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レース・イベント

■文:佐藤洋美 ■写真:赤松 孝 ■写真提供:若井十月


フラミンゴ(flamingo)はアフリカ、南ヨーロッパ、中南米の塩湖や干潟に生息する。塩湖やアルカリ性の湖といった特殊な環境に適応しており、数千羽から百万羽程度の巨大な群れを形成する。フラミンゴという名前はラテン語で炎を意味するflammaに由来しているとされる。

1980年代後半から1990年代初頭、ロードレースが華やかな輝きを放っていた時代を若井伸之は生きた。180cmと長身で手足が長く痩せていた。その身体を折りたたむようにGP125ccマシンに密着させ、激しいコーナリングを見せ、イン側の肘や膝を擦った。その姿が優雅なフラミンゴのようだった。

今も、スペイン・へレスサーキットの1コーナーアウト側に、若井の死を悼み、フラミンゴの像がたっている。

父親に怒られても変らなかったレースへの思い

 伸之は茨城県の筑波サーキットで、グランドスタンドを埋める満員の観客、スタートの時の静寂、シグナルグリーンと共に爆音を響かせ飛び出す精鋭たちのバトル、スピード、観客の怒涛のような声援、そして、歓喜をもたらすチェッカーフラッグの感動を味わう。レースの魅力は、伸之の心をバズーカ砲並みの威力で撃ち抜いた。

「カッコイイ~! これだよ。俺が探していたものは、これなんだ」

 震えるような思いで胸が一杯になった。

 時代はバイクブームの中にあった。1982年、『汚れた英雄』(大藪春彦の小説)が映画化された。主人公・草刈正雄のスタントを務めたのが、当時、全日本ロードレース選手権の最高峰500ccクラスではルーキーだったヤマハの平忠彦だった。ノービスライダーのスターとしてモリワキから宮城光が登場し、レースがブームとなり、サーキットの走行券を求める長打の列が出来ていた。

 1983年、ロードレース世界選手権(WGP)500ccクラスでは、キングと呼ばれたケニー・ロバーツ(YAMAHA)が、若き天才ライダー、フレディ・スペンサー(Honda)とタイトルを掛けての一騎打ちを演じていた。ケニーは、このシーズン限りで引退を決めていて、最後のチャンピオンを欲し、スペンサーは初めてのチャンピオン獲得に燃えていた。アメリカ人ライダーである二人の激突は、メーカーの威信を賭けた戦いでもあり、熱狂的なヨーロッパのファンを巻き込んで世界的な注目を集めていた。このシーズンを通して優勝したのはこの二人だけで、この年、唯一の日本人ライダーとして参戦していた片山敬済は、ケニーVSフレディのバトルを「神々の戦い」と呼んだ。最終決戦ではケニーが優勝するも、フレディが2位となったことで史上最年少のチャンピオンに輝く。この熱戦の余波は日本にも届いていた。

 この年、全日本ロードレース選手権では平忠彦がチャンピオンに輝き、スターライダーの道を歩み始める。相次いでレース専門誌が創刊され、WGPや国内のレースニュースが、よりリアルに世の中に広まるようになる。1984年には世界を目指すライダーを描いた『バリバリ伝説』(1983年~1991年)がライダーたちの愛読書となり、夢を掻き立てた。伸之にとって『バリバリ伝説』はバイブルだった。WGPに出かけるようになっても、気分が沈んだ時、心機一転、気合を入れるために取り出すのはこの本だった。

若井伸之

 「ライダーになる」──思い込んだら止まらない性格は、存分に発揮されることになる。週末になると森山巧(バイクショップ「オートボーイ」の店長)の車に乗り込み、練習に付き合い、レースを学ぶようになる。貪欲な伸之は各コーナーでライダーを食い入るように見つめ、そして森山の動きを追った。筑波サーキットは作業場とピットが離れている。プライベーターの森山は駐車場が整備場で、華やかなワークスチームが陣取るピットから離れた場所でマシンを整備し、走行時間になるとマシンを押して整備道具一式とピットボード、スペアのタイヤなどを含めた大きな荷物をコース脇のピットへと運ばなければならない。走行時間が迫り、伸之に手伝ってもらおうと探しても見つからないことが良くあった。森山との約束をすっかり忘れ、レースを夢中でみているからだ。

 「まったく、どこに行っているんだよ。研究熱心なのは、いいけど……」と森山を途方に暮れさせた。仕方がないので森山は自分で持てるだけの荷物をなんとか持って、ヨロヨロとピットに向かうことになる。若井は焦って追いかけてきては「すみません」と謝って、懸命に手伝った。

