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レース・イベント

■取材・文:パオロ・イアニエリ(Paolo Ianieri) ■翻訳:西村 章 ■写真: Ducati/MotoGP.com
 
ムジェロサーキットで開催される第6戦イタリアGPは、当地がホームレースとなるフランチェスコ・バニャイアとドゥカティにとって、素晴らしい週末になるはずだった。じっさいに、金曜と土曜午前の3回のフリープラクティスでは素晴らしい走りを披露し、日曜の決勝レースはファビオ・クアルタラロ(Monster Energy Yamaha MotoGP)とバニャイアが真っ向勝負で超ハイレベルの優勝争いを繰り広げるだろう、というのが大方の予想だった。しかし、土曜午後に発生したできごとがすべてを一変させた。Moto3クラスの予選Q2終了間際に、ジェイソン・デュパスキエ選手(CarXpert PrüstelGP)が絡むアクシデントが発生。デュパスキエ選手は病院に搬送され、医師団は懸命の治療を続けたが、残念ながら日曜午前に訃報がもたらされた。19歳の前途有望な選手の逝去に、パドックは悲しみに打ちひしがれた。

「ダビデ・タルドッツィ(Ducati Lenovo Teamチームマネージャー)に、レースをしないほうがいいんじゃないか、と話したんだ」

バニャイアはレース後にそう明かした。

「ただでさえそういうことには敏感なのに、あの一報を受けたときはとても平静でいられるような精神状態じゃなかった。一分間の黙禱を行ってから決勝レースのグリッドにつく、という進行にも、気持ちがざわついた。いっそ泣くことができればどれほどラクだったか。あのときは、レースに向けて集中力を高めていくことが本当に難しかった。それでも気持ちを奮い起こしてレースに臨んだ。でも、レースはたった2周で終わってしまった……」

フランチェスコ・バニャイア
フランチェスコ・バニャイア(Francesco Bagnaia):1997年1月14日生まれ。イタリア出身。愛称「ペッコ(ペコ)」。2013年、Moto3クラスで世界選手権デビュー。翌年、バレンティーノ・ロッシが主宰する VR46ライダーズアカデミーのメンバーに。2017年にMoto2クラスにステップアップ、2018年チャンピオン獲得。2019年、MotoGPクラスに昇格。プラマック・レーシングよりドゥカティを駆り、2020年のサンマリノGPで最高峰クラス初表彰台となる2位獲得。今シーズン、ドゥカティのファクトリー・チーム(Ducati Lenovo Team)に移籍、第6戦イタリアGP終了時点でランキング3位。

※以下、写真をクリックすると大きく、または違う写真を見ることができます。





―ペッコ、今回のムジェロのレースウィークを前にした段階で、ファビオに対して1ポイント上回っていたチャンピオンシップの点差は、レースを終えた今、26ポイントの後塵を拝する結果になってしまいました。ファビオ・クアルタラロという選手は、あなたにとってどんな存在ですか?

「厳しいライバルだね。ぼくがMotoGPクラスでランキング首位に立ったのはあのときが初めての経験だったけど、じつはファビオとは過去に何度も激しい戦いを続けてきたんだ。でも、タイトル争いじゃなかったから、あまり目立たなかっただろうけどね。

シーズンを通して彼を相手にチャンピオンを争うことはなかったので、この戦いがこれからどうなっていくかわからないけど、ファビオは今まで速さを見せる反面、下位のほうに沈んでしまうこともあった。でも、それはぼくも同様だけど。だから、シーズン今後の戦いがどうなっていくのかはわからないけど、ぼく自身については可能な限り高い水準で安定して走りつづけるつもりだよ」

DUCATI
DUCATI

―さらにもうひとりの強敵が同じガレージにいますね。ジャック(・ミラー)はこのイタリアGP前に2022年の契約を更改しました。

「サインするのは明らかだったよね。ジャックは速さも強さもある選手だし、ヘレスとルマンの連勝が契約のダメ押しになった。この3戦は、ジャックがいなければぼくはもっとポイントを稼げていただろうね」

―さて、時間を一気に巻き戻しましょう。いま、私の手元に一枚の写真があるのですが、御父君のピエトロ氏がミニバイクを運んでいて、その傍らには子供時代のあなたが並んで歩いています。おそらく、5歳くらいでしょうか。場所は、ヴィヴェローネ(訳註:ピエモンテ州のミニバイクやカート用コース)ですね。あなたが被っているヘルメットは、マルコ・メランドリ氏のスパイダーマン仕様のヤツですよ。

