フラミンゴ(flamingo)はアフリカ、南ヨーロッパ、中南米の塩湖や干潟に生息する。塩湖やアルカリ性の湖といった特殊な環境に適応しており、数千羽から百万羽程度の巨大な群れを形成する。フラミンゴという名前はラテン語で炎を意味するflammaに由来しているとされる。
1980年代後半から1990年代初頭、ロードレースが華やかな輝きを放っていた時代を若井伸之は生きた。180cmと長身で手足が長く痩せていた。その身体を折りたたむようにGP125ccマシンに密着させ、激しいコーナリングを見せ、イン側の肘や膝を擦った。その姿が優雅なフラミンゴのようだった。
今も、スペイン・へレスサーキットの1コーナーアウト側に、若井の死を悼み、フラミンゴの像がたっている。
特別な友人・原田哲也
バイクブーム、レースブームが到来した1980年代にバイクに出会った伸之は、1987年には本格的にレース参戦しノービス125への挑戦を開始する。エントリー台数は300~400台、予選は16組、各組上位1~2番手に入らないと決勝には進めないという激戦だった。どのクラスに振り分けられるかも運次第、速いライダーがいるクラスなら決勝進出が難しくなる。更に、分刻みの予選では、アタックのタイミングは1周というきわどさだ。そのタイミングを見つけベストラップを記録できるかが鍵だった。
決勝グリッドに並ぶのは至難の業で、そこで勝ちシリーズチャンピオンを得るには、人並み外れた才能がないと勝ち残れない。この年代を生き残ったライダーたちは、予選落ちの緊張感の中で、タイムアップしてグリッドに進み、選りすぐりのライダーたちと切磋琢磨することで世界レベルの速さを磨いていた。
1987年、原田哲也は筑波選手権でチャンピオンを獲得する。伸之もスポーツランドSUGOをメインに活動し原田とタイトルを争う。チャンピオン決定戦で原田がエンジンストールし、伸之がタイトル獲得、ジュニア昇格が決まった。それを機にレーシングサプライへと移籍する。
伸之は1988年、ジュニア125ccクラス初レースの筑波で決勝ベストラップをマークし、コースレコードホルダーとなる。だが、この年は不調、最終戦で初めて3位で表彰台ゲットするもランキング12位。それでも、手足の長い身体を折りたたむようにしてマシンと一体となった「ひじ擦りライディングの若井」と呼ばれ、その存在感は原田に並ぶものとなっていく。
伸之は原田の家に顔を出すようになる。プライベートでは面倒見のいい伸之が、何かと原田の世話を焼いた。伸之はレース資金のために始めたちり紙交換のアルバイトの合間に、原田家をよく訪ねた。拡声器で「オォーイ、哲也いるかぁー」と叫ぶ。その音に驚いた原田の母が、何事かと外に飛び出す。
原田は「いるから静かにして、僕が“近所迷惑だ”って、母ちゃんに怒られるんだから……」と苦笑しながら伸之を招き入れた。特に用事があるわけではないが、雑談をしてレースの話で盛り上がり、「メシ行こう」とご飯を一緒に食べに行くようになる。原田家に顔を出すのが伸之の日課となった。
原田も、伸之がいることに慣れてしまい、顔を見ないとなんだか忘れ物をしたような気分になった。この付き合いはふたりが国際A級になっても変わらなかった。最後には拡声器を使うことはなくなり、伸之は、自分の家のように原田の部屋に上がってくるようになった。原田に彼女が出来ても、付き合いは変らなかった。伸之にとって原田は特別な友人だった。伸之と原田に、その彼女が加わり、3人でご飯を食べに行くのが定例になる。すでに契約金をもらうようになった原田がご飯代を払うことが多く、伸之はお礼にトイレットペーパーを置いて行く。そして、伸之もバイト代が入ると「今日は俺のおごり、なんでも食え」と振舞った。
「僕はレースに専念できる環境があったけど、若井君はアルバイトに追われていた。練習の機会も少ないし、置かれた環境が違った」
