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レース・イベント


フラミンゴ(flamingo)はアフリカ、南ヨーロッパ、中南米の塩湖や干潟に生息する。塩湖やアルカリ性の湖といった特殊な環境に適応しており、数千羽から百万羽程度の巨大な群れを形成する。フラミンゴという名前はラテン語で炎を意味するflammaに由来しているとされる。

1980年代後半から1990年代初頭、ロードレースが華やかな輝きを放っていた時代を若井伸之は生きた。180cmと長身で手足が長く痩せていた。その身体を折りたたむようにGP125ccマシンに密着させ、激しいコーナリングを見せ、イン側の肘や膝を擦った。その姿が優雅なフラミンゴのようだった。

今も、スペイン・へレスサーキットの1コーナーアウト側に、若井の死を悼み、フラミンゴの像がたっている。

■文:佐藤洋美 ■写真:竹内秀信、赤松 孝

9人もの日本人がWGPパドックの住人に…

 1992年のロードレース世界選手権(WGP)が始まろうとしていた。若井伸之はショウエイヘルメットのサポートを受けていたこともあり、スタッフから音速の貴公子として高い人気を誇るF1ドライバーのアイルトン・セナのサイン入りのヘルメットバッグをプレゼントされた。

 若井は、家族の前で「見てください、このヘルメットバッグを。赤いだけじゃないです。このサインを見て下さい。“SHOEI”と言えばこの人ですよ。アイルトン・セナぁ~。そうなんです。あのセナの直筆のサインが入っています」と満面の笑みを見せて自慢した。

 セナを尊敬していた彼にとって、このヘルメットバッグを持つということは、同世代の青年が感じる以上の興奮だったに違いない。このバッグを持ち、若井はWGPを転戦することになる(セナは若井と同じ5月1日に生涯の幕を閉じるのだが、そんなことを予想するものがいるはずもなく、この時、そこには希望しかなかった)。

若井伸之
※写真をクリックすると違う写真を見ることができます。

 この年、F1をマネージメントするバーニー・エクレストンがWGPをプロフェッショナルな興行イベントへと変革を行った。バーニーは主催権を持ち、放映権はスペインのドルナが各国のテレビ局との交渉と放映を一括して行うことになった。スターティングマネーや賞金が向上し、転戦費用の一部がチームに支払われるなど、ライダーたちはWGPの大事なアーティストとして扱われるようになり、WGPはプロスポーツとして歩み始めた。GP500がGP1、GP250がGP2、GP125がGP3へと名称が変わった。

 若井は昨年同様モトバムレーシングからGP3に継続参戦。上田は海外名門チームピレリに所属、坂田和人はTSR(テクニカルスポーツ)に所属した。GP1には新垣敏之、GP2に清水雅広、小園勝義、GP3には畝本久、和田欣也、清水隆男がフル参戦。9人もの日本人がWGPパドックの住人となった。

 GP3参戦マシンは、メーカー直属のワークスマシンはないものの、A/Bキット、ノーマルマシンが混存する戦いだった。上田はAキット、坂田はBキット、若井はノーマルマシンでの参戦となる。それでも若井のマシンはRCバルブ付になった。メカニックの新国 努はシリンダーを加工し、チャンバーを自身で作り、戦闘力を上げようと苦心した。

 若井はセッティングを試行錯誤しながら、新国チューンナップのマシンとじっくりと向き合い、走り込みを重ねた。上田は日本語、英語、イタリア語と3ヶ国の翻訳表を作成し、チームとのコミュニケーションを円滑にしようと対策をして合流する。だがニューマシンの完成が遅れ、テストが出来ない事態に愕然としていた。坂田は開幕1ヶ月前に鎖骨を折り手も傷めてしまう。

 ライバルとなるアレッサンドロ・グラミーニ(イタリア・アプリリア)は毎日のように走り込み、ホルヘ・マルチネス(スペイン・ホンダ)は冬の間に2000km、WGP20戦分以上の走行距離を走っていた。

開幕戦日本GP・鈴鹿

 開幕戦となった鈴鹿に若井、坂田、上田は、それぞれの思いを抱きながら顔を揃えた。若井は、昨年の日本GPで絶対にポイントを取らなければGP参戦は叶わないと追い詰められていたが、あの時とは違ってリラックスしていた。持ち前の社交性を発揮し自転車でパドックを動き回り関係者と談笑する余裕があった。上田のマシンが届いたのはレースウィーク、走行初日はトラブルで走れなかった。坂田はケガの不安を抱いていた。

