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MoToGPはいらんかね

●文:西村 章

 バレンティーノ・ロッシが、今季限りで引退すると発表してから一週間になる。その一週間のうちにいろいろと思い出した、彼を取材してきた日々のいくつかのできごとについて、今回は思いつくままとりあげてみたい。

 とはいえ、バレンティーノ・ロッシのことをよく知っている、などというほど自分は厚顔無恥ではないつもりだ。ただ、MotoGPの世界をそれなりに長く取材することで、結果的に彼のレース活動をずっと追いかけることになったのも事実ではある。

 考えてみれば、四半世紀もの長きにわたり世界の頂点で現役活動を続ける選手、というもの自体が、そもそも稀有な存在である。そして、その不世出のスーパースターの一挙手一投足を比較的近いところでずっと見ることができ、日々の走行を終えた際の質疑応答や、時宜に応じてロングインタビュー等も行ってきた、という経験は、僥倖、といってもいいほどのことだったのかもしれない。

 MotoGPのパドック内外で彼と濃密に付き合ってきた人々は、たくさん見てきた。チームやメーカー関係者を除けば、もっとも彼と交流を深めてきたのは、当然ながらイタリア人メディアだろう。レース実況のコメンテーター、フォトグラファー、新聞雑誌ウェブサイトなど活字媒体の記者等々、彼らは積極的かつ精力的な取材活動を続け、自国が生んだスーパースターの一挙手一投足を熱心に伝えてきた。スペイン、フランス、イギリスなど欧州各国のメディアもそれに準じる。

ロッシ
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#89

 日本に関していえば、とくにロッシのグランプリキャリア初期は日本人選手たちとの交流が篤かったこともあり、当時から日本のファンも親近感をいだく、ある種「身近」な存在だった。125cc、250ccと経てホンダから最高峰クラスへ昇格してきたときには、多くの日本人ファンが大きな期待をもって受け止めただろう。この時期でもすでにロッシは世界的スーパースターで、この先いったいどこまで、その恐るべき才能と人気が突き抜けて上昇してゆくのか、誰もがただため息をつきながら見ている状態だった。

 当時、ロッシをもっとも分厚く取材していた日本人取材者はおそらく、斯界の泰斗、富樫ヨーコさんだろう。この時代のロッシについて記されたマット・オクスレイの名著『バレンティーノ・ロッシ 史上最速のライダー』(講談社)も、富樫さんの翻訳によって日本人ファンの手に届くことになった。この書籍の刊行は2003年で、結果的にはロッシのキャリアでもかなり早い時期の刊行物になったが、内容はいまもなお一読の価値がある。

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 この書籍が刊行される少し前、彼が最高峰クラスに昇格した2000年と翌年の2001年には鈴鹿8耐に参戦した。

 あれからもう20年も経つのか、という気もする。






#46
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 ロッシが当時のホンダSBKエースだったコーリン・エドワーズとペアを組み、HRCファクトリーのカストロールホンダ(2000)、チームキャビンホンダ(2001)から参戦することは、日本のみならず世界じゅうの大きな注目を集めた。当時の鈴鹿8耐は1980年代から90年代中葉まで続いた圧倒的な人気に翳りが差しはじめ、90年代後半になるとピットレーンでの立ち話でも観客数の少なさがあたりまえのように口の端に上るようになっていた。かつての人気を取り戻すために、興行関係者やメディアは様々な試行錯誤を繰り返した。

 余談になるが、アートなどへの造詣も深いミュージシャンが総合プロデューサーを務めたり(たしかに前夜祭ライブはバツグンにカッコよく、おおいに盛り上がった記憶がある)、あるいはいまでいうリアリティ番組で8耐が舞台としてとりあげられたのも、ちょうどこの時期のできごとだ。

 そのようなテコ入れに効果がなかったというつもりはけっしてないが、この当時のできごととしていまも人々の記憶に強く残っているのは、少なくとも2000年と2001年のレースに関しては、やはりバレンティーノ・ロッシ/コーリン・エドワーズ組の参戦のような気がする。