「レース界は見た目の華やかさとは違って、むちゃくちゃ体育系な世界。手取り足取り教えるなんてことは皆無で“見て覚えろ、盗め”といった世界。俺も甘いことは言わなかったし、何も教えた覚えはない」

 森山は、そう振り返る。

 若井はレースにのめり込み、レース以外のことはどうでも良くなる。高校卒業を控え、進路相談の季節が巡って来た。伸之の中にはバイクしかなかったが、バイクで生きていけるわけもなく、大学受験に挑むが失敗。母・義子は、伸之が子供の頃から乗り物の絵を好んで描いていたことを思い出しデザインの勉強を薦める。伸之はインダストリアルデザイナー(工業デザイン)の専門学校に入学した。

 1985年鈴鹿8時間耐久に、ドリームチームが誕生する。惜しまれつつWGPを引退したケニーが、日本の平と組み参戦した。トップを独走しながらトラブルでリタイヤするのだが、その雄姿を一目見ようと、鈴鹿サーキットには15万人以上が詰めかけ、社会現象としてTVのニュースに取り上げられる。作家・五木寛之は「現代の若者のおいせ祭り」と8耐を称し、鈴鹿8耐を舞台にした小説「冬のひまわり」(1984年の8耐が舞台、発売は1985年)を書いた。この年、WGPではフレディ・スペンサーが250ccと500ccのダブルタイトルを獲得する偉業を達成している。

 1985年8月12日、羽田空港を離陸し大阪に向かった日航ジャンボ機が、午後6時50分頃、後部ドアの破損を訴える緊急連絡の後、消息を絶った。午後9時すぎ群馬県の御巣鷹山の尾根で機体が発見され、奇跡的に4名の女性が救出されたが、乗客乗員520人が死亡するというわが国航空史上最悪の惨事が起きた。メディアが繰り返しこの事故の模様を伝え続けていた。何が起きるのかわからないという不安は、返って伸之に「好きなことに打ち込みたい」という気持ちを強くさせた。

 バイクブームの中で、少年たちの心を捕らえたレースの魅力は媚薬のように浸透していた。伸之の仲間からもレースを始める者が何人か出るようになる。1985年に伸之は筑波の50ccレースに参戦、次にはRZ50を買い、オートボーイを拠点に整備を始める。学校帰りに寄っていたオートボーイ通いが、春を過ぎ初夏の風が吹く頃には、朝からオートボーイの門を叩くようになる。森山が出勤すると、すでに伸之がいる。いつしか、学校は伸之の中で忘れられて行った。

「学校にいる奴とは全然、合わなかった。バイクに乗っている方が断然いい」

 伸之は学校を辞めてしまう。だが、このことが父・一の逆鱗に触れる。

 「男が一度、やると決めたことを、そんなに簡単に投げ出すようなわがままは許さない。好き勝手なことをやるなら一切協力はしない」と烈火のごとく怒った。父親に怒られても伸之のレースへの思いは変らなかった。

 だが、モータースポーツは貴族の遊びから発展したもので、もともと金持ちの趣味、という側面もある。それでもレースに夢中になるのは、金持ちだけではない。マシン、タイヤ、ヘルメット、ツナギ、工具、そして、移動のための車、エントリー費用や遠征費。必要なものを揃えるだけでも何百万単位だ。更に活動費が最低でも年間200万円から300万円はかかってしまう。そして、勝とうと思えば高いパーツが欲しくなる。

 伸之は、朝、昼、晩とアルバイトを掛け持ちするようになる。廃品回収のバイトは時間に縛られることがなかったことからメインの仕事になる。友人たちは、伸之に代わってボロ布や古本を集めてくれた。朝一番に電話が鳴り、友人たちが集めた廃品を回収する。通常は車で走りながらマイクで「こちらは廃品回収車です~。ご不要になった」と呼びかけるのだが、伸之は友人たちの協力で効率良く仕事をこなした。

 仕事を終えると拡声器の付いた廃品回収のトラックでサーキットへと向かった。合間を縫うように、TVの舞台装置を作るバイトや、ペンキ塗り、お金になることはなんでもやった。いつも擦り切れたような服を着て、食費を削り、ガリガリにやせていたが、瞳だけはギラギラに輝いていた。好きなレースのためなら、なんでもした。

ヒョロヒョロと背が高く大人びた雰囲気の伸之と小柄な原田とのデコボココンビ

 日本経済は海外輸出の拡大によって爆発的な成長を続けていた。1980年代半ば、戦後わずか30数年にしてGNPレベルではアメリカ合衆国に次ぐ経済力を持つ奇跡の復興を完成し、人々の生活は有史以来初めてといえる豊かさになった。

