第33回 バイアルスTL125誕生50周年記念 -トライアル活動挑戦の軌跡・3-
【トライアルの神様 サミー・ミラー氏が来日】
1973年に日本のトライアルが本格的にスタートした翌年の1974年、ホンダはトライアルの神様と称されていた「サミー・ミラー」氏と契約し、トライアルを日本に根付かせるための普及活動やマシン開発に豊富なノウハウを提供してもらいました。
同年5月に来日し、鈴鹿サーキットで記者発表会に臨むとともにホンダ関係者向けのスクールを開催しました。
このスクールに参加したホンダOBの田中英生氏の話を盛り込みながら、トライアルへの関心が高まって来た1974年の話題を紹介したいと思います。
『1973年12月にホンダに入社して数か月後の事でした。サミー・ミラーのスクールにTL125を用意して参加することになりました。サミー・ミラーのライディングを初めて見た印象は、基本に忠実で走行ラインをきれいにトレースしていくスムーズなライディングでした。前年に見たミック・アンドリュースのライディングは異次元に思えましたが、そんな驚きはなかった記憶があります。
彼が乗ったマシンは、弟の義耿(よしあき)が準備したTL125を145ccにしたものでした。サミー・ミラーが来日した時の年齢は40歳です。ほとんどぶっつけ本番でのデモ走行ですから、それを考えると凄いライダーだったことは間違いありません。彼から直接指導を受けられたのは数名でした。私は用意したTL125で、彼のライディングを忘れまいと別のセクションで練習していましたね』
サミー・ミラー氏は、バイアルスTL125のカタログにも登場するなど、トライアルライディングのテクニックはもとより、トライアルに対する情熱の大切さも説いています。
※資料、写真協力:ストレートオン
※資料類は個人所有のものもあるため、汚れや破損はご容赦ください。
カタログの表紙はサミー・ミラー氏のライディングです。中面は、テクニックよりもトライアルに向き合う精神や情熱を説いています。河原での休憩シーンは、サミー・ミラー氏と、モーターレク本部契約講師の万沢安夫氏と成田省造氏、そして、モーターレク本部の川井毅先輩の姿が確認できます。
[サミー・ミラー氏のプロフィール]
本名 Sammuel Hamilton Miller
1934年 アイルランドに生まれる
トライアル英国選手権で、1969年まで連続11回優勝
トライアル欧州選手権で2回優勝
SSDT(スコティッシュ6日間トライアル)で5回の優勝を獲得
カタログの表4は、バイアルスTL125の構成部品を説明しています。トライアル会場まで自走し、保安部品を取り外したうえでライディング。帰路には保安部品を取り付ける。このような楽しみ方を推奨していました。ハンドル切れ角は、前年モデルの左右50°から61°に変更されています。
1974年のカタログで使用されている、赤と青のマーカーについて紹介します。
トライアル競技は、赤(右側)と青(左側)のマーカーで走行区間が決められます。現在は、テープ状のものを使用していますが、この当時は「セクションマーカー」と呼ばれる樹脂製のものを活用していました。このマーカーは、ホンダモーターレクリエーション推進本部が開発したもので、競技やスクールを開催する主催者に提供していました。タイヤで踏みつけても割れにくい素材でした。私が同本部でトライアル担当になった1979年当時は、さらに割れにくいものにするなど、改良を重ねていました。このマーカーをスクールや大会で見たことのある人は多いと思います。
【国内4メーカーの250ccマシンが勢ぞろい】
1974年は、スズキから250ccのトライアルマシンが発売されました。
【MFJ 第2回全日本選手権トライアルは近藤博志選手が優勝】
1974年、MFJのトライアル競技は、ノービスクラスと上位クラスのジュニアの2クラスになりました。そして、11月に第2回全日本選手権トライアルが神奈川県の早戸川で開催されました。前年に続き、1戦のみで全日本チャンピオンを決定する大会です。
ヤマハTY250で出場する選手には、前年チャンピオンの木村治男選手をはじめ、近藤博志選手、畑山和裕選手ら勢いに乗る顔ぶれです。日本での発売が待たれるカワサキ250は、加藤文博選手のライディングでチャンピオンを狙います。
ホンダは、国内発売を間近に控えた「TL250」を万沢安夫選手に託します。