 両年とも、イタリアをはじめとする欧州取材陣は例年にも増して多かった。125ccクラスと250ccクラスではそれぞれに2年目にタイトルを獲得したのと同様に、8耐でも最初の経験(2000年)は、学習のシーズンに終わった。たしかトップを走行中にロッシがフロントを切れ込ませて転倒し(場所はヘアピンかスプーンの進入ではなかったかと記憶する)、リタイアに終わった。このときに結果を出せなかったことは、翌年さらに完成度を磨き上げる材料になり、2001年にはみごとに優勝を達成する。そしてこの秋には、本来の戦いの場である500ccクラスでチャンピオンを獲得。周知のとおり、こちらも2年目のシーズンでの使命完遂だった。

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 そして、ロッシは2003年を限りにホンダを離れ、翌年にヤマハへ移籍する。そういえば、ロッシのホンダ最終年となったこの2003年には、パシフィックGPが開催されたツインリンクもてぎで、何十分かの時間枠をもらって単独インタビューを実施したのだった。ということを、いま、ふと思い出した。

 彼の後年の述懐によると、どうやらこのウィークにホンダとの残留交渉は最終的な物別れに終わったのだとういう。一方、このとき彼にインタビューをする自分はといえば、まさかそんな難しい状況の真っ只中にいるなどとは知りもしない。後年にこの事実を知ったときには、そんな複雑な心境のときに、暢気なインタビュアーの質問をあれこれと受けるのは、いくらプロフェッショナルの仕事の一環とはいえ、精神的にもあまり据わりのよいものではなかったのではないか、と想像もした。思い返してみると、そういえばこのときのインタビューで彼は、なにか微妙に話に乗ってこないような、いまひとつ噛み合わないような雰囲気もあったのだが、おそらくそれはホンダとの残留交渉の難しい心理状態が影響したわけではなく、むしろただ単に、当時の自分の取材技術がいま以上に稚拙だったため、という単純な理由だったのだろう。

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 ヤマハに移籍してさらにスーパースターのステージを駆け上っていった彼は、2005年に自叙伝を上梓する。この書籍は、ホンダを離脱してヤマハへ移籍した〈真相〉が赤裸々に語られていることもあって、大きな話題になった。次々と各国語版が刊行され、各国で20万部、15万部とベストセラーになったことが、そのときの本書に対する注目をよく示している。そんな書籍の日本語翻訳を、どのような経緯で自分が担当することになったのか、いまとなってははっきりと憶えていないのだが、とにかくいろんな意味で苦労をした書籍だった。それだけはいまもなお、鮮明に記憶に残っている。

 本書の著者はバレンティーノ・ロッシだが、当然ながら、彼が直接ペンを取り、あるいはPCを前に原稿を書きすすめていったわけではない。実際に執筆を担当したのは、表紙を開いた扉ページに共同著者として記されているエンリコ・ボルギという人物だ。ボルギは当時、イタリアのバイク週刊誌”Motosprint”のMotoGP担当記者で、毎戦ロッシを精力的に取材し、彼からもっとも信頼されているジャーナリストのひとりだった。この当時のMotosprintは、編集長がステファノ・サラゴニという人物で、彼はロッシの国内選手権時代からその才能に注目してきた慧眼の持ち主でもある。サラゴニはずっとレースに帯同してグランプリ取材を担当していたが、編集長職に専任するにあたり、現場担当をボルギに引き継いだ。

 ロッシ自叙伝の翻訳を進めるにあたっては、記述内容等に何らかの疑問点が出てきたとしても、そのときはパドックでボルギに直接問い合わせればよいのだから、その意味ではこちらにとっても便利だし、都合がよかった。

 しかし、翻訳作業を開始してしばらくすると、予想もしなかった事実を発見してしまった。

 本書の訳出は、基本的に英語版を底本としていた。出版スケジュールの関係で、本来ならオリジナルであるはずのイタリア語版よりも英語版のほうが先に発売されたためだったと記憶する。

 英語版からの翻訳だと重訳になるため、平行してイタリア語版も参照していたのだが、その作業中にところどころ、両版の記述で噛み合わないところがあることに気づいた。最初は自分の語学能力が低いせいかと思ったのだが、どうやらそういうわけでもなく、両版の各テキストをつぶさに比較してみると、どうも英語版はオリジナルのイタリア語版から端折っている箇所があるらしきことがわかってきた。