と原田は振り返る。それでも、若井の明るさは変わらず「まー、君も頑張りたまえって感じで、天然なオーラが出まくって、話が止まらない。もっ、言わせてぇ~って感じだった」と言う。国際A級昇格と同時にヤマハファクトリー契約となり、プロフェッショナルライダーとしての重圧を感じるようになった原田にとっても、伸之との時間は大事な時間だった。
若井の家の近所に板金塗装の店があり、そこに同世代の友達が集まっていた。伸之はそこにもよく顔を出していた。そこで、伸之は「俺は世界に行くよ。世界GPライダーになるんだ」と宣言している。
友人たちにとって世界グランプリは遠く、夢物語にしか聞こえなかった。現実感のない話に、集まっていた仲間は大きな声で笑った。伸之は「願えば叶うんだよ」と呟いた。
光GENJIの『パラダイス銀河』が「ようこそここへ 遊ぼうよパラダイス 胸のりんごむいて……」と歌い、好景気を楽しむ世の中の空気は、どこか浮ついているような高揚感の中にあった。
だが伸之の毎日は忙しく、あわただしいものだった。朝起きたらすぐに行動。1分1秒さえも惜しんだ。家族は、伸之がのんびり休んでいる姿をみたことがなかったという。それでも、友人の誘いは断らない。ファミリーレストランで友人と話しながら、「うんうん」と頷きながら睡魔に負け、頼んだパフェの上に顔を突っ込んでクリームだらけの顔を見せ、みんなを笑わせた。溶けてしまったパフェを「ジュルジュル」と啜って「じゃ」と立ち去る伸之は、なんだかすごいことをやらかしてくれそうな友人たちのヒーローだった。
スキーも自分のものにするのにそう時間はかからなかった
オフシーズンに、バイトに追われる伸之を姉・十月がスキーに連れだした。午前中に「どうやって滑るの?と聞かれてボーゲンを教えたけど、午後には私よりすっかり上手くなってヒャッホーー!って後ろからぶち抜かれていました」と言う。
伸之にとって2回目のスキーには原田を誘っている。この時は兄の紀良、姉の十月と兄の友人たちも一緒だった。初心者なのに、伸之も原田も上級者コースに連れていかれ「滑り降りろ」と命じられた。負けん気がムクムクと沸く伸之は、「やってやろうじゃん」と胸を張る。
皆が「冗談だよ。無理、無理するな」と声をかければ「無理じゃねー」と伸之は挑んだ。峰の入り口に立ち、見下ろすゲレンデはまっさかさまに落ちるような錯覚を起こすほどの急斜面だ。伸之の胸が高鳴り、心臓がドクドクと波打っているのがわかる。それでも伸之は、その高揚感を楽しんでもいた。上気した頬を真冬の冷たい風が撫で、伸之はブルッと武者震いする。そして目をつぶり、思い切り急降下めがけ「えいや」と気合を込めて、怒涛の叫び声をあげながら直滑降で滑り降りるのだ。
気合だけですべり落ちる伸之を「マジかよー」と見守る仲間は、唖然としながらも、伸之の行方を目で追った。
紀良は、その時の様子を覚えている。
「38度のコブ斜面を直滑降で突っ込み真ん中の一番大きなコブでジャンプし大の字になって自滅。そのまま30mぐらい吹っ飛びグチャグチャになりながら起きあがり、笑顔で“どうだった?”って。俺の友達は泣き笑いだった」
一緒に来ていて原田は「ありえません」と断言。「怪我したらどうすんですか!」と、直滑降で叫び声と共に谷に消えて行く伸之を見て「ボクはこっちから行きます」と林間コースをボーゲンで堅実に滑り降りた。十月は「下に着くのは哲也くんが早かった」と振り返った。
伸之は持ち前の運動神経で、たいがいのことはクリアしてしまった。フォームなんてめちゃくちゃだが、度胸と勘の良さで飲み込みも早い、そして要領が良かった。どうすれば目的のものに近くなるのかを瞬時で見極める頭の良さがあった。そして競争となれば「負けるわけにはいかない」と闘争心を燃やすのだ。スキーも自分のものにするのにそう時間はかからなかった。そんな伸之を励ますように、ゲレンデのスピーカーから中森明菜がDESIRE―情熱―と熱唱すれば、石井明美がCHA-CHA-CHAと軽快なリズムを刻んだ。
父の会社の社員として働きながらも、レースへとのめり込んで行く
