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レース・イベント

バイクがくれた、笑顔。 高杉奈緒子、15年目の表彰台
高杉奈緒子というライダーがいる。現在は全日本ロードレース選手権のJ-GP3クラスにエントリーしている。重度の難聴である彼女が、どうしてバイクに乗り、レースを始めたのか。そして15年目の初めての表彰台。笑顔と涙の中にある、高杉奈緒子の壮絶なレース人生。
■レポート:佐藤洋美 ■写真:赤松 孝






 全日本ロードレース選手権第2戦が宮城県スポーツランドSUGOで開催された。J-GP3クラスには26台が出走、不安定な天候で、雨が降ったり止んだりで、予選日は濃霧が発生してスケジュールが大幅に変更されていた。3台が予選落ちとなり、23台がグリッドに並んだ。ポールポジションは百戦錬磨の実力者小室旭、2番手にはロードレース世界選手権(WGP)でタイトルを期待された逸材、尾野弘樹。高杉奈緒子は5番手、2列目に付ける。

 決勝日の早朝はまだ深い霧が立ち込めていた。霧が晴れ、路面は濡れていたがウォームアップランが行われ、高杉はトップタイムを記録する。J-GP3決勝前には薄陽が射すが、路面は所々、濡れていた。ホールショットは小室が奪い、尾野と続いて1コーナーに進入する。最終シケインで高杉は4番に浮上する。トップ4の戦いとなり、小室、尾野が逃げ、高杉は3番手争いを繰り広げる。争うライダーが転倒で戦列を去ると単独3番手となり、小室、尾野に続いてチェッカーを受けた。高杉にとって、全日本参戦15年目の初の表彰台獲得だった。
 

全日本ロードレース選手権第2戦の菅生、J-GP3クラスで3位となった。全日本選手権に参戦して15年目の初めて登る表彰台だった。

 
「これまで何度も表彰台に登るチャンスがあったけど、サーキットに住む魔物?に魅入られていたのか……登ることが出来なくて……。やっと、応援してくれた人たちの恩返しができた」
 レース後の記者会見で高杉は、泣き声交じりの声で、喜びと感謝を述べた。会見場が感動で包まれ、一瞬の静寂を破るように暖かい拍手と「おめでとう」の声が沸き上がり、高杉は、また、泣きそうになっていた。

 笑顔がトレードマークの高杉が涙声で「ありがとうございます」と下を向いて、次の瞬間には笑顔を取り戻していた。ピットウォークでは、パイナップルヘア(髪を高くまとめる)がトレードマークで、輝く笑顔でファンを虜にする。彼女に微笑まれたら、自然に笑顔になってしまうのだ。

 彼女は重い難聴で、耳がほとんど聞こえない。だが、高杉は手話ではなく、話し相手の口を見て言葉を理解する。だから、普通に会話が成り立つことで、彼女が障がいを持つことを、最初は気が付くことが出来なかった。そんなハンデを吹き飛ばすハッピーオーラを振りまく笑顔を「バイクがくれた」と高杉は言う。
 

高杉奈緒子、1977年4月24日生まれ。東大阪市出身。TWAM NAOKO KTMから、J-GP3に参戦。

 
 1977年4月24日に大阪に生また高杉は、感情が高ぶると手が出てしまう父と、母と兄ふたりの5人家族で育つが、両親が離婚し、母は家族を支えるために朝から晩まで働くシングルマザーとなる。長男も耳が不自由で、次男は健常者だが、父の影響か、気性が荒く、高杉は兄たちの機嫌を見ながら暮らすようになる。家にいない母の変わりに、動かない兄たちのために家事をこなす日々だった。
「母が苦労しているのは知っていたから、中学校も高校も行かずに働こうとしたけど、母が高校卒業はしてほしいと言うので、進学を決めました。だけど、定期代がほしいと言い出せなくて、定期代のためにアルバイトを始めた」
と、高杉は振り返る。家事とアルバイトと学校と忙しくはしていても、どこにも居場所がなく孤独を抱えていた高杉は「死のう」としている。