 英語版の大半は、オリジナルに忠実に訳されている。しかし、いくつかの章によってはイタリア語版の半分ほどのページ数になっている部分もあった。

 これを知ったときは、ちょっと呆然とした。

 ボルギにその旨を話すと、彼らも当然そのことを知っており、英語版訳者に対してあまりよくない印象をいだいている様子だった。

 念のためにスペイン語版も入手して調べてみると、こちらも最初に刊行された英語版を底本にしていたためか、同じような箇所に抜けがあることがわかった。ただし、おそらくスペイン語版担当者は翻訳時に抜けに気づいたのか、英語版と同様にごっそりと抜けている場所がある反面、英語版で脱落していたところでもオリジナルに忠実に訳し戻されている部分もかなりの箇所にわたってあるようだった。

 いずれにせよ、これでは英語版のみを全面的に信頼するわけにもいかないので、途中からはイタリア語版を隣に置いて、そちらを底本として英語版と逐一比較しながら翻訳作業を進めていった。作業としては倍の手間がかかり、面倒なことこのうえない。作業量が増えた分だけ翻訳費用をたくさんもらえるわけではけっしてないのだが、そうはいっても、オリジナルから大幅に割愛された部分があるのを発見してしまった以上、知りませんでした、といまさらいうわけにもいかない。そしてその間にも、翻訳原稿を入稿する刻限はどんどん迫ってくるのだ。

 たぶん、この時期の自分は目が三角になっていたのではないかと思う。

 パドックではレース取材の空き時間を見つけては数行ずつ翻訳し、移動の機内ではそれなりにまとまった時間をとれるので作業に集中し、帰国すると鈴鹿8耐の現場にも持っていってプレスルームで翻訳作業を続けていた。

 これ以外にも本書にまつわる細々とした予想外の面倒なことはいくつも発生したが、なんとか間に合い、予定どおりの出版にこぎつけることができた。

 しかし、脱稿後しばらくして、猛烈な歯痛、しかも前歯から奥歯まで全体的な痛みで何も噛めなくなってしまった。歯科医に行くと、虫歯ではなく、歯根膜炎という歯の根っこが炎症を起こす症状が発生している、ということだった。おそらくずっと歯を食いしばりながら翻訳作業をしていたため、歯の根に大きな負荷がかかっていたのではないか、というのが医師の見立てだった。とにかく口が開かないのと痛みでものが噛めないのとで、数日間は豆腐やヨーグルトのようなものしか口に入れることができず、ロッシ自叙伝を見ると、いまでもこの歯根膜炎の痛みを思い出す。

 とはいえ、翻訳経緯に関する上記の説明からもおわかりいただけるとおり、日本語版の自叙伝は、英版版やスペイン語版にあった記述の脱落箇所がいっさいなく、オリジナルのイタリア語版にもっとも忠実な翻訳になっている。いや、本来そんなことは註記する必要がないほどあたりまえのことなのだけれども。

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 と、このようないきさつを経て刊行された自叙伝の日本語版だが、日本語版がオリジナルのイタリア語版に非常に忠実であるという正確性と、ここで語られている内容の正確性とは、少しわけて考えておく必要がある。

 自叙伝である以上、本書の中で記述されていることはあくまでもバレンティーノ・ロッシという人物のフィルターをとおしたものであり、じっさいに発生した事象の客観的な記録ではないからだ。

 たとえば、本書のハイライトのひとつでもあるホンダ離脱とヤマハ移籍にかかわるあれこれは、赤裸々に語られていることが当時大きな話題になったが、立場が変われば意見や捉え方は変わる。これはあくまで、一方の当事者による一連のできごとの回顧であり、その意味で非常に貴重な証言であることは間違いないものの、それをもって事実と同定してしまうのは、やや拙速のそしりをまぬかれないだろう。

 誰がなにを記述するにしてもなんらかの主観はかならず入り込むので、絶対的に客観性のある記述、というものはそもそもありえない。としても、事実の多面性をさらに立体的に浮かび上がらせるためには、別の側からの証言や異なる視点で見た記述などが不可欠である。

 その意味では、この自叙伝のなかには、ある技術者に関する表現のうち明らかに事実とは異なるであろう、少なくとも(ある種のサービス精神の発露かなにかで)かなり誇張されているとおぼしき描写がある。

