「40歳になったときは、友人たちがサプライズパーティを企画してくれたんだ。それっきり誕生日を祝うことなんてなかったけど、50歳は大きな節目なので親しい仲間3人ほどで集まって食事会をしたよ。べつに特別なものでもなくて、久しぶりに積もる話を2~3時間ほどした程度さ」
―この50年を振り返って、まずはどんな印象ですか。
「熱意と強靱な意志でスポーツに打ち込んできた日々、かな。ぼくの人生の中心には、いつもスポーツがあった。オートバイに乗り始めたのはかなり遅くて、その前はサッカーとスキーに夢中だった。スキーは今でも大好きだね。ちょっとした現実逃避として、とても愉しんでいるよ」
―レース界では、ローマ出身者として1990年代からおおいに存在感を発揮していましたよね。
「自分では部外者のように感じていたけどね。あの当時、グランプリの世界には同じ地域出身者がいなかったから、ちょっと珍しかったかもしれない」
―友人たちからはどんなふうに見られていましたか?
「友だち、ねえ。レースを始めたとき、ぼくは即座にモナコに引っ越したので、イタリア国内の友人たちとは疎遠になってしまった。自分が選んだライダーの道を進んでいくために、人生と周囲の世界を再構築することになったんだ」
―辛かったでしょうね。
「うん、そうだね。でも悔いはない。そうすることで多くのことを達成してきたし、いまさら偽善者めいたことをいうつもりもない。でも、普通の人生にある愉しみのうち、なにがしかを諦めたのは事実だろうな」
―プライベートでは、あなたたちのもとから離れていったご母堂との関係も少し複雑だったようですね。
「当時の自分にとっては、バイクが避難所みたいなものだったのかもしれない。イヤなことを忘れて、心身のすべてを打ち込むことができたから。そうすることで自分に刺戟を与えてさらに強くなっていったのだと思う」
※以下、写真をクリックすると大きく、または違う写真を見ることができます。
―当時のマックス青年と現在のマックス氏の間には、深淵というか、ちょっとした隔たりのようなものがありそうですね。
「30年も経ったからね。別の人生といってもいいくらいさ。いまのマックスのほうがはるかにいい。ひとりの人間としても、周囲との関係性の面でも、あらゆる点でね。人として、そして父親として成長し、本当に大切なものにこの手で触れることができたんだ」
―たったひとつの目標を見据えてトップレベルで戦うアスリートにとっては、その目標以外はすべて、ただの夾雑物なのでしょうね。
「まさにそのとおりだよ。目標に向かって戦っているときは、頭の中にはそれしかないんだ。外の世界で何があろうとまったく気にしないし気にならないし、そんなものがあることさえ気がつかないんだ」
―これまででもっとも重要な勝利をひとつ挙げるとすれば?
「1990年のアッソルーティ・ディ・イタリアだね。
この年のイタリア国内選手権で、ぼくはSP125クラスで7戦中6勝を挙げて、3~400名のライダーのなかから選抜されたんだ。アッソルーティは、イタリアのトップライダーたちを集めてバレルンガで開催された。そのレースで、ぼくはドリアノ・ロンボニのホンダチームで走るチャンスを得たんだ。ホンダでは他に、ピレリチームからファウスト・グレシーニやロリス・カピロッシが参戦していた。アプリリアのファクトリーには、アレッサンドロ・グラミニとガブリエレ・デビアがいた。ロンボニの担当メカはマッシモ・マッテオーニだったよ。
レースに向けてぼくがミザノでテストをしたときはものすごく寒い日で、たった20ラップしか周回できなかった。いまはグレシーニ・レーシングにいるファブリツィオ・チェッキーニがタイムを計測していたんだけど、ぼくのラップタイムを見た彼は、『ちょっとこのタイムは信じられない』と言ってマッテオーニとのところへ走って行ったっけ。
バレルンガでは、金曜日はぼくが最速だった。予選では3番手で、決勝もロンボニとグレシーニの背後で3位に入ったんだ」
―その結果、マックス・ビアッジ青年はにわかに注目を集める存在になったわけですね。
「人間狩りみたいな状態だったよ。あちらこちらからそれこそ山のようなオファーを受けた。でも、当時はぼくも父のピエトロも、まったくこの世界の知識がなかった。マネージャーのような人物もいなかったし。ただ、父は父なりに交渉のとっかかりを思いついたようだった。
『今年の125ccチャンピオンになったカピロッシとかいう若者は、どうやらおまえよりも2歳年下らしいじゃないか。ならば、おまえは彼より上の250ccクラスで走るべきなんじゃないか?』
『父ちゃん、おいら250ccなんて乗ったこともないからそんなのムリだよ』
『そんなら、まずは乗ってみりゃあいいじゃないか』
当時ぼくが所属していたチームのツナギのスポンサーが、欧州選手権の250ccクラスチームを持っていたので、ミザノでテストする機会を設けてくれた。数周走ったら、欧州選手権のポールタイムと同じラップタイムを出すことができた。そのとき、何から何まで自分にものすごくピッタリくるな、と思ったんだ。そして世界の扉が開き、ホンダUKやイタリア系チームや、いろんなところから声がかかった。相変わらずぼくたちは右も左もわからなかったけれども。そこに、カルロ・ペルナートが登場したんだ」
―若い才能を嗅ぎつける古狐があらわれたわけですね。
「彼は、ナショナルチームのチームイタリアを勧めてきた。ぼくは彼の推薦を承諾し、もしも欧州選手権でチャンピオンになったらアプリリアでグランプリを走らせてほしい、と頼んだ。欧州選手権ではあっというまに3勝を挙げ、そのご褒美として1991年のWGPにワイルドカードで数戦参戦できることになった。たしか、すぐにポイントを獲得したよ」
―当時のことをいま振り返ると、どんな気分ですか?