プライベートライダーの常で、レース資金獲得のために若井は相変わらずバイトに追われていた。時間的な都合が付け易いこと、やっただけ金額が上乗せされるちり紙交換のバイトがメインだった。得意のセールストークで贔屓の客もあり、なかなかの成績を残していたが、バイトに追われる伸之を家族は心配していた。もうレースをしていることは隠しようがなく、皆が知っていた。十月は差し入れのお弁当を持ってサーキットを訪れるようになる。母・義子は伸之が苦労をしているのがわかっていたが、自分が手を差し伸べてしまえば、父親にそむいてレースを許すことになってしまう。義子は複雑な思いを抱きながら伸之を見守るしかなかった。それでも画家である母は、絵の搬入を手伝ってもらい、高額のアルバイト料をそっと渡していた。
若井家の親戚は実業家や大学教授、医者など固い仕事についている人が多く、十月も紀良も大学を出て上場企業に勤めていた。親戚縁者を見渡しても大学を出ていないのは伸之くらいだった。だが「大学を出て企業に就職することだけが、立派な人生ではない」と夢に向かって邁進している伸之の生き方を肯定し、気にかけ、次第に応援するようになっていた。母・義子は親戚が集まると、みんなに急かされ伸之の近況を報告していた。
だが、父・一だけは頑として認めようとはしなかった。十月は父親に機会がある度に「認めてあげたら」と声をかけたが、父親は首を縦には振らなかった。バイトに追われている伸之は、家族と一緒に食事をする機会がめっきり減った。たまに家族が顔を揃えたとしても、父と伸之の会話はなく、伸之は食事を終えると自室に行くか、出かけてしまった。
伸之はバイトに追われ、いつもお金がなく同じ服を着て、汚れていようが穴が開いていようが関係なかった。自身で車の整備をするためのツナギもボロボロのものしか持っていなかった。レースにかかる車両代、パーツ代などは消耗品も多く、転戦費用など飛ぶようにお金が消えて行く。すでに借金は2~300万円へと膨らんでいた。
十月は隣の部屋に寝ている伸之の寝言を何度も聞いている。
「ギアが……。ウォーン、ウォーン、コーナーがぁ~」
十月が飛び起きてしまうような大きな声で叫んでいる。夢の中でも、レースをしていると思いながら、十月は眠りについた。
「こんなに頑張っているのに、家族が認めてあげないのはおかしい……」
と、十月はついに父・一に手紙を出す。
「伸之を友達が一生懸命応援しているのに、親が知らんぷりはないでしょう。たとえ理解できないとしても、やりたいことに情熱を燃やすノブの生き方は素晴らしい。それが分からないのなら、私も親子の縁を切ります」
と……。
一の心にひとり娘の十月の言葉が突き刺さった。一も伸之が可愛くないわけはない。自分も血気盛んな若い頃に、真剣に相撲に取り組んだことがあった。その情熱を知らない父ではなかった。この手紙をきっかけに、一は伸之と和解する。
一は、自分の会社を継がせるのは伸之という思いがあった。誰とでも打ち解け、人を引っ張る魅力を父は感じ取っていたからだ。だからこそ、レースなどというわけの分からないものに熱中する伸之の情熱が、違うものに向いてくれることを願っていた。一は会社を手伝わせることで、会社経営に興味を持ってくれたらという思いもあり、自身の会社を手伝うことを条件に応援を約束した。
伸之は一の会社の社員になった。朝6時30分に起き、8時には出社した。配達の仕事などのノルマを果たすと、後は自由時間。その時間をすべてレースへと費やした。マシン整備を終え帰宅するのは朝方の3時や4時、それでも決して遅刻はしなかった。優遇されている自分が、他の社員に迷惑をかけるようなことがあれば、一の恩を仇で返すことになる。そんな伸之の真面目な態度は社員にも受け入れられ、取引先の人々までもが伸之を応援するようになる。一の思惑とは裏腹に伸之は会社員として働きながらも、レースへとのめり込んで行く。
1989年、伸之は全日本ロードレース選手権国際A級昇格を果たす。伸之の世界に向けての戦いが始まる。
(続く)
(文:佐藤洋美、写真:赤松 孝、写真提供:若井十月)