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エンタメ

バイクと出会って半世紀。子供の頃、バイクのカタログ集めに夢中になった山形の少年は、学校を卒業すると念願だったホンダに入社。1994年からは二輪広報を担当し、2020年定年退職するまで四半世紀、一貫して広報活動に従事した。バイクブームのあの時代からの裏も表も知り尽くした高山さんの視点でふりかえる、バイク温故知新の四方山話。それが「バイク・承前啓後」。

●第3回「62年前の二輪車新聞に見る報道のチャレンジングスピリット -ライダーも熱いが、報道も熱い。日本を代表して臨んだマン島TTレース-」

 今から57年前の1964年、東京オリンピックが華々しく開催されました。第二次世界大戦で敗戦した日本が、戦争から復興した姿をスポーツを通じて世界にアピールした一大イベントでもありました。私は、白黒テレビにくぎ付けとなって、日本人選手に声援を送っていました。
 このオリンピックから5年前の1959年、ホンダチームは世界で最も過酷と言われたマン島TTレースに初めて挑戦し、125ccのライトウェイトクラスでメーカーチーム賞を獲得しました。優勝ライダーとのタイム差は歴然としていましたが、現地では日本メーカーの技術力の高さと、日本人ライダーの奮闘ぶりが賞賛されました。私は、当時のチームメンバーからいかに大変なレースだったかを聞く機会がありました。
 そして、チームの挑戦記は様々な書籍でも紹介されてきましたので、ご覧になった方も多いと思います。レースは、ライダーとマシンが主役ですが、それを報じるジャーナリストの役割がいかに大きいのかを痛感させられた記事があります。その一端をご紹介させていただきたいと思います。





 ここに、1959年6月11日発行の「二輪車新聞」があります。私が入手したいきさつは、2009年にマン島TTレース参戦50周年の取材対応をしていた時でした。
「高山君にあげるよ。当時の様子が手に取るように書いてあるから参考になると思うよ」と、谷口尚己氏から差し出され、昨日の新聞をもらうような軽いノリでいただいてしまいました。
 谷口氏はご存知のとおり、初出場のマン島TTレースにおいて125ccのワークスマシン「RC142」を駆り、ホンダチーム最高位の6位入賞を果たした社員ライダーです。その時でさえ、50年前の新聞ですから黄ばんでおり、匂いも年月を感じさせるものでした。恐る恐る開いてみますと、そこには、報道に携わる者にとって、手本とすべき内容が詰め込まれていたのです。そして、スポーツ記事には欠かせない臨場感も伝わってきます。すでに62年も前の二輪車新聞ですから、当時の取材の様子はうかがい知れませんが、私の想像を膨らませながら、感動の記事を辿ってみたいと思います。

谷口さん
谷口さん
1959年荒川のテストコースにて、谷口尚己選手とRC142。RC142は、ホンダがマン島TTレース用に開発した125ccのワークスマシン。荒川テストコースは、埼玉県大和町(現和光市)に建設された本田技研工業のテストコースで、2本の直線路を結んだ形状で全長は2200メートル。コーナリング性能を試すようなコースではなかった。右(スマホ版では下)は2009年ツインリンクもてぎにて、谷口尚己氏と50年ぶりに復元されたRC142。このRC142の復元車は、ツインリンクもぎにあるHondaコレクションホールで展示中。

 二輪車新聞は、二輪業界を代表する新聞として1959年1月に創刊されました。このマン島TTレース詳報は、創刊から半年しか経過していない時に発行されたもので、二輪車新聞社の創業者である木村襄司氏が、マン島現地で取材されたものです。
 当時のホンダチームメンバーの話では、飛行機で海外に行きレースに出場することは、二度と日本の地を踏む事ができない覚悟が必要だったと聞いています。立場は違いますが、取材するジャーナリストも相当の覚悟をもって渡欧したものと思います。
 通信手段では、現地から国際電話をかける時には、半日も待たされることがあったと聞いています。現在と比べると想像もできないほど厳しい環境下で取材をされた訳です。
 そのような状況を思いながら読んでいきますと、マン島もオートバイレースも知らない人にも理解できるように、ひとつひとつ丁寧に説明しています。当時の日本では、海外の本格的なレースを紹介した出版物は無いに等しいものでした。そのため、レースの展開だけでなく、ホンダチームや日本が置かれていたレース環境や日本の工業技術についても分かりやすく報じています。その中から抜粋させていただいた文面を紹介いたします。