「ああ、それはぼくが初めて被ったヘルメットなんだ。スパイダーマンが大好きだから使っていたんだ。当時は本当に小さかったので、マルコがそのヘルメットで走ったレースを観た記憶はないんだけど、後年に家でいろんなMotoGPのレースビデオを観ているときに、そのスペシャルメットのレース(2004年ポルトガルGP)にもでくわしたよ。転倒して、バイクは大破していたよね」

―御父君から、レースについてどんな教育を受けてきたんですか?

「とてもいい指導だったと思う。他の親御さんたちは子供がミスをしたときなどによく叱っていたけど、うちの場合はそういったところはまったく他の親たちと違っていた。うちの父はいつもバイクをピカピカに磨きあげていて、ぼくがうまく走ったときには『よおし、よくやったぞ』と褒めてくれた。ミスしたときでも、『なあに、たいしたことないさ』という程度。子供にプレッシャーを与えるようなことはいっさいしなかった。ただ、一回だけ、父がよその親たちの影響を受けて、僕をカゼルタ(ナポリ近郊の都市)のコースで一週間ずっと走るイベントに連れて行ったことがあった。あのときだけは、『もうイヤだよ、家に帰ろうよ』ともう少しで父に言いそうになったけどね」

#63
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―ところで、お父様はムジェロのレースウィーク前にバイクで転倒して腕を骨折したそうですね。あなたがちゃんとバイクの乗り方を教えなかったからじゃないですか!?

「僕自身は公道を走ることが好きじゃないんだよ。人々や車の挙動は予測がつかないことがあるし、バイクに乗っている人がしっかりとプロテクションをしていない場合も珍しくないからね。父の転倒はたいしたことじゃなくて、転んだ際に手をついて、それで骨を折ってしまったんだ。幸い、たいしたケガでもなかったんだけど」

―そのお父様ですが、このイタリアGPで世界選手権監督デビューも果たしましたね。イタリア選手権を走るチーム(Team Bardahl VR46 Riders Academy)が、この週末にワイルドカード参戦を果たしました。

「父はちょっと心配だったみたいだよ。だから、落ち着いて自分たちのチームの身の丈にあったレースをするように、と助言したんだ。ぼくと一緒にいることで、父は世界選手権を戦っていく上で重要な蓄積を重ねてきたと思う。子供たちとの接し方については、すでに手慣れたものだしね。父とチームは強い結束で繋がれているから、同じ夢を目指しながら地に足をつけて戦っている。父にこんな大きいチャンスを与えてくれたバレンティーノ・ロッシには、本当に心から感謝している」

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―あなたの子供時代に話を戻すと、あなたの〈ドゥカティスタ〉の血は、叔父のクラウディオ氏から受け継いでいるのだと聞きましたが?

「ギア付きバイクに乗りたいと最初に思ったのは、叔父の乗っていたドゥカティ996だ。乾式クラッチのやつだね」

―叔父さんに憧れていたのですか?

「いや、ぼくが憧れていたのは父だよ。自宅近くのロンバルドーレ(トリノ近郊の街)にあるコースで、父と叔父は一緒によく走っていた。叔父は996で、アプリリアのRSV1000に乗る父といっしょに走る姿を、よくコースサイドで眺めていたよ。父はキレイな走り方をするスタイルで、叔父はとても速かったな」

―では、あなたのライディングは父親譲り、というわけですね。

「そうだね」

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―プロフェッショナルライダーになろう、と決心したのはいつだったのですか?

「とくにそういう瞬間があったわけじゃないんだ。だから、ひょっとしたら今でも、自分の中ではプロになろうという決意が定まっていないのかもしれない。ライダーとして最高の瞬間、という意味なら、2018年にMoto2でチャンピオンを獲得したときになるかな」

―もしもライダーにならなければ、今ごろはなにをしていましたか?

