第二次世界大戦に敗戦後、1950年代半ばから急速な経済成長を遂げた日本。1960年代になると力を付けた国内二輪メーカーは世界市場、特に巨大なマーケットである北米への輸出を本格化すべく試行を重ねた。今日では押しも押されぬ大排気量メーカーのカワサキだが、北米において初めてシカゴに駐在事務所を開設したのは1965年7月。この年の10月、待望の大排気量車W1が完成、いよいよ北米輸出に本腰を入れ始めた。これは、そんなカワサキの海外展開黎明期に単身渡米したサムライ、種子島 経氏の若き4年間の日の奮闘の物語である。この経験が、後にマッハやZの誕生に大きく関わるのだが、それはまた後の物語である。
※本連載は『モーターサイクルサム アメリカを行く』(種子島 経著 ダイヤモンド・タイムス社刊・1976年6月25日発行)を原文転載しています。今日では不適切とされる語句や表現がありますが、作品が書かれた時代背景を考慮し、オリジナリティを尊重してそのまま掲載します。
マドンナのたたり
私が、生まれて初めての運転事故を、こともあろうに米国の地で経験したのも、直販開始後間もないクリスマスに近いある金曜日の夜だった。
その夜私は、中西部代理店のサービスマネジャーであるデーブという男を連れて、ロサンゼルス市内のラ・シェネガ通りにある馴染みの店に現われた。日本料理屋であるこの店の食いものは、スキヤキ、テンプラという典型的な米国風日本食で、私たちが手銭で食うには適さないが、日本食に馴染みのない米国人には、極めてよろこばれたからである。
実はこの店には、もうひとつお目当てがあった。私だけでなく、当時ロス在住のいわゆるアメチョン日本人が、一様に甘ずっぱい思いを味わったマドンナがいたのである。関西のさる音楽学校を出たという彼女は、ピアノも歌も本格的で、毎晩八時、彼女がピアノの前に坐って「通りゃんせ」を弾き始めると、その周りは私のような渇仰男で満員になったものだった。
その夜も、私たちは、八時にはピアノの前に移動した。いつもの例で私が彼女のピアノに合わせて歌い始めると、サービスマネジャーのデーブは、「サム、ザ・シンガー」の意外な才能に、繰り返しスコッチの乾杯をふっかけた。バーテンが、ウオッカベースのカクテルをすすめてくれ、「これはうまいな」とほめたら、なんとマドンナが、「それ、私がおごるから、どんどん飲んでちょうだい」ときた。
感激してどんどん飲んでは歌っているうち、ボーイが、「あちらのお客さんから」と、スコッチを持ってきた。酔眼で眺めると、日本女性らしい二人組がうなずいている。ヒョロヒョロしながらお礼に参上すると、「あなたの歌がお上手なので」というわけである。デーブもすかさず割り込んできて、男女二対二の話がはずんだ。
戦争花嫁で目下別居中というA子の住まいはすぐ近くだが、自動車を持たぬので、「タクシーで帰る」と言う。B子は、ハワイの二世で、今日遊びに来たところだという。日本語は、ほとんどしゃべれない。「送りましょう」ということで、私がハンドルを握った。
視点も定まらぬほど酔っているくせ、ベラベラしゃべりながらサンタモニカ通りの交差点を横断した瞬間、すさまじい衝撃を受けて、自動車は止まり、私はわれに返った。路上駐車している車五〜六台の横っ腹をえぐっているのだ。
デーブはさすがにもの馴れていて、女性二人を近くの食堂に避難させ、「警察に電話するぞ」と言う。
見ると、フロントバンパーが右前輪に食い込み、とても走れる状態ではないし、逃げ隠れする気もないので、有金全部をデーブに渡し、「警察なんか嫌いだ。なるべく早いとこ保釈になるよう、走り回ってくれ」と頼んだ。
やがて、ヒュルヒュルビュルと例の音を響かせ、天井の赤ランプをクルクル回した(CHP Californian Highway Patrol )が二台やって来た。簡単な現場検証の後、私はその一台に放り込まれた。ボブは、もう一台に乗せてもらった。
警察でも、簡単な取り調べだけで、ただちに留置場に入れられた。かように、現場でも、警察でも、酩酊度の検査がなされなかったのは、おそらく警察の手落ちであろうが、そのおかげで私は、なんとか助かる幸運に恵まれるのである。
留置場には貫禄十分の黒人が一人頑張っており、私はこんな場でのあいさつなど知らぬままに、「ハーイ」と一声掛け、酔いにまかせてグッスリ寝入ってしまった。
「ミスター〇〇、ミスター○○」と、しきりにわが名を呼ばれて目覚めると、留置場の中は、種々様々のオッサンたちで、今や超満員。腕時計は午前三時を示しているので、約四時間眠らせていただいたわけになる。
この後、初めて風船を吹かされたり、両手を頭の後に組んでまっすぐ歩かされたりしたが、四時間の熟睡が利いて、大した反応は出なかったらしい。警官の前で、数種類の紙にサインさせられた後、私服の男に渡された。
彼は、保釈金の保険屋で、欧米にかような制度があることは、法律学生時代に学んだことがあるが、まさか自分がその世話になることがあろうとは、夢にも思っていなかった。手続き一切はデーブが済ませ、二十五ドルの保険金も支払い済みだったから、指示された箇所にサインすればよかった。
かくて釈放である。ロサンゼルスとはいえ、師走の明け方は冷たく、デーブはポケットに手を突っ込んだ不景気な格好で、出口に待っていた。
「おかげで助かったよ」
「まあ、やれやれだな。さあ、帰ろう。もう四時近いぜ」
「帰る? どこへ?」
「ガーデナさ」
「冗談じゃないぜ。今から独身アパートやモーテルに帰ってどうなるもんかね。突撃あるのみ」
「どこへ?」