 とはいえ、訳者の一存でその部分のみを恣意的に削除するわけにはいかない。ひとり、あるいはひとつのできごとに対してそのような対応を取ってしまえば、他の記述に対しても同様に配慮しなければならない可能性が生じる。このくだりをどうするか、かなり思い悩んだのは事実だが、「あくまで原文に忠実に」という翻訳作業の基本原則に徹し、ひょっとしたら気分を害するかもしれない当事者各位に胸の裡で手を合わせながら訳出作業を進めていった。そのあたりの事情も、ひょっとしたら歯根膜炎の遠因のひとつにはなったのかもしれない。

 それでも本書がバツグンのリーダビリティを持つことはまちがいなく、あくまで彼の視点によるもの、という一定の留保は必要だが、1990年代後半から2000年代前半までのMotoGPの世界に関する歴史的な証言として非常に貴重な記録であることはまちがいないだろう。

 2021年の現在から見ると、これは彼のライダー人生の前半部分、世界選手権生活でいえばわずか10年足らずを振り返ったものにすぎない。本書が世に出たころのロッシは、おそらくこれほど長く自分が現役生活を続けるとは思ってもいなかったのではないだろうか。

 きっと何年もしないうちに、グランプリ生活26年を含むライダー人生すべてを振り返る評伝や、あるいはあらたな自叙伝が刊行されることは、まずまちがいないだろう。それが誰の手によって書かれるのか、また、いつ刊行されるのかはまだわからないし、その日本語版が世に出るのかどうかもわからない。が、まちがいなく世界じゅうの多くの人々に待ち望まれていることだけは、いまでもすでにわかっていることだ。

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 ロッシの華やかさやきらびやかさは、彼のウェア類の優れたセンスにも反映されている。そして、それがもっとも顕著にあらわれているもののひとつが、ヘルメットデザインだろう。

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 いままでにも、ムジェロやミザノのホームグランプリ、あるいは何らかの節目となる機会などの折々に、さまざまなアイディアを懲らしたデザインが採用された。一目瞭然で誰にもわかる面白い絵柄から、説明されてようやく膝を打つ考えオチのもの、あるいはメッセージ性を込めた独特の意匠まで、数多くの種類が披露されてきた。このロッシ歴代ヘルメットは、ずらりと並べればそれだけで充分に一冊の写真集ができあがるほどの豊富なバラエティと高いクオリティがある。

 どれがベストか、という話題は、きっと今後もファンや関係者の間で愉しく論じられるだろうし、じっさいにいままでもこれに類した議論はあちこちで何度も行われてきた。

 そんななかで常に人気が高いのは、2008年イタリアGPと2013年サンマリノGPで使用されたスペシャルヘルメットだ。

 2008年イタリアGPは、開催地のムジェロサーキット1コーナーに突っ込んでいくときの顔、と自ら評する表情が頭頂部にデザインされたもの。他には誰も思いつかないであろうアイディアで、彼がこれを被って走る姿は、笑いを噛み殺したくなるほどのコミカルさもただよう。しかし、そのなんともいえずユーモラスな雰囲気とは裏腹に、このヘルメットを被ったロッシは鬼気迫る走りを見せ、土曜予選ではポールポジションを獲得。そして日曜の決勝レースでは、このときチャンピオンだったケーシー・ストーナーに2秒以上の差を開いて優勝を達成した。その落差の大きさ、という面でも印象的なヘルメットだ。

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 もうひとつ、2013年ミザノのヘルメットについては、多少の説明が必要かもしれない。

 このヘルメットは、ピンクフロイドが1975年に発表したアルバム”Wish You Were Here”と、そのアルバムに収録された表題曲がモチーフになっている。

 この曲の邦題は「あなたがここにいてほしい」。初期メンバーで卓越した才能を備えながら薬物中毒でグループを去ったシド・バレットを惜しみ、そんな事態を招いた彼の精神的な弱さに対する悔しさとかなしみを抱くフロイドのメンバーたちの思いを核にしながら、曲の歌詞そのものはもっと普遍的な広がりを持った内容で、かつて親しかった者がいまは自分の傍らにいない悔しさと喪失感について「おまえがいなくてさみしいぜ」と歌う作品だ。

 また、このアルバムの冒頭と最後には「Shine on You, Crazy Diamond Part1-5」「Shie on You Crazy Diamond Part6-9」が収録されており、その内容がまさにバレットを唄ったものだといわれている。余談になるが、この曲のイントロ部分はスペインGPの決勝日に、夜明け前のヘレスサーキットで会場のスピーカからずっと流されていたことでもよく知られている。