「あまりいいものじゃなかったと思う。学校を卒業しなければならなかっただろうし、それがまずは、なにより大きな関門になっていただろうね。バイクに乗るようになってから、学校の成績は下降の一途を辿っていった。先生たちも、ぼくに対してあまり協力的じゃなかった。でも、そんなのは自分勝手な言い訳だけどね。なにせぼくは勉強以外のことに夢中だったし、家でもまったく勉強をしなかったから。だから、ライダーじゃなければ何かスポーツに関係した仕事をしていたんじゃないかな。テニスとか。あるいは、シェフになっていたかも。自分のレストランを持ちたいとずっと思っていたんだ」

―では、自宅では料理もするのですか?

「うん。料理は好きだよ。とくに魚料理なんて簡単だよね。オーブンに入れてグリルすればいいだけなんだから」

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―ドゥカティミュージアムに初めて行ったときのことは憶えていますか?

「子供時代は、スーパーバイクのほうが好きだったんだ。お気に入りはドゥカティだったよ。とくにジェイムズ・トスランドのバイクはとても美しくて、憧れの的だった。芳賀紀行がドゥカティに移籍してきたときもうれしかったな。だって、ぼくは子供時代、芳賀の41番をつけてずっとレースをしていたくらいだからね。愉快なライダーでとても愉しませてもらったし、彼のライディングスタイルも好きだった。ミュージアムに行ったときは、子供時代のそんな思い出が一気に甦ってきたよ。ニール・ホジソンやトロイ・コーサー、カール・フォガティのバイクも展示されていて、テレビやビデオで何度も何度も観たバイクがずらりと並んでいるんだからね」

―マルコ・シモンチェッリ選手は2009年にSBKのレースにワイルドカード参戦しましたが、機会があればあなたもSBKに参戦してみようとは思いませんか?

「面白いだろうね。でも、(MotoGPの)レース後はいつも、いちどすっかりレースから離れてリフレッシュするようにしているんだ。その期間に他のバイクのレースを挟むとなると、ちょっと事態が複雑になるよね。面白いとは思うけど」

―ドゥカティファンにとって、カール・フォガティ、ケーシー・ストーナー、トロイ・ベイリス、ロリス・カピロッシ、アンドレア・ドヴィツィオーゾという名前は伝説の存在です。自分もやがて、そこに名を連ねると思いますか?

「ドゥカティファンは目が肥えているし、歴史の生き証人みたいな人もたくさんいるからね。だから、自分が彼らに認められるような存在になるのは簡単なことじゃないと思う。何回か勝った程度じゃ、認めてくれないだろうね。そのために、彼らの鑑識眼にかなう実績を残して、心に灼きつくような存在にならなきゃいけない」

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―あなたがトリノを発ってペザロへ移り、VR46アカデミーに入ったのはまだ子供のころでしたよね。リュックひとつで自宅を出て新生活へ旅立ったとき、どんな心境だったのですか。情熱に燃えていたのは間違いないでしょうが、それにしてもかなり勇気の要ることだったのではありませんか?

「ぼく自身もそうだけど、両親にとっても勇気の要ることだったと思う。とくに最初の時期はホテル住まいだったから、いろんな意味で辛かったよ。電車に乗ってペザロへゆき、母が予約してくれたホテルを目指したんだけど、それがどこにあるのかもわからなかった。バスを降りてGPSで確認したら、まだそこから4kmも歩かなきゃいけないということだった。ホント、辛かったよ。でも、アカデミーの皆がとてもよくしてくれて、すぐに馴染むことができた」

―世界選手権のデビューは2013年、Team Italiaでしたね。ロマノ・フェナティがチームメイトで、当時からいろいろと難しかったとも聞いていますが。

「フェナティは、頭に血が上りやすいんだ。でも、彼とは良い関係だったよ。好人物だし、よく話したりジョークも交わしたりした。でも、いったん怒るとおさまりがつかない。冷静になれないんだろう。彼の場合、子供の時からちやほやされてグランプリの世界へやってきたみたいだし……」

―フェナティはMoto3に参戦していきなり好結果を出しましたが、その事実はあなたにも何らかの影響を及ぼしていたのでしょうか?

