは、私が作成しホンダのWebサイトに掲載しました。今でも見ることができますので覗いてみてください。残念ながら走行動画は見ることができません。
このお披露目取材会は無事に終了し、新聞や専門誌に多く掲載されました。報道されることで、モータースポーツファンはもとより、社員にも周知することができました。あとは、日本GP決勝日のデモ走行が控えていますが、私の役目はこれで終了しました。
日本GP決勝前夜は、もてぎのホテルにてホンダ主催のWGP参戦50周年のレセプションがありました。我々広報スタッフは、報道関係者の受け入れ業務で会場に詰めていましたので、歴史的なイベントを見ることができました。
日本GPは、土曜日の予選が豪雨でキャンセルされました。決勝当日は晴れているものの、路面はウェットの状態です。レインタイヤの装着はないため、デモ走行は中止も視野に入れていました。しかしながら、大観衆の前で披露できる千載一遇のチャンスですから、関係者もライダーも何とか走りたい気持ちは一緒でした。ぎりぎりのタイミングでデモ走行にGOサインが出ました。現場には、1959年のマン島TTレースでホンダチームの監督を務めた河島喜好さん(ホンダの最高顧問)も駆けつけています。
復元チームのメカニックたちは、50年前を再現した作業服を着用しています。RC142は、始動に手間取りはらはらしましたが、谷口さんのライディングにより、無事お披露目が行われ、観客からは大きな拍手が贈られました。
決勝レース終了後、コレクションホールでは”世界への初挑戦 マン島TTレース”をテーマにトークショーが開催されました。ゲストは谷口さんと高橋国光さん。デモ走行シーンを瞼に焼き付けたモータースポーツファンが多く来場して、挑戦の歴史の一端に触れることができた素晴らしいトークステージでした。
2009年は、マン島郵政公社がWGP参戦50周年を記念した切手を発行しました。50年の歴史から6名のライダーが選ばれ、1950年代の代表として谷口さんが再び切手に採用されました。マン島の関係者からいかに慕われていたかが分かります。
【レーシングライダーに徹してホンダを去る】
谷口さんは、取材が終わった後に様々な思い出を語ってくださいました。その中で特に印象に残っているのは、ホンダを退職した理由でした。
谷口さんは、1954年にホンダに入社し、翌年1955年の第一回浅間火山レースにドリームSAでライト級(250cc)に出場しました。このレースで丸正のライラックを駆る伊藤史郎選手に僅差で届かず2位を獲得しました。その後もホンダ社員チームであるホンダスピードクラブの精鋭として国内レースやWGPで活躍しました。谷口さんの話では、チーム戦略が優先されるため、勝てる自信があったレースで後輩にワークスマシンを譲ることになるなど、一度も優勝に恵まれませんでした。1961年頃になると、社員ライダーよりも経験豊富な外国人ライダーを起用するようになり、ますます世界の檜舞台で優勝することは困難な状況になってきました。
そして1966年を最後に、ホンダはWGPから撤退することを表明しました。谷口さんは、このような時期にホンダの退社を決意しました。レーシングライダーとしてWGPで優勝を獲得するための決断でした。谷口さんは、1967年のシンガポールGPの350ccクラスに出場。カワサキのマシンで見事優勝を獲得しました。31歳で念願が叶った瞬間でした。それを機に、あっさりとレースの世界から引退されました。部外者の私から見ますと、そのままホンダで仕事を続ければ、それ相当の役職が保証されていたと思います。安定的と思える環境を捨ててレーシングライダーの夢を追い続けたことは、凡人では想像もつかないことです。レースでは、一瞬の判断ミスが重大な事故につながります。そのようなレースを何回も経験した谷口さんにしか判断できない世界があったのだと思います。
【谷口さん、この部品は何ですか】
谷口さんとともにコレクションホールを訪れた時に、1960年代のRCレーサーに奇妙な部品が付いていました。
「谷口さん、この蛸壺のような部品は何なのでしょう」
「これは、マン島TTレース用マシン特有の部品だね。この中にスポンジが入っていて、長い直線路でゴーグルについた虫とか汚れをふき取るものなんです。こう見えて重要な部品なのです」
私の疑問が一瞬にして解決しました。経験者が語る言葉には含蓄があります。以降、機会がある度に谷口さんに教えてもらったことを語り継いでいます。
【ホンダさんから声がかかったら、いつでも行けるように準備していました】
2009年、復元車のRC142でお披露目会が終わった後にお聞きした話です。
「1998年にマン島でRCレーサーに乗ってパレードさせてもらった後、ホンダさんから何かの機会でレーサーに乗って欲しいと依頼されたときに、すぐ対応できるように毎日トレーニングを欠かさなかったのです。腹筋は100回くらいできますよ。時折、CBR1000RRに乗ってライディングフォームも勉強したりとかね」
この時すでに73歳になっていましたが、谷口さんのチャレンジングスピリットは20代から変わっていなかったのです。
【RC142が現存しない理由】
谷口さん「親父さん(本田宗一郎さん)の命令で、クニさん(高橋国光さん)とハンマーで壊して廃却してしまったのです。他のメーカーに技術が流失しないようにと」
研究所の人たちがいくら探しても、部品のかけらも出てこなかった理由が明確になりました。まさしく、残された設計図の一部や写真を手掛かりに、ゼロから復元したわけです。谷口さんが復元されたマシンを見て感激していた背景がこれで分かりました。
【若い人たちに語り継ぎたい】
谷口さんが収集し保管された写真や資料は、ホンダでアーカイブ資料として保管されています。谷口さんの考えは、「昔話に終わることが無いよう、若い人たちが経験できない空白を埋めるために使っていただきたい」というものでした。
2022年は、RC141/142のエンジンを設計した久米是志さん(元本田技研・3代目社長)が逝去されました。そして、そのマシンを駆って6位入賞を果たした谷口尚己さんも後を追うように逝去されてしまいました。当時を知る人は限りなく少なくなりましたが、過去の歴史の中には将来に役立つ宝物が多く隠されています。残された人たちは、その宝物を掘り出して次代に継承していく使命があると思います。
2023年、ホンダは創立75周年を迎えます。モビリティリゾートもてぎのHondaコレクションホールでは、ホンダが世界に認められ飛躍の第一歩になったマン島TTレースに挑戦した足跡を見ることができます。そこには、谷口さんをはじめとする挑戦者たちの情熱が詰まっていて、年代を超えて勇気を与えてくれるはずです。
(高山正之)