「夢みたいだね。まるで映画のようだよ。18歳になるまで、ぼくはそもそもオートバイに乗ったこともなかったんだから。父が最初にバイクを買ってくれたとき、ぼくはまず最初に友人のダニエレに乗らせたんだ。クラッチを操作したことがなくて、シフトチェンジのしかたもわからなかったから。でも、その2週間後にぼくはサーキットを走っていた。こんな話、誰にしても信じてもらえないだろうね」
―近ごろでは、まだ歩くこともできないような年齢の子供がバイクに乗り始める時代ですからね。
「今でも自問することがあるんだ。どうして自分にはこの才能が備わっていたのだろう、って。いろいろ考えてみても、納得のいく答えが見つからない。それまではずっとサッカーしかしてこなかったわけだから……」
―サッカーでも一流選手になれていたと思いますか?
「いや、そうは思わない。子供時代はそこまで真剣に考えていたわけじゃないけど、けっしてずばぬけた才能ではなかったと思う」
―しかし、ロードレースではチャンピオンになりました。アプリリアで3回(1994~96)、ホンダで1回(1997)。一気にスターダムを駆け上がりました。
「当時は安定して連勝するライダーがいなかったからね。フェラーリのシューマッハ時代もまだ始まっていなかったし、モータースポーツ界で連勝を重ねていたのは、あの時代、ぼくたちだけだった。いきなり爆弾が破裂したような状況だったけど、幸いにも従兄弟がずっと支えてくれたおかげで道を誤ることはなかった。おかげでつまらないものに耳を貸して取り込まれたりすることもなかった」
―500ccクラスのデビューイヤー、1998年にチャンピオンを獲得できなかったことはいまでも悔やまれますか?
「いや、べつに。事実上、自分がチャンピオンのように感じることはできたよ。SBKでタイトルを争ったときは、別の選手権ではあるけれども、タイトルを獲るのは至難の業で、それを成し遂げた達成感を味わえた。ぼくはSBKのあの独特の競技スタイルと相性の良いライダーではなかったかもしれないけれども、あの当時SBKで最強だったドゥカティを凌駕したいという強い意志と強固な技術開発で、ついに彼らを打ち負かすことに成功した。当時のぼくは38歳で、年齢的にもこの挑戦はかなりの難題だった。それはアプリリアにとっても同様だ。かなりの投資だったと思う。でも、ぼくたちが力を合わせて成功を摑み取った成果は、10年後の現在も高い戦闘力として発揮されているよ」
―あなたが勝利を重ねていた時代、バレンティーノ・ロッシ選手が登場し、活躍し始めました。ロッシ選手はあなたの宿敵で、お互いにいろんな意味で刺戟となる存在だったと思います。あなたたちのライバル関係は、イタリアをふたつに分かつことにもなりました。
「ぼくと彼は、それぞれがお互いの人生の一部であり、強烈な闘争心を見せることで相手を有名にし、あるいは悪名を立て、そして切磋琢磨することにもなった。
当時は黄金時代といってもいいと思うけれども、彼とは交流がなく、メディアを介したやりとりしかしなかった。あまり賢明なことではなかったかもしれないね。撒き餌にもすぐ食らいつくような状況で、ちょっとした反感だったものも、10倍の大きさに膨れ上がってこじれていった。よけいなことを言わず口を閉ざす、あるいは面と向かって話をしようとする態度を少しでも持とうとしなかった、という意味で、互いにまだ未熟者だったんだろう」
―とはいえ、いまなら修復も可能でしょう。
「スポーツマンらしく振る舞うことは大切だからね。カピロッシとも、以前は似たような関係だったんだ。同国出身でともにたったひとつの頂点を競い合っている、つまり自分の夢を奪い取るかもしれない存在なんだから、同情や共感なんて入り込む余地はない。でも、現役を退いて15年も経った現在は、ロリスとふつうに話をするし、お互いに電話をかけるような関係だ。まったく問題ない。数年すれば、ロッシともそんな関係になっているんじゃないのかな」
―ロッシ選手はいまも現役で走り続けていますが、それについてはどう思いますか。
「ぼくがとくに助言することでも口を挟むことでもないよ。50歳になって思うことだけど、誰かが情熱に駆られてやっていることに、一般的な法則性や決まりなどないんだよ。だからこそ、人は強さを発揮できる。これは外からではわからないことだ。まだできる、と自分で信じているから、やるんだ。もちろん、外野の批判はいくらでもあるだろうけどね」
―チーム代表として切り盛りしていく気分はどうですか?
