第34回 バイアルスTL125誕生50周年記念 -トライアル活動挑戦の軌跡・4-
【新たなトライアル活動が始動した】
1973年、バイアルスTL125の発売で日本のトライアルが活況を呈しました。しかしながら、1976年頃になると購入できる国産のトライアルマシンは、ホンダとヤマハ2メーカーに限られ、1978年にはヤマハTY250が販売終了し、バイアルスTL125も1979年には生産中止となりました。
このような環境ではありましたが、当時モーターレク本部契約講師の万沢安夫氏と成田省造氏による壮大なトライアルイベントが構想されていました。両氏はイギリスのSSDTに出場した経験を活かし、日本の大自然を思いっきり走りながらトライアルを楽しむイベントの実現を目指しました。北緯40度線の岩手県に理想的な場所を見出し、1977年8月に「第1回イーハトーブ2日間トライアル」を開催しました。
このイベントには、地元の「田中ホンダ」や二輪クラブの「不来方(こずかた)」のメンバーが熱心に協力してくれました。
【ツーリングトライアルの普及に携わる】
1978年、私はホンダの狭山工場から原宿本社のモーターレクリエーション推進本部に異動になりました。この年、トライアルのエキスパートで第1回のイーハトーブトライアルにTL125で自走参加した陣内先輩とともに、岩手に向かいました。仕事は、第2回大会をビデオ撮影して各支店に案内する事でした。トライアル競技では、RSCが発売したTL200Rが戦闘力を発揮していましたので、モーターレク本部はナンバー付のTL125で楽しむツーリングトライアルの普及を考えていました。
ライダーたちを追いかけながら、林道の奥深くまで四輪車を走らせて、陣内先輩の指図に従ってビデオ撮影に取り組みました。編集は、試行錯誤しながら私がナレーションまで担当しました。手作りのビデオテープを各支店に送り「ぜひ皆さんも林道を駆け巡りながらトライアルを楽しめるイベントを企画してください」と提案しました。
この頃は、TL125を新車で購入することは難しくなっていました。中古車も希少になるほどでしたから、本部には販売店やトライアルクラブなどから苦情が寄せられました。
1979年、私はトライアル普及担当になりました。エキスパートライダーで、しかも分解整備やチューニングにも精通した川井、陣内両先輩から引き継ぐことになりました。
手探りの状態でしたが、中古のTL125を購入し、エンジンの分解から組立を習い、MFJのノービスライセンスを取得しました。本部と契約している講師陣にとっては、とても頼りない担当に見えたと思います(実際そうでした)。
1980年2月、ミニバイクのXL50S、XL80Sが発売されました。このバイクは取り扱いやすく粘りのあるエンジン特性でしたから、ちょっとしたトライアルごっこに使えそうな気がしました。早速、林道ツーリングトライアルのマニュアルと題したパンフレットを作成することになりました。まさに試行錯誤の時代でした。
【世界への挑戦が始動した】
1975年、ホンダは世界で戦えるマシンの開発に着手しました。この開発を推進していくのは1973年12月にホンダに入社した田中英生氏でした。
田中『世界に挑戦するマシンは、4サイクルエンジンの利点を生かした設計のためTL250のエンジンをベースに開発がスタートしました。苦心の末に完成したのが305ccの「RTL305」です。このRTL305は先行テスト車の位置づけでした。サミー・ミラーさんがローカルイベントにテストを兼ねて出場してくれました。彼からのアドバイスなどを反映したのが本命の「RTL306」です。軽量な2サイクルエンジンの重量に対抗できる素性の良いエンジンができたと自負しています。このマシンで、1976年のSSDTに挑戦しました。私にとって初の海外出張はSSDTだったのです』
RTL306のSSDTの結果は、9位にニック・ジェフェリース選手、12位にブライアン・ヒギンズ選手、そして伸長著しい近藤博志選手はRTL305で出場しましたが惜しくもタイムオーバーという結果でした。
田中『このSSDTに出場した後に、RTL306の開発は完了しました。まずまずの手応えを感じましたが、私がトライアルマシンの開発に携わったのはここまででした』