国内4メーカーの250ccマシンが勢ぞろいした見ごたえのある大会となりました。結果は、TY250の近藤博志選手が優勝(ベストパフォーマンス)。2位に、カワサキ250の加藤文博選手、3位はTY250の木村治男選手。ホンダTL250で出場した万沢安夫選手は15位という成績でした。新開発のTL250は、他社の2ストロークとは異なる4ストロークエンジンを搭載。他車との車両重量は5kg程度重かったと思われます。そして、十分な練習も出来なかった状況ですから、上位に食い込むことはできませんでした。
【競技専用車TL250を発売】
1975年1月、ホンダはTL250を発売。カワサキも250-TXを発売しました。これで国内4メーカーの250ccトライアルマシンが勢ぞろいしました。
【ヤマハのトライアル車ラインナップの拡充】
1975年は、競技専用車の相次ぐ発売に加え、ヤマハがビギナーからベテランまで楽しめる「TYシリーズ」のラインナップの拡充を図りました。TY50/80/125/250という空前絶後と言える最強のラインナップになりました。
【バイアルスTL125の排気量をアップ】
1975年7月、バイアルスTL125の排気量が122ccから124ccに変更されました。
エンジンは、ボアが従来の56.0mmから56.5mmに拡大。そして燃料タンクは0.5リットル多い4.5リットルに。変速比は3速が変更されるなど、細部の熟成を図っています。
TL50の魅力訴求として、モーターレク本部は「TL50大会」をバイアルスパーク和光などで開催。50ccでもトライアルを楽しめることをPRしました。TL50は、入門者にとっては非力なエンジンゆえに、思ったようなライディングができませんでした。
テクニックさえあれば、さまざまなセクションを攻略できたのですが、50ccをあえて選ぶ人は少なかったのです。
TL50のライバルは、CB50JXやXE50などホンダの中にも居ました。小柄な車体のXE50はミニバイクエンデューロの流行とともに、オフロードファンに浸透していきました。
トライアルの魅力を紹介していますが、楽しむフィールドが限られているような印象があります。これは、当時のトライアル車の宿命とも言えます。
バイアルスTL50は、これが最終モデルになりました。
一方、最強のラインナップを誇るヤマハにとっては、自社内に競合モデルが多く存在しました。
当時の50ccのスポーツバイクは、コンパクトで魅力的なモデルを好む傾向にありました。1975年に登場した「ミニGT50」は、可愛らしいルックスでキビキビ力強く走ることからたちまち人気ものになりました。
【トライアルマシンの販売が途絶える】
スズキのRL250、カワサキの250-TX(KT250)、そしてホンダTL250は、発売から約2年ほどで販売が終了しました。そして1978年にはヤマハTY250が販売終了し、バイアルスTL125も1979年には生産中止となりました。
1973年に本格的なスタートを切った日本のトライアルスポーツは、数年で危機的な状況になってしまいました。1976年に神奈川県の早戸川がダム建設のために使用できなくなったことも一つの要因に挙げる人もいます。
今になって考えますと、国内4メーカーのトライアル普及に取り組む姿勢が大きく異なり、共により良い環境を造り上げていく継続的な活動に欠けていたことも要因に挙げられると思います。このような環境ではありましたが、ホンダは1975年に世界で戦えるマシン開発に着手しました。この開発を推進していくのは1973年12月にホンダに入社した田中英生氏でした。
一方日本では、当時モーターレク本部契約講師の万沢安夫氏と成田省造氏による壮大なトライアルイベントが構想されていました。両氏はイギリスのSSDTに出場した経験を活かし、日本の大自然を思いっきり走りながらトライアルを楽しむイベントの実現を目指しました。北緯40度線の岩手県に理想的な場所を見出し地元の協力をいただきながら1977年に「第1回イーハトーブトライアル」が開催されました。そして、MFJ全日本選手権は、RSCが開発したトライアルマシンを駆り、RSC契約の近藤博志選手がチャンピオンを獲得するなど、新たな風が吹いてきました。
1970年代後半から1981年にホンダからTL125を復活させた「イーハトーブ」が登場し第二次トライアルブームと呼ばれる1980年代前半までは次回で紹介したいと思います。
(つづく)