=ホンダチーム以外の海外メーカーは、欧米のプロ選手が出場している。彼らは、国際的な大レースに何十回、何百回と出場しており、マン島のコースも眼をつぶっていても走ることができるほど。日本には、本格的な練習場所が無い。ホンダチームはマン島に着くまでに、TTレースに出場予定のRC142は5段と6段のギアを使ったことが無い。荒川のテストコースは狭いため、4段にもっていくのがやっとである=
と、伝えています。この説明で、ホンダチームと海外チームの力量の差や、事前の走行テスト環境の違いが理解できます。当時は、マシンを船便で運んでいましたので、マシン製作とテストに費やせる時間は、欧州メーカーに比べると大きなハンディがありました。 

ホンダチーム
1959年 ホンダチーム集合写真 マン島TTレースにて。


 また、レース終了後にホンダチームを率いる河島監督が語った内容の一部を紹介いたします。
『本田として、いや日本のオートバイ工業、日本人、日本の国としてこのレースに参加したということは非常に有意義だったと思います。』

 続いて本田宗一郎社長のコメントも興味深いものがあります。
『部品はほぼ国産品でまかなえたが、プラグ、タイヤ、チェーンだけはどうしても国産品でやれなかった。~途中省略~ 来年は全部国産でまかないたいと思っている』
 両氏のコメントからは、日本の代表として出場し、日本の工業技術を向上させていこうとする決意が感じられます。

 1959年にホンダチームが初めて出場したマン島TTレースは、二輪車新聞の木村記者にとっては一企業のチーム参戦記事に留まらず、日本を代表した報道として、日本の企業が世界に進出するためには、国際的なレースで技術力を証明する必要性を力説しています。レースがスピードを競うように、この二輪車新聞も驚くようなスピードで発行されています。6月3日の決勝レースとその後の表彰式などを取材した後に、1週間後の6月11日に発行しているのです。この記事に呼応するように、翌年の1960年にスズキが、1961年にヤマハがそれぞれマン島TTレースに挑戦し、世界に飛躍するためのスタートラインに着いたのでした。
 この二輪車新聞は、日本のオートバイメーカーが世界に飛躍する夜明け前の状況を伝える貴重な資料として、沢山の人たちに読んでいただきたいと願っています(※スマホでご覧いただく場合、拡大すると見にくいかもしれませんが)。

二輪車新聞
当時ほとんどの日本人にとって未知だったマン島レースを伝える二輪車新聞 1959年6月11日号。ジェット旅客機はすでに就役していたが、通信手段は脆弱だった当時、遠く離れたマン島のレースをわずか1週間で紙面することはたいへんなことだった。二輪車新聞は毎週金曜日発行。二輪業界新聞の老舗であり、もちろん現在でも購読可能。興味のある方は。こちらで

二輪車新聞
一面だけではなく二面もびっちりと特集記事で埋められた紙面。当時はもちろん、現代にも、マン島TTレース初出場の模様を記録した貴重な情報源であり資料でもある。(Special Thanks 二輪車新聞)


高山正之

高山正之(たかやま まさゆき)
1955年 山形県庄内地方の片田舎に生まれ、1974年に本田技研工業に入社。狭山工場で四輪車組立に従事した後、本社のモーターレクリエーション推進本部ではトライアルの普及活動などに携わる。
1994年から2020年の退職まで二輪車の広報活動に従事。中でもスーパーカブやモータースポーツの歴史をPRする業務は25年間に及ぶ。二輪業界でお世話になった人は数知れず。現在は趣味の高山農園で汗を流し、文筆活動もいそしむ。晴耕雨読の日々。愛車はホーネット250とスーパーカブ110、リードというもちろんホンダ党。トライアルにも造詣が深い。


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2021/02/25掲載