「彼女たちのアパートにきまってるさ。このまま引っ込めるかい」
私は、A子の住所と電話番号を、チャッカリメモしていた。私たちは、タクシーで乗りつけた。
翌朝、十一時頃起きて事務所に電話した。土曜日といっても、創生期のその頃は、幹部一同、必ず出社していた。いつも一番に出て来る私が姿を見せず、アパートに電話しても答えはなし、おまけにとかくのうわさのあるデーブまで消えているので、みんな心配しているところだった。
「どうしたんだ。どこにいる。今日は出社しないのか」うるさく問い詰めるのを振り切り、急ぎの用事がないことを確かめて、午後アパートに帰ること、月曜日はいつものとおり出社することだけを告げた。関係者にはいずれ打ち明けざるを得ないにしても、女がらみの酔っ払い運転事故など、下手したら即時帰国命令のネタにもなりかねず、慎重な扱いが必要であった。
デーブと私は、A子に朝昼兼用のいわゆるブランチをご馳走になって退散した。それから二人は、タクシーで事故現場に行った。
被害車は一台もいなかった。左の横っ腹をえぐられただけで、車への出入りにも走行にも差し支えないので、加害車にきまっている私のコルベアのナンバーをガッチリ書きとめ、「ガッデム」「ガッデム」言いながら帰って行ったことであろう。
私たちは、ガソリンスタンドで道具を借りて、応急修理にかかった。前輪に食い込んでいるパンバーを引き離してなんとか走れる状態にし、さすがにフリーウェイは遠慮して、市街地伝いにガーデナまでたどりついた。そして、なにはともあれ、会社の保険を一手にまかせたばかりの保険代理人に電話した。
「よし来た、まかしとけ。君の車も、相手の車も、保険でカバーするようにしよう。月曜日に警察で調べて、相手の一人一人に私から連絡するが、それ以前に先方から電話があったら、君自身は一切コメントせず、私と話すように言ってくれ」
「すまんな」
「なーに、これが私たちの仕事さ。ただしサム、言っとくが、酔っ払いの運転の判決が出たら、保険は一切駄目だよ。酔っ払い運転となれば、運転免許も停止されるよ。君の話では、実際には弁解の余地ない酔っ払い運転だが、争い方次第で無暴運転に持っていけそうだし、そうしないことには破産だぞ。いい弁護士を立てることが絶対必要だが、心当たりはあるかね」
「ない」
「じゃあ私の友人を紹介しよう。交通事故専門で、一流クラスだ。今日は土曜日だし、家にいるかどうかわからんが、連絡してみて、五分後に電話する」
弁護士は折よく在宅していて、彼の家で落ち合った。
「無暴運転にすべく努力しよう。うまくいったら罰金五百ドル、それに私の手数料は五百ドルが相場だが、よろしいな」
よろしいとかよろしくないの段ではない。酔っ払い運転で免許証を取られては、私の場合、仕事にならない。なにがなんでも免許証を保持して、生き延びたかった。
帰り道、私の車を修理に出し、保険代理人にアパートまで送ってもらい、今度は会社の関係者二名に電話して来てもらった。幸か不幸か、ボスは日本に行っていて不在だった。
「こういう次第で、面目ないけれども千ドルいる。私のふところ具合はご存知の通り。半年以内に必ず返すから、なんとか用立ててほしい」
「千ドルでも二千ドルでも都合するから、キチンと解決して下さい」と、頼もしく言ってくれたのは、経理資金担当という役目柄、日頃金を使う立場の私とはつかみ合わんばかりの激論を戦わすことの多かったK氏で、この一言はうれしかった。
一人になって、いきなり車の横っ腹をえぐられた人々の迷惑を考えた。また、もし酔っ払い運転の判決を受けた場合には、五〜六台の車の修理代をすべて自弁し、罰金と体刑を受け、免許証を取られる、となる。全くふんだりけったりというわけで、「えらいことをやらかしたなあ」と、改めてホゾを噛む思いにとらわれた。
そのうち、被害者から、次々に電話がかかってきた。警察で私の名前と電話番号を調べ、「一体どうしてくれるんだ」とどなり込んできたわけである。性別、年齢、さまざまで、明らかに黒人の男らしい野太い声もあった。しかし、「保険で処理する。代理人と話してくれ」と、彼の名前と電話番号を伝えると、それ以上グズグズ言うことはなかった。自動車事故と保険とが、それだけ生活の中にとけ込んでいるのであろう。
その後は、私あての電話もなかったし、彼ら、彼女らの顔を見ることもなかった。
年を越して一九六七年二月、判決を受けた。交通事犯ばかり数十人、ズラッと並べておいて、罪の重い順番に名前と罰を読み上げ、服すればそのまま罰金納付に移行するし、不服なら正式 裁判を要求する例の代物である。私に対しては、予想通り、「無暴運転で五百ドルの罰金」であり、有難くお受けした。罰金は個人の小切手は受け付けないので、私の電話により、K氏が、五百ドルの現金を持ってガーデナから走ってきた。
無暴運転でおさまったのは、酩酊度の検査が遅れ、検出されたアルコールが少なかったことと、弁護士の工作が、原因だったようである。
「その後、酔っ払い運転は二度とやりませんでした」などと言っては、天を欺くことになろう。しかし、長距離運転をひかえている場合にはビールしか飲まない、自分で運転するのが避けられない場合は経験のないカクテルに手を出さないなど、いくつかの不文律を確立したのはこの時であり、この手痛い体験なかりせば、私は、米国か欧州の高速道路でのたれ死を遂げていた公算大なのである。そう考えれば、安い授業料だったといえよう。(続く)
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