第32回 バイアルスTL125誕生50周年記念 -トライアル活動挑戦の軌跡・2-
1973年は、バイアルスTL125が発売され、日本のトライアルが本格的にスタートした年になりました。そして1年の間に大きなニュースが続きます。この変化の多かった1973年の主な出来事を見てまいりましょう。
※氏名の表記は当時のものであることをご了承ください。
※資料類は個人所有のものもあり、汚れや破損はご容赦ください。
・1月 ホンダ、バイアルスTL125を発売。
・3月 ホンダモーターレクリエーション推進本部が設立される。当時はトライアルの普及活動に重点を置いた。
・5月 イギリスのSSDT(スコティッシュ・シックスデイズ・トライアル)に、バイアルスTL125で西山俊樹氏、万沢安夫氏、成田省造氏3名が出場し完走。海外の本格的なトライアルのノウハウを吸収。
・6月 RSC(レーシングサービスセンター)が、サービス部門から独立。モータースポーツ用のキットパーツの開発・販売に注力できる体制になる。
・7月 ヤマハと契約した「ミック・アンドリュース」氏が来日し、袋井テストコースで日本人を対象としたスクールを開催。
・11月 鈴鹿サーキットで開催された第5回全国白バイ安全運転競技大会の「トライアル競技」部門でTL125が採用される。
・11月 鈴鹿サーキットで第1回モーターレクリエーション全国大会が開催される。
・11月 MFJ主催の第1回全日本選手権トライアルが開催される(神奈川県早戸川)。
・12月 ヤマハ、TY250Jを発売。
【ホンダモーターレクリエーション推進本部の活動】
本田技研の原宿本社に設立された「モーターレクリエーション推進本部」(以下モーターレク本部)は、組織名が表すようにバイクを利用したレクリエーションの普及活動を通してホンダファンの拡大とホンダ製品の拡販に寄与するための組織でした。
「楽しみ方(乗り方)の提供」「乗る機会の提供」「乗る場所の提供」を基本方針として、トライアルの普及活動に積極的に取り組みました。「楽しみ方(乗り方)の提供」は、西山俊樹氏、万沢安夫氏、成田省造氏に普及活動の講師になっていただき、バイアルスTL125のユーザーを対象に各地でスクールを展開しました。
そして、トライアル競技で最も過酷と言われているイギリスのSSDTにTL125で出場していただきました。西山氏は、1971年にSSDTに出場した経験がありましたが、万沢氏と成田氏は初めての挑戦です。この過酷な競技に果敢に挑戦した3名は見事完走を果たしました。トライアル発祥の地である本場イギリスで培ったノウハウは、その後の活動に大きくプラスになったと思います。
「乗る機会の提供」は、本社、支店(6拠点)、営業所、代理店が、気軽に参加できるスクールやバイアルス大会の企画と運営を手がけました。これらのイベントでは講師陣によるライディングアドバイスなども行っています。
早くも同年11月には、鈴鹿サーキットで第1回モーターレクリエーション全国大会を開催しました。トライアルには、123名が参加し盛況に行われました。Aクラス上位10名によるスペシャル競技は、多くの観衆が見守る中、カワサキのマシンで活躍する山本レーシングの加藤文博選手がTL125で出場してベストパフォーマンス(優勝)を獲得。2位は本田技術研究所の田中義耿選手、3位西山俊樹選手、4位成田省造選手、5位万沢安夫選手の順でした。
そして「乗る場所の提供」は、鈴鹿サーキットや奈良県生駒市(生駒テックの跡地)などにバイアルスパークをオープンするなど、全国に約20か所のバイアルスパークを設けました。
このように、徹底した普及活動を展開することで、日本にトライアルを定着させることに取組みました。
【ヤマハと契約したミック・アンドリュース氏が来日】
7月、ヤマハはミック・アンドリュース氏を日本に招き、袋井のテストコースでスクールとデモンストレーションを披露しました。このイベントに参加したホンダのOBである田中英生(たなかひでお)氏に当時の様子を伺いましたので紹介させていただきます。※以下「さん付け」で記載いたします。
田中さんは、1972年の関東トライアル(通称カントラ)のチャンピオンで、マシンはヤマハのDT250改でした。2位は弟の義耿(よしあき)さんで、トライアル界で「田中兄弟」を知らない人はいなかったようです。