「なかなかの責任だよ。いろんな国籍や考え方の人をまとめてチームを運営するのは簡単なことじゃない。皆がそれぞれ好き勝手なことを言うからね。ピラミッドの頂点にいるライダーの視点とは、まったく異なる。上から見るのと下から見ることの違い、というのかな。どれだけ自分ひとりが懸命に努力しても、必ずしも結果がついてくるわけではないしね」
―父親になったことは、その点で役に立ちましたか?
「もちろん。人の親になるということは、その瞬間に世の中のすべてが変わってしまうということでもある。レオンは10歳、イネスは11歳になった。われながら、父親としてよくやってると思うよ。最初の2年間は、自分が無力だとか努力が足りないなんて思ったこともなかった。でも、子供たちと接する時間が増えるようになると、突然明かりが灯ったような状態になって、何もかもが変わった。レースをやっていた時代のように、これに全力で打ち込みたいと考えるようになったんだ。
それまで子供たちと接するのは月に10日程度だったけれども、これからは毎日一緒に居なきゃダメだ、と思った。ベビーシッターに任せるなんて論外で、全部自分でやるようになった。必要なことは自分から学んで憶えた。料理もするし、宿題だって見てやる。課外のスポーツにも連れて行くよ。ふたりとも、テニスをやっているんだ」
―バイクは?
「レオンは一度やりかけたことがあるけど、どうもぼくが干渉しすぎたみたいで、いまはテニスに専念しているね」
―では、バイク方面ではロマーノ・フェナティ選手に期待を託すことになりますね。
「うまく行ってると思うよ。Moto3チームのなかには、MotoGPのような厳格な行動規範で選手たちを律しようとしているところもあるようだけれども、MotoGPのプロフェッショナリズムと中小排気量の規範は別モノだから、あまり厳しくしすぎるとロボットのような選手を作ることになってしまいかねない。いきなり厳しいルールで縛ろうとしても、いい効果を挙げるのはきっと難しいんじゃないかな。
ぼくたちのチームの強みは、いまこの瞬間を大切にする、というところにあると思う。たとえば、アロン・カネットはうちのチームに来て、それまでの頭打ちがウソのように活躍して年間ランキング2位になった(2019年)。フェナティも、華々しいデビューの後は紆余曲折もあったけれども、いまはうちのチームでいつもトップ争いをしているよ」
―現在のMotoGPをどう思いますか?
「ものすごくレベルが高く、緊密な争いになっているよね。花形選手が不在だと家で観戦している人々にはなかなかわかりにくいかもしれないけれども、いまのレベルはものすごく高いよ。連覇するのも難しそうな状態だ」
―そういえば復帰したマルケス選手は、ついにドイツで勝ちましたね。
「金曜と土曜のセッションですでに、自分の庭にいるような強さを発揮していたよ。勝利はいわば、ダメ押しのようなものだった。ホンダがいいバイクを提供できれば、やはり彼は他から頭ひとつ抜けた強さを備えていると証明してみせるだろうね」
―次の50年の目標を教えてください。
「まず差し迫った急務は、このチームでMoto3のチャンピオンを獲得することだ。Moto2についても訊かれるけど、不慣れなところへ手を広げようとは思わないし、いまはMoto3がとてもエキサイティングで愉しいんだ。電動バイクのプロジェクトにも取り組んでいる。Voxan Wattmanはまだまだ商用段階ではないけれども、プロジェクトは真剣そのもので、たくさんの技術分野が関わる事業だから、とても面白いんだ。ゼロからバイクを作り上げるのは、もちろん容易なことではない。いまは航空関係の企業と空力分野の研究にも取り組んでいるんだ。時速400kmを超えると、世界の姿はまったく別モノになる。夢は、そこにあると思わなければいつまでも夢のままで、現実にしようと認識する力がそれを可能にしていくんだ。ぼくはもちろん、挑戦するほうを選ぶ」
50歳おめでとう、マックス。
【パオロ・イアニエリ(Paolo Ianieri)】
国際アイスホッケー連盟(IIHF)やイタリア公共放送局RAI勤務を経て、2000年から同国の日刊スポーツ新聞La Gazzetta dello Sportのモータースポーツ担当記者。MotoGPをはじめ、ダカールラリーやF1にも造詣が深い。
[第18弾フランチェスコ・バニャイアに訊くへ]
[第20弾マルク・マルケスに訊くへ]