「ぼくは、ずっと醒めた目で見ていたように思う。テレビで彼の活躍を観ながら、父と『速い選手だね』なんて話していて、彼が良い成績を収めていたからその所属先のTeam Italiaに入ろうと思ったんだ。でも、最初の頃はCEV(スペイン選手権、現FIM CEVレプソル選手権)を離れてこのチームに行くのが正しい判断だったのかどうか、確信を持てなかった。あれは、自分の人生でも最大の失敗のひとつだったかもしれない。バイクに乗りたいという気持ちまで喪いかけたからね。でも、その後、幸運にもVR46アカデミーのチームに加入できて、レースを続けるように激励もしてくれた。このVR46アカデミーチームとその翌年に在籍したTeam Asparのおかげで、僕はライダーとしての情熱と自信を取り戻し、再び走り出すことができたんだ」

―あなたが初めて表彰台を獲得したレース、2015年フランスGPの優勝ライダーはフェナティで、2位はエネア・バスティアニーニでした。初優勝を飾った2016年オランダGPはマヒンドラのマシンで、2位がファビオ・ディ・ジャンアントニオ、3位はアンドレア・ミニョ。あなたは彼らの誰よりも先に、MotoGPクラスへ到達しましたね。

「Moto3クラスには、当初思っていたよりも2年間長くいることになった。成績がよくなかったから、Moto2のチームはどこもぼくをほしがらなかったんだ。でも、ステップアップするとルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得して、次の年にはチャンピオンになった。Moto2時代はとてもいい走りをできたと思う。MotoGPは今年が3年目だけど、Moto2時代の良いフィーリングが戻ってきた気がするよ」

#63
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―2016年にアッセンのMoto3クラスで初優勝したご褒美として、Team Asparはその年の最終戦バレンシアの後に、彼らのチームのドゥカティのマシンでコースを周回するご褒美のイベントがありましたね。そしてあなたはいま、ドゥカティのファクトリーライダーとしてここにいます。あなたがドゥカティを選択したのか、それとも、ドゥカティがあなたの成長に賭けていたのでしょうか?

「両方だと思う。じつは2016年の末に、2018年からMotoGPクラスへステップアップする方向での話し合いがあったんだ。でもそのときはぼくが断った。2017年の末にも、また話し合いがあったけれども、そのときも断った。まずはMoto2でチャンピオンを獲得してから昇格したかったし、自分の側もMotoGPに見合う準備をできていないと思っていたから。さらにいえば、Moto2のタイトルを獲得したあとでさえ、充分に準備が整っていたわけじゃない。MotoGPクラスで戦うということは、心身ともにそれまでとはまったく異なるレベルの準備が必要なんだ。生やさしいものじゃないよ」

―そしてPramac Racingから最高峰デビューを果たすわけですが、まさに最適な場所からの参戦になりましたね。

「ホントにそのとおりだね。Pramac Racingは組織としてもチーム力としても申し分がなくて、ぼくはたちどころに順応することができた。パオロ・カンピノッティ(チーム代表)は素晴らしい人柄で、打ち解けた話もできるし冗談も通じる人物だ。フランチェスコ・グイドッティ(チームマネージャー)は、いつも万事をしっかり掌握している。2019年を終えて、新型コロナウイルス感染症が世界に蔓延した去年は、シーズン中に足を骨折してしまった。復帰後も苦労を強いられることになったので、そのあたりについては、もうちょっとうまくできたんじゃないかなとも思うけれども」

―今までの選手生活で、もっとも有益だったアドバイスは何ですか?

「トレーナーのカルロ・カサブランカに言われた『諦めが早すぎる』という言葉は、グサッときたよ。自分ではそう思っていなかったから、よけいに腹が立った。あまりに腹が立ったので、二日ほど彼とは口を利かなかった。でも、その後、彼に言われたことをじっくりと考え直してみた。ぼくは誰かに何か気に入らないことを言われて気分を害すると、その後しばらくその人と口を利かない、なんてことが何度もあった。父に対してすら、そうだった。でも、耳が痛い忠告だからといって、そこから目をそらしちゃいけない。そこに思い至ったんだ。たとえ自分のほうが正しいと思っていたとしてもね」

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【パオロ・イアニエリ(Paolo Ianieri)】
国際アイスホッケー連盟(IIHF)やイタリア公共放送局RAI勤務を経て、2000年から同国の日刊スポーツ新聞La Gazzetta dello Sportのモータースポーツ担当記者。MotoGPをはじめ、ダカールラリーやF1にも造詣が深い。


[第17弾アンドレア・ドヴィツィオーゾに訊くへ]





2021/06/03掲載