 大変な母に甘えることも出来ず、不機嫌な兄たちに期待を持てずに「話し相手も相談相手もいなくて、ものすごく寂しくて、孤独だった」と手首を切ったこともあったが、死にきれずに、TVで見たバイクの世界に憧れを持つ。
「カッコ良かったし、バイクに乗ったら死ねるかもしれない」と思うようになる。それでも目標が出来たことでアルバイトに精を出し、免許を取り、バイクを購入するのだ。
「エンジン音は聞こえないけど、振動は感じるんです。タコメーターも見えるし、免許を取ることが出来て、バイクで走り始めたら、本当に楽しくて…。友達が出来て、仲間が出来たんです」

 高杉は死ねるかもしれないと思ったバイクで、生きる喜びを知るのだ。
 やっと、本来の彼女の持つ明るさや優しさ、向上心が表に出て来る。やっと、居場所を見つけた。時間を見つけてはバイクで疾走した。だが、大きな事故にあってしまう。大腿骨骨折の大事故で、3ケ月の入院を余儀なくされた。それでも、バイクへの思いは消えることがなかった。退院してからもバイクに乗ろうとする高杉に兄たちが猛反対する。
 高杉は「心配しているというより、バイクに乗っている自分への嫉妬だとしか思えなかった。殴られて、蹴られて、バイクに乗るなら出て行けと言われた」と高杉は家を飛び出す。やっと、心から大事だと思えるものに出会えたのに、それを取り上げようとする兄たちには反抗心しかなかった。
 

第2戦の菅生は、雨は上がっていたが、路面はウエットの状態だった。百戦錬磨の小室旭、尾野弘樹に続き3位となった。

 
 高校を卒業してパナソニックに入社して社会人として働き始めており、家を出てからは、これまで以上にバイクにのめり込んで行く。2000年、23歳でミニバイクレースに参加する。そこから2年後にはモトチャンプ全国大会に参戦して2位になるのだ。
「スピードが好きだった、いつも走っていたかった。峠を走っていたけど、サーキットは信号もないし、思いっきり走れると教えてもらった。自分は挑戦するのが好きだって思えたし成長したかった」

 2004年からロードレースへと参戦を開始し、2005年にはライダーの登竜門ともいうべき鈴鹿4時間耐久に参戦し5位を獲得するまでになる。西日本選手権ST600チャンピオンを獲得。2006年には日本最高峰の選手権である全日本参戦資格を得る。2007年から本格的に全日本に挑戦を開始した。

 会社員としての生活は責任もあり、休みを自由に取れるわけではない。仕事とレースの調整に追われていた。同僚に申し訳ない思いを抱えながら休みを取りサーキットへと向かった。そんな生活が続き、高杉は、思い切って上司に相談する。高杉のレース参戦が、パナソニック社員の誇りになるようにと、社内報に取り上げてもらい、以前よりはレース活動がしやすい環境を自ら勝ち取る。
 

ヨーロッパの耐久レースにも出場した。彼女は、笑顔でコミュニケーションをとった。

 
「全日本でトップ争いがしたい。鈴鹿8時間耐久に出たい。海外のレースに出たい」
 高杉は目標を掲げて、それを次々とクリアして行くのだ。
 2007年には鈴鹿8耐参戦し、2013年には世界耐久選手権(EWC)ル・マン24時間耐久に参戦する。Facebookでつながったドイツ人から走行会があると連絡があり、高杉はドイツへと向かう。高杉のライディングは、その確かな速さで、すぐに欧州のレース界で話題に上ることになる。音のない世界で生きていることなど問題にはならなかった。ライダーとして海外で認められたのだ。
 女性だけのチームを結成してフランス、ル・マン24時間耐久に参戦するというプロジェクトを計画していたオーナーから連絡が入り、企画に参加して欲しいと懇願され、高杉はル・マンに向かう。即席のチームは問題も多く、ライダー平均のタイムが予選タイムとなるEWCでは、高杉だけの力ではどうしようもなく予選落ちとなってしまう。だが、高杉は大排気量のマシンを軽々と操り、海外参戦に体当たりで挑戦していた。誰とでも打ち解け、人間関係を円滑に構築していく才能で、多くのメディアに登場して、優勝候補チームにも負けない注目度を集めていた。
 