 「Wish You Were Here」とは、以上のような背景を持つ曲でありアルバムである、というわけだ。

 2013年サンマリノGPの際にロッシが採用したスペシャルヘルメットには、このアルバムジャケットの写真が後頭部に配されている。そして、頭頂部には、炎・風・土・水という〈四元素〉を背景にふたつのロボットアームが握手をする絵柄の、こちらも「Wish You Were Here」のアルバムで採用されたデザインが配置されている。

 ロッシがこの年のサンマリノGP、つまり、ミザノワールドサーキット・マルコ・シモンチェッリでこの意匠を採用した理由は、いうまでもなく明らかだろう。
 ロッシの地元タヴリアは、このミザノワールドサーキット・マルコ・シモンチェッリからは指呼の距離にある。そして、このサーキット名称に冠されているマルコ・シモンチェッリも、このサーキットから目と鼻の先にあるカットリカの出身である。ともにホームグランプリであるはずのレースだ。しかし、2011年のアクシデントで命を落とした最愛の後輩は、いまはもういない。「おまえがいなくて、さみしいぜ」という彼の気持ちは、あえてことばに出さなくともこのヘルメットデザインがなによりも雄弁にものがたっている、というわけだ。

 ピンクフロイドはイギリスを代表するロックバンドで、欧州全土で世代を超えた普遍的かつ圧倒的な人気を持つ。それはイタリアでも同様だ。このヘルメットを見ただけで、多くの人は何も説明されなくても、彼がこのスペシャルデザインに込めた思いを理解する。つまり、バレンティーノ・ロッシという存在も、ピンクフロイドという存在も、そしてまたMotoGPというレースについても、常識のようなレベルで皆に知識と教養が共有されている、といってもいいだろう。

 日本でも、もちろんピンクフロイドという名前を知っている人は多いだろう。だが、ロードレースファンやレース関係者という集合と、ピンクフロイドについて何らかのことを知っている人々の集合は、欧州やイタリアのそれと比較すれば(母集団そのものの大きさは措いておいても)重なり合う部分がかなり小さいのではないか、というふうにも思う。

 そんなわけで、事情をすべてご存じの方々にはいまさらよけいなお世話かもしれないけれども、この機に少し詳しく、ヘルメットデザインの背景にあるものの説明を試みてみた次第である。

 おそらくロッシは、これからのシーズン後半戦でも、きっと何度かスペシャルデザインのヘルメットを披露するだろう。はたしてそれらがどんなデザインになるのか、いまから心待ちにしておこう。

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 バレンティーノ・ロッシに関するよしなしごとを思いつくままに書き連ねていると、ほんとうにとりとめがなく、いつもの癖でついだらだらと長いものになってしまった。いや、もうしわけない。

 彼がMotoGPの世界に残してきた数々の大きな足跡と、その折々にライバルたちと繰り広げた熾烈な争いや摩擦等々、レース活動の軌跡そのものについては、やや宣伝めくが、今春刊行した書籍『MotoGP 最速ライダーの肖像』(集英社)にまとめている。そのなかで、バレンティーノ・ロッシについて記した長いながい第一章が、彼のレース活動全体を俯瞰したものとしては、おそらくいまのところは日本語で読めるもののなかでもっともまとまった内容なのではないかと思う。ご興味のある方は、ぜひご一読をいただければ幸甚です。

 そして、これからシーズン後半戦での彼の戦いに関しては、機会があればいつもの駄文コラムで折りに触れて言及してゆくつもりである。なので、今週末を含め、いましばらくお付き合いのほどを。

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【西村 章】
web Sportivaやmotorsport.com日本版、さらにはSLICK、motomatters.comなど海外誌にもMotoGP関連記事を寄稿する他、書籍やDVD字幕などの訳も手掛けるジャーナリスト。「第17回 小学館ノンフィクション大賞優秀賞」「2011年ミズノスポーツライター賞」優秀賞受賞。書き下ろしノンフィクション「再起せよースズキMotoGPの一七五二日」と最新刊「MotoGP 最速ライダーの肖像」は絶賛発売中!


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2021/08/13掲載