 雨となった予選で、坂田はウエット路面を攻めに攻め、驚異的なタイムを叩き出すが転倒してしまう。ブルーノ・カサノバ(イタリア・アプリリア)がポールポジション(PP)、坂田は5番手、若井が10番手、上田は11番手となる。

若井伸之
若井伸之

若井伸之

 決勝も天気は回復しなかった。悪天候となり出走42台中、20台が転倒するサバイバルレースとなった。上田、坂田は転倒してしまう。若井はレース中盤から勢いを増す走りを見せる。トップ争いのカサノバ、ラルフ・ワルドマン(ドイツ・ホンダ)に追いつき、トップ争いを繰り広げるのだ。ラスト3周でワルドマンがスパートし優勝。2位にカサノバで、若井は3位で表彰台に登った。

 若井の友人でもあるカサノバは「若井がもっと速いマシンに乗っていたら勝っていただろう。若井自身は本当に全力を尽くしたことが俺にはわかる。3位は素晴らしい結果だと慰めたが、若井は勝てなかったことを悔やんでいた」と振り返っている。

 ホームグランプリの勝利は、ライダーにとって格別のものだ。それが手の届くところにあったのだから、若井の落胆は大きいものだった。たが開幕戦で3位、表彰台スタートは若井がGPの中でトップライダーとなったことを強く印象付けることになった。

 ホンダはこの年、各気筒の点火タイミングを不等間隔とした画期的なエンジン、通称「ビッグバン」エンジンをGP1にデビューさせ、ミック・ドゥーハン(ホンダ)が勝利。GP2はルカ・カダローラ(ホンダ)が優勝を飾る。

第2戦オーストラリアGP・イースタンクリーク

 このシーズンから全戦でポイントが加算されることになり、若井は、有効ポイント制だった昨年はキャンセルした南半球のオーストラリア・イースタンクリークへと向かった。レースウィークの初日、若井は清水隆夫(シミオ)、上田とコースを歩いた。若井はコースを歩いただけで、ギアレシオ、スロットル開度、加速のタイミングまで的確に把握した。このコースを経験している上田は、若井の判断が正しいことに驚いた。

「すごいなー」
「まー、一応、GPライダーですから」
「御見逸れしました

 高速の1コーナーでは「ここは、6速全開だ。どうじゃ、怖いだろ」と上田はシミオをビビらす。最終的にシミオは、先輩ライダーふたりとコースを下見し攻略法をレクチャーしてもらったことで、予選終了までに6速全開で走れるようになる。

 坂田は最終セッションで、一気にタイムを1秒半も更新する激走を見せて、昨年のマレーシアGP以来のPPを獲得する。若井は8番手、清水は19番手、上田はリアサスのセッティングが決まらず、旋回性が上がらずに思うように走れずにいた。そこをなんとかしようと1回目の予選中に熱くなり転倒、右手を強打してしまう。上田は「まったく成長していない自分に落ち込んだ」と元気がなかった。2回目の予選ではサスペンションの方向性が見えたが、昨年の2秒落ちで24番手の6列目アウト側と最悪のグリッドとなる。

 決勝で若井はペースアップしトップ争いに迫る走りを見せるが、シートラバーがはがれ、粘着テープがツナギに張り付いて身体がスムーズに動けなくなってしまう。上体を大きく動かしバランスをとる若井にとっては致命的で、コーナーの手前で立ち上がり、腰を浮かせてないとコーナリングが出来なくなってしまい、思うような走りができずに表彰台を逃す4位でゴールし涙にくれた。

 上田はスリップを使っても前に届かず、コーナーも曲がらず、16位のノーポイント。完走してポイントを取れないのはフロントブレーキが効かなかった昨年のチェコ以来。PPスタートの坂田は、気合が空回りして1周目にコースアウト、レース復帰するも、同じ場所で転倒してリタイヤしてしまう。ラルフ・ウォルドマン(ドイツ・ホンダ)が優勝を飾った。

 GP1はドゥーハンで開幕2連勝、GP2はカダローラが勝った。

若井

第3戦マレーシアGP・シャーラム

 アプリリアの速さが目立ち、ホンダのスペシャルエンジンを搭載したライダーたちとの熾烈なタイムアタック合戦が繰り広げられていた。予選ではグラミーニがPP、2番手に坂田、3番手カサノバ、4番手カルロス・ジロ・ジュニア(イタリア)と、坂田以外はアプリリア勢だ。若井は7番手につける。ここまでが1分33秒台にひしめく。