このRTL306は、翌年1977年にホンダの現地法人契約のロブ・シェファード選手に託されました。
田中『ホンダにとって、初めての世界選手権シリーズへの挑戦になりました。
このシーズンのフィンランド大会で見事優勝を果たしてくれました。当然、ホンダのトライアルマシンが優勝するのは初めての事です。私たちの開発の方向性が正しい事の証明にもなったと思います。私のメモには、RTL305で優勝した記述があります。正確な記録は残っていないと思いますが、ロブ選手が直前に306から305に乗り換えた可能性があります。セクションとの相性が良かったのかもしれません』
1977年の初優勝の記録は、当時のホンダの発行物には見当たりません。ホンダの関心事は、RCB1000で戦う欧州耐久ロードレース選手権とモトクロス世界選手権500ccに向けられていました。
この年、ロブ・シェファード選手は世界ランキング5位を獲得しました。
田中さん達が開発したRTL306をベースに造り上げられた「RTL360」は、1978年にロブ・シェファード選手が駆り世界ランキング5位を獲得しています。
私の記憶では、この年にモーターレク本部の川井先輩がロブ選手のメカニックとして渡欧していました。ワークス体制ではなく現地法人契約でしたので、十分なサポートが得られない状況だったようです。そこで、選手サポートと本場のトライアル情報の収集を目的に本社から派遣されていたのです。
田中『RTL306は、残念ながら日本では見ることができません。しかしながらアメリカのAMAミュージアムで保存されていることを知り、現地に出かけました。RTL306は、アメリカのトライアル競技で使用されていましたから、その1台なのでしょう。AMAミュージアムによると、日本のホンダ関係者で訪問したのは、本田宗一郎さんと私の二人だけとの事。記念に博物館で銘木を制作して飾ってくれているのです。とても光栄なことです。RTLを開発して本当に良かったとしみじみ思いましたね』
RTL360は、なかなか世界のトップに辿り着けない年が続きましたが、1980年にホンダマシンに乗るエディ・ルジャーンとのコンビによって、やがて世界チャンピオンマシンに成長するのです。
一方日本では、1977年のMFJ全日本選手権は、RSCが開発したマシンを駆り、近藤博志選手がチャンピオンを獲得。RSC契約の近藤選手は1979年まで3連覇するなど、4サイクルマシン「TL200R」の優秀性を実証しました。
RSCは、1978年にチャンピオンマシンレプリカと言える「TL200R」を発売しました。専用設計のフレームに扱いやすい4ストローク200ccエンジンを搭載。多くのトライアルファンに支持されました。
日本のトライアルにとって1980年代は、マシンの性能とライダーのテクニック向上によって競技の難易度が一層高まりました。
1980年の全日本選手権は、開幕戦でヤマハの新しいファクトリーマシンを駆る加藤文博選手が優勝。マシンはYZT325と呼ばれる300ccを超える排気量です。ホンダ勢は、RSCの近藤選手をはじめ新進気鋭の丸山胤保(たねやす)選手などはTL200RⅡを
220ccくらいに改造したマシンで戦っていました。高低差があるヒルクライムセクションなどでは、排気量の差歴然ですから、ホンダのトップ選手からはより力のある大排気量マシンを求める声が大きくなってきました。選手権の後半に差し掛かると、加藤選手と丸山選手の一騎打ちの状況になりました。
丸山選手は、ホンダモーターレク本部と契約した「普及インストラクター」で、メインの業務はトライアルスクールの講師でした。私の担当も「トライアルの普及活動」がメインで、全日本選手権でチャンピオンを獲得する事ではありません。しかしながら、丸山選手の努力によってチャンピオンに手が届く位置まで登ってきました。あとは、加藤選手の大排気量マシンに対抗できるマシンを提供するのが、私たちに残された課題でした。本部からRSCに実情を説明して、世界選手権に投入している250ccのエンジンを供給してもらえるよう交渉しました。エンジンに加えて作動性に優れたショーワ製サスペンションなどもセットで依頼した記憶があります。
80年シーズンも残り2戦となり、第8戦の北陸大会で250ccマシンに乗る丸山選手は見事優勝。続く最終戦も優勝で飾りシリーズチャンピオンを獲得しました。