 1987年、F1日本グランプリが鈴鹿サーキットで開催され、NTT株が上場し財テクブームが起き、保険会社がゴッホのひまわりを53億円という高額で落札したことを皮切りに有名絵画の購入ブームが始まる。日本の外貨準備高が西ドイツを抜き世界1へ、東京都の1年間の地価上昇は85.7%、銀座などで1坪1億円を突破するところも現れる。

 1980年代後半、世界屈指の豊かな国となった日本は、表面的な生活と文化は欧米的に進歩し、自由と平等を謳歌し、これらの基盤の上に現代日本独自の文化が生まれるようにもなった。人々の目が海外へと向けられ、様々な分野で「世界」が夢から現実となって行った。

 伸之は、1986年にはHonda RS125を購入してロードレースに参戦を開始し、生活はバイク一色へと塗り込められていく。バイクブーム全盛期であり、エントリー台数は300台、400台と膨れ上がり、予選を突破して決勝に残るのは至難の技だった。伸之も決勝に残ることはなく、ひたすら練習の日々を過ごす。その厳しさが「いつか必ず決勝へと残って暴れてやる」と伸之の闘争心を熱くさせた。

若井

 オートボーイのチーム員は3人に増え、助け合いながらレースを続けた。ライセンスの取得や、レース参戦のためのエントリーなどは森山が代行した。森山は国際A級に昇格し、チーム員をまとめながら世界に行く夢を追いかけていた。

 ミニバイクレースの時とは異なり、予選、決勝と週末を使って泊り込みの遠征となる。予選日の早朝にバンにマシンを積んで、サーキットに到着し、駐車スペースをみつけ、タープを張り、夜までかかる整備のため照明設備も整えて、整備場所を確保する。エントリーを確認し、走行券を受け取る。
次は車検だ。ヘルメット、ツナギ、グローブ、ブーツ、そしてマシンがMFJ(モーターサイクルフェデレーションジャパン)の規定をクリアしていなければならない。安全を担保出来ないものは、はねられてしまう。また、一定のルールの元で行われる競技のため、レギュレーション違反がないかなどをチェックするのだ。車検を終え、走行時間まで更にマシンチェックし、タイムアップするための微調整をしなければならない。ライダーとしての感覚やテクニックを磨かなれば速くは走れない。レースは奥深く難しく、だからこそ、伸之の闘争心を刺激し続けた。

 1987年、伸之は森山と宮城県にある西仙台ハイランドに練習に出かけた。森山も初めて走るコースだった。アップダウンがあり、タイトなコースレイアウトを持ち攻略するのは難しい。森山は国際A級ライダーとしてキャリアを積んでいたが、伸之はノービスライダーの初心者だった。だが、伸之は森山のテールにくらいつきにサーキットを疾走した。

 この時、森山は「こいつは、もしかしらた只者ではないのかも知れない」と伸之の才能を認知することになる。この頃、オートボーイには名門チームのヨシムラで活躍し、RTカタヤマに移籍した国際A級ライダー・喜多祥介が近所に引っ越してきたことで、頻繁に訪れていた。レースを始めたばかりの伸之にとっては雲の上の存在である、喜多の話が聞きたくて、伸之のオートボーイ通いは更に頻繁になった。喜多がモトクロスをトレーニングに取り入れていたことから、伸之もモトクロスを始めるようになる。

 この年、その後に天才ライダーとして世界を震撼させることになる原田哲也もミニバイクレースからロードレースへとステップアップして来た。原田は17歳、伸之20歳、年齢が近かったこと、同じ千葉県出身ということもあり、自然に話しをするようになる。ヒョロヒョロと背が高く大人びた雰囲気の伸之と小柄な原田とのデコボココンビだったが、二人は気が合った。伸之は誰よりも速く原田の才能を見抜いていた。

 原田の才能は群を抜いており、ライダー仲間たちが「原田を見に行こうぜ」と原田の走りを見るためにギャラリーが集まるほどだった。同じノービスライダーではあったが、一緒に走り出せば自分と原田の違いを敏感に感じていた。原田は5歳の時からポケットバイクに乗り、毎週のようにレース参戦し、ミニバイク、ロードレースへとステップアップしていた。同じように育った子供たちの中でも特筆できる速さで、全国にその名を知られる天才ライダーだった。レースキャリアはすでに10年以上、伸之が1年足らずであることを考えると、伸之の才能も特筆できるものではあるのだが、圧倒的なキャリアの差がそこにはあった。
(続く)

若井

(文:佐藤洋美、写真:赤松 孝、写真提供:若井十月)

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2023/04/19掲載