『ミック・アンドリュースが袋井でスクールを開催するから参加してみないか。というお話をいただいて、DT250改で参加できたのです。誰でも参加できるわけではなかったので、DT250改に乗って関東トライアルでチャンピオンになったことが評価されたのだと思います。とにかく圧巻の走りでした。世界のトップライダーですから、我々とは別次元ですよ。特にフロントを高く上げてターンするテクニックは素晴らしいの一言。実は、このテクニックに「フローティングターン」と名付けたのは私なんですよ。今でも広く使われていますから、私の自慢の一つです』(田中)
田中さんにとって、世界のトライアル情報があまりない時代に、いきなりスーパーテクニックを見る機会に恵まれたことは、その後のトライアルとの関り方に大きな影響を与えたのだと思います。
写真右 ミック・アンドリュース氏によるヤマハトライアル講習会の様子を伝えています。(出展:ヤマハニュース 1973年8月号)
【MFJ 第1回全日本選手権トライアルが開催される】
11月18日、神奈川県の早戸川特設会場にて記念すべき第1回大会が開催されました。MFJの会員誌「ライディング」によりますと、各ブロックから選抜された126名がエントリーしました。この年のMFJ公認トライアル競技会はすでに32大会を数えています。競技規則の策定や会場の確保にオブザーバーの育成など、多岐にわたる課題を着々と解決していったスピード感には驚かされます。第1回大会を見ようと駆けつけたファンは約4,500名。カワサキのマシン開発に携わっていたドン・スミス氏も来場されました。
この大会には、ホンダのバイアルスTL125、ヤマハは発売直前のTY250Jを木村治男選手に託します。トライアルマシン開発が4メーカー中最も早かったといわれるカワサキの250ccマシンは、モトクロスでも著名な山本隆選手が駆ります。そしてスズキも開発中の250ccマシンで名倉直選手が出場と、国内4メーカーのマシンが揃った大会となりました。
結果は、木村治男選手が第1回のチャンピオンを獲得。2位は山本隆選手。3位にはTL125で戦った万沢安夫選手が入りました。トライアル競技は、排気量によるクラス分けが無いため、TL125で戦ったライダーは苦戦を強いられたのではないかと思います。
田中英生選手は、関東ブロックの成績トップで選抜され出場しました。
『私は、DT250改で出場しました。結果は10位に入れてまずまずというところでした。弟はTL125で7位に入っています。たぶん排気量を少し上げていたと思いますが、それでも250ccのトライアル専用設計マシンには敵わないですよ』(田中)
田中さんは、この大会の1か月後の12月に本田技術研究所に入社することになります。
『弟の義耿は、1972年にホンダに入社していました。私は競艇用船舶を扱う会社でエンジン設計をしながら、トライアル競技を続けていました。たぶんホンダの技術陣は、エンジンに詳しくDT250を改造して関東トライアルでトップだったことなどを評価してスカウトしてくれたのだと思います。トライアルで世界に挑戦するシナリオがあり、その開発を任せられる人材を探していたのだと思います』(田中)
第1回大会は、国内で市販されていたトライアルマシンはTL125のみです。250ccの発売前のプロトタイプをはじめ、田中さんのようにトレールマシンをトライアル用に改造したマシンも多数出場するなど、変化に富んだ大会になりました。
こちらは、MFJ60年の歩みの特設サイトhttps://www.mfj.or.jp/60th/です。当時のライディング誌を見ることができます。そして、当時の競技会の様子や貴重な広告を見るのも楽しいです。
【ヤマハがTY250Jを発売】
12月、満を持してTY250Jが発売されました。空冷2ストローク単気筒246ccのエンジンは、最高出力16.5PS/6,000rpmを発揮。ミック・アンドリュース氏の来日で期待を高め、発売直前のMFJ第1回全日本選手権トライアルでは木村治男選手が優勝に導くなど、最高の環境が整いました。価格はバイアルスTL125に比べ10万円以上も高い28万円でした。
バイアルスTL125は、本格的なトライアル競技の入門的な位置づけの「バイアルス」用に開発されたマシンですから、TY250Jと同じ土俵で戦うのは圧倒的に不利でした。そして、カワサキやスズキが250ccの市販車の発売に向けて準備を進めている状況から、ホンダも250ccクラスのトライアルマシンの開発が急務となりました。
翌1974年も大きな変化が待っていました。
ホンダがトライアルの神様と称されていた「サミー・ミラー」氏と契約し、鈴鹿サーキットで一部関係者向けのスクールを開催したのです。次回は、このサミー・ミラースクールに参加した田中英生さんのお話を交えながら、熱を帯びてきたトライアルの世界について紹介させていただきたいと思います。
(つづく)