海外でも注目され、多くのメディアに登場した。

 
「女性のチームだけど、チームメイトは元男性で、今は女性というライダーでした。日本好きの学生さんが通訳で来てくれて助けてもらい、ヘルプで来てくれたメカニックの川原英実は、1番バイクを理解しているってことで、段々、チーフメカの役割を与えられて、えぇ?って、そんなはずじゃなかったという状況でした。もうバタバタで、大変だったし、目まぐるしい日々だった。決勝を走ることはできなくて、残念だったけど、海外のサーキットに挑戦が出来て、ル・マンならでは経験が出来て良かった」
 その後、ル・マン24時間、ボルドール24時間耐久と、都合3回も高杉はEWCを訪れている。ボルドール24時間では予選通過し、グリッドに並ぶが、決勝はリタイヤに終わった。だが、海外参戦の夢をしっかりと叶えている。

 高杉が信頼を寄せるメカニックの川原と高杉の出会いはサーキットだ。川原は将来を嘱望されたライダーであり、鈴鹿8耐の常連ライダーでもあったが、鎖骨粉砕骨折というケガに見舞われライダーの夢を断念せざる終えない状況に追い込まれた。2010年、高杉が全日本参戦開始して間もない頃に、隣のピットで奮闘しているのを見て声をかけずにいられなかった。
「走り続けたいのなら、ちゃんとしたチームに所属した方がいい」とチーム探しを手伝っていたはずが、メカニックとして頼られるようになってしまった。
「メカニックを引き受けたのは、大変な状況に同情したのではなく、ライダーとしての可能性を感じたからでもあった。最初はびっくりすることばかり、こんなにバイクのことを知らないのに、全日本を走っていることが信じられなかった。それ以上に、音のない世界で、コース上のライン取り、アクセル、ブレーキのタイミングをとって走っていることが、ものすごいことだと感じた。手伝うことが出来たら、もっと、上を目指すことが出来るかも知れないと思った」
 

高杉が絶対の信頼をするメカニックの川原英実。「彼女に同情したのではなく、ライダーとしての可能性を感じたからだ」と言う。

 
 2010年から、高杉、川原のコンビが動き出した。高杉は、川原に絶大なる信頼を置いている。川原は、その信頼に応えようと学び続けている。
 川原は「耳が聞こえないので、自分たちとは擬音の発音がちょっと違う、コツコツするって……。それは、どういうことだろうと考えることもありますが、彼女には、僕たちが持っている五感以外に何かがあるのだと感じています。聴覚の代わりに、センサーのような、僕たちにはないものを持っている。そう考えないと、ここまでのレースキャリアや、この走りが出来ることの説明がつかない」と言う。

 一時、WGPライダーであり、エンジニアとしても活躍する宇井陽一と高杉はコラボしていたことがあり、全日本、アジア選手権と活躍の場を広げていた。宇井は耳栓をしてコースを走り、高杉のすごさを実感したと語っていた。そして「こんなにレースに真正面から取り組み、レースに純粋な人はいない」と絶賛していた。特に運動神経が良かったわけではないと高杉は笑う。でもレースと出会って、明らかに自分は変わったのだと言う。
「ずっと、笑えなかった自分が、心から笑えるようになったのは、応援してくれる人の愛をいっぱいもらっているから。たくさんの人の応援の力が、自分の力になる。その応援に応えたいと思う」
 