この当時は、彼自身の二輪販売店「ホンダ・スーパーウイングまるやま」の開店準備に取り掛かっていましたので、超多忙な日々の中での挑戦だったのです。
【トライアルが盛り上がっているのに売る商品が無い】
冒頭で紹介しましたが、1977年にスタートした「イーハトーブトライアル」のころから公道走行のトライアルマシンを入手することが難しくなってきました。
苦肉の策として、「現在販売中のオフロードマシンで林道ツーリングトライアルを楽しんでいただこう」という考えで、丸山選手にフロント23インチのXL250Sにトライアルタイヤを装着したマシンでイーハトーブトライアルに出場していただきました。
私は、XL125Sをベースに、トライアルショップ成田でトライアル風に改造してもらいました。シートはTL125のシングルシートに、ヘッドライトは軽量なXR200のものを流用。フロントフェンダーはダウンタイプに、スプロケットを変更してトライアルタイヤを履けばセクショントライできそうなマシンに仕上がりました。
【イーハトーブの誕生】
1979年頃、モーターレク本部には全国の販売店からトライアルスクールの依頼が多くありました。講師陣の成田氏、丸山氏には多忙なスケジュールの中、全国を飛び回っていただきました。一方、販売店からは販売するマシンが無いと多くの苦情をいただきました。そのような市場環境の中、本社の営業部門からTL125の再販売について研究所に提案することになりました。その会議の席上に、トライアル普及担当として出席することになりました。この会議の決裁者から「技術的には問題はないが、日本でどれだけの市場があるのか? 最低でも1年間で3000台は必要」とコメントがありました。営業部門の担当者は「では、3000台の販売見込みがあれば検討していただけるのですね」という流れで、本社側で3000台の根拠を研究所に提示する必要に迫られました。
本社に帰り、所属長に報告すると、「では、高山君が全国のモーターレクショップに電話して、何台注文されますか、と聞き取りなさい」というアドバイスを受けました。モーターレクショップとは、モータースポーツやツーリングなどに熱心な販売店様で、リスト化していました。北海道から順番に、モデル概要(バイアルスTL125と概ね同じ仕様)とおおよその価格を説明しました。発売されると仮定して、1年間で何台注文いただけるかを、1店、1店聞きました。ある販売店では、「そうだねぇ。少なめだけれど100台かな」という、信じられない反応。2日程度でまとめた数字は、3000台に達していました。電話だけの仮の数字ですが、営業部門がこれを追い風と捉えて研究所に交渉してくれたのだと思います。
急ピッチで開発されたマシンは、「イーハトーブ」と名付けられました。モーターレク本部は、トライアルマシンではなく「トレッキングマシン」という位置づけで普及することにしました。当時の私にとって、トレッキングは初めて聞く言葉でした。所属長は登山が趣味でしたから、登山用語をバイクの世界で初めて使ったのです。
トライアルマシンとして売り出すと、競技志向の人たちは不完全燃焼しますから、あえて競争のイメージを払拭したのです。
次回は、イーハトーブの拡販に向けた普及活動からTLR200誕生までを紹介させていただきます。
【万澤安央氏の訃報に接し】
4月上旬、日本のトライアルスポーツの普及と発展に多大な貢献をされた万澤安央(旧・万沢安夫)氏が逝去されました。氏のご冥福をお祈りいたします。
万澤氏と初めてお会いしたのは1978年だったと記憶しています。すでにジャーナリストとして活躍されていました。1981年、シルクロードのPR活動の一環として、中国のシルクロード踏査のメインライダーとして参画いただきました。私も同行させていただき、万澤氏と地平線を目指して走ることができました。
その後、ホンダウエルカムプラザ青山で開催したバイクフォーラムでは、1987年から延べ30回にわたり司会役を務めていただきました。私が作った稚拙な台本を基に、幅広い分野で活躍しているゲストから、貴重な話を導きだしてくださいました。
バイアルス誕生50年の寄稿を通して、素晴らしいトライアルの世界を紹介していくことが、万澤氏の恩に少しでも報いることができればと思います。