次の戦いは9月4日~5日の岡山大会となる。現在43ポイントで、ランキング5位につけている。

 
 高杉には200人を超えるサポーターが付いている。サーキットでは差し入れが必ずあり、高杉は、応援してくれている人を家族のように迎える。そんな人達の期待に応えたいと高杉は言うのだ。だから、トレーニングには熱が入る。川原は、高杉のトレーニングのし過ぎを心配している。スポーツトレーナーが作ったメニューの3倍はこなすのだと言う。10kmのランニングが30㎞といった具合だ。
「それはマイナスかも知れない?」と聞くと、高杉は「やらずにはいられない」と応える。

 高杉が参戦しているJ-GP3は、実力を誇るベテランと、世界を目指す若手が参戦、毎年、戦うラインナップが変化する。常に強豪が現れるのだ。だから、表彰台の顔ぶれも変わり、毎年、極限の戦いを突き付けられている。そんな戦いで、高杉は、予選でポールポジションを獲得する速さを示し、決勝でも表彰台圏内を何度も走行している。だが、トラブルがあったり、追突されたりと、ついてないレースが多かった。高杉が会見で語った魔物だ。レースの神様は、なんて意地悪なのだろうと思うことが多々あったが、やっと、少しだけ微笑んでくれたのがSUGOだった。

 世界に通用する速さを持つ小室、尾野に次いでの3位は誇れるものであり、高杉のこれまでの熱量が、やっと結果になった瞬間だった。川原も「10年間も待って、やっとですから」と感無量の表彰台を振り返った。
「川原とぶつかりあって成長出来たので、感謝しています。応援してくれた人達にも、やっと、恩返し出来たことが嬉しい。でも、これで終わりじゃないから、優勝目指して頑張って行きたい」
飛び切りの高杉スマイルを見せてくれた。
 

 
追記
 高杉が、自身が使う補聴器を耳に当ててくれたことがあった。高い音量の雑音で、ちょっと、クラっとした。高杉とは、普通に会話が出来るし、いつも笑顔で、エネルギッシュで、耳が聞こえないことを忘れてしまう。
 音のない世界を知らない私には、高杉が全日本のライダーであることが、本当は信じられず、異次元の世界の住人のように思う。気軽に話しかけるには神々しくてなかなか取材をすることを躊躇していた。
 ル・マン24時間取材で、ゆっくりと話す機会が出来たが、聞いた内容が壮絶過ぎて、どんなふうに伝えればいいのかと悩んだ。深い青が広がるル・マンの空の下で、「正直に書いて」と言ってくれた高杉の言葉を聞いて、結果が残ったらと決めていた。おめでとうの言葉と一緒でなければ伝えられないと思った。SUGOの後に書かせてもらおうと思っていたが、鈴鹿戦に高杉の母が「初めてレース観戦に来るから、その時に一緒に写真を撮って、その写真を使って」と言われた。
「母は、子供たちには高校を卒業させようと必死で働いていました。私には高い月謝を払って、手話ではなく唇を読む学校に通わせてくれた。それは、とても感謝しています。ずっと、レースをしていることを応援してもらえなくて、残念だったし、寂しかったけど、レースを見に来てくれると言われて、見てもらいたいと思った」
 結局、母親の体調が優れず、鈴鹿に来ることが出来なかった。こんな素敵な女性に育ち、素晴らしいアスリートになった自慢の娘の姿を見ることが出来なかったことを残念に思ったが、高杉はいつものように懸命に走り、挑んでいた。そして、飛び切りの笑顔をファンに向けて、言葉にはならない、言葉には出来ないメッセージを届けていた。
「レースは生きがい、レースのない人生は考えられない。いつか、川原と8耐に出たいな」と言った。川原メカは「ムリムリ」と苦笑いしていたけど、高杉の願いは、叶うような気がした。





2021/08/13掲載