 決勝はカサノバ、グラミーニが抜け、これにジロ、ワルドマン、マルチネス、坂田、ラウディスが追いつき、目まぐるしくポジションを入れ替えながら周回を重ねた。その争いからカサノバ、ワルドマン、グラミーニが抜け、3台の首位争いとなる。その後方、マルチネス、ジロ、坂田、ラウディスが続いた。若井も追い上げ、このセカンド集団に迫る勢いを見せる。

若井伸之
若井伸之

若井

 だが、後半に突入するとトップグループは予選タイムに迫る1分33秒台にペースアップ、これについていけなかった坂田、ラウディスが後退、追い上げる若井との接近戦へと発展する。

 トップ争いは激しさを増し、グラミーニが首位を奪うと2番手以降を突き放そうとするが、カサノバ、ワルドマンは離れない。そこに4位争いもペースアップし33秒台に入れ、トップ争いが大きな集団となる。その争いの中で、激しい攻防を見せていた若井がクラッシュ、ジロも転んだ。波乱のレースを制したのはグラミーニ、2位にワルドマン、3位カサノバ、4位にマルチネス、5位にラウディス、坂田は6位、上田は11位でチェッカーを受けた。

 GP1はドゥーハンが3連勝、GP2もカダローラが3連勝を飾った。

第4戦スペインGP・へレス

 GP3のPP争いでトップタイムを記録していた坂田は、今大会からニューエンジン、ニューシャーシで挑み、ベストセッティングを導き出す。だが、予選終了間際にワルドマンとグレッシーニが坂田を上回る。そのタイムを確認した坂田はコースに飛び出し、さらに1分53秒790とタイム更新、PP奪回する逆転劇で喝采を浴びた。若井も4番手タイムを記録しフロントローに食い込む。上田は11番手となる。

若井伸之
若井伸之

 決勝では、絶妙のスタートで予選7番手のジャノーラが飛び出す。これにカサノバ、ワルドマン、グレッシーニ、若井、坂田も続いた。予選タイムに迫るトップ争いは、マルチネス、上田、ガブリエール・デビア(イタリア・ホンダ)が加わり10台の首位争いへと膨らんだ。

 ワルドマン、ジャノーラ、デビアがトップ争いを演じ、マルチネス、若井、坂田が4位争いの攻防を繰り広げながらトップ争いに迫る。大混戦となった戦いを制したのはワルドマン、2位にグレッシーニ、3番手争いを繰り広げたジロ、若井、坂田だが、ジロが巧なブロックで3位となる。坂田4位、若井5位でチェッカーを受けた。上田は転倒リタイヤに終わった。
 
 GP1はドゥーハン、GP2もカダローラが勝利を重ねた。

若井伸之

本拠地へ

 スペインの戦いを終えると、若井は、再びベルギーのHRCの近くのガレージにやってきた。坂田の所属するTSRも、Jha、アーブ・カネモトチームも、続々と集まってきた。若井のチームは、ベンツバン1台でキャンパーを引っ張っていたが、このシーズンは4トン車、冷蔵庫付のキャンパーへとグレードアップした。

 昨年はここの住人だった上田はイタリアチームへと移籍したことで、住居もイタリアへと移った。カピロッシがチームメイトとなり、イタリア語が堪能な上田はすぐに打ち解け、一緒にトレーニングを開始していた。ふたりがいると、目ざといファンが取り囲み、サイン会となってしまう。上田は、ヨーロッパのバイク人気を肌で感じていた。すでにトップライダーとして認知され、上田Tシャツや日の丸Tシャツなどがサーキットでは売られるようになっていた。

 インターバルの間は、よく麻雀卓を囲んだ。坂田の弟でメカニックの明彦にマージャンを教えたのは若井だ。パドックでも日本人のマージャン好きは有名だった。若井のやり方は「セコいんだよね。捨てたパイをごまかしたりする」と坂田が指摘する。4人いれば出来るマージャンは、お金のかからない娯楽だった。せっかくヨーロッパにいるのに、観光しようと思えば世界遺産も歴史的建造物もたくさんある。有名な美術館だって、博物館だって、風光明媚な場所にもことかかない。だが、動けば余計なお金がかかる。それ以上に、レースより興味のあるものが彼らにはなかった。夢の世界GPに参戦できているだけで満足だった。

 昨年は参戦1年目で、右も左もわからずに、目の前のレースを懸命に追いかけた。がむしゃらに戦っていたらシーズンが終わっていたような感覚だった。だから今年は、もっとGPを知り、もっともっとその魅力に触れたかった。出来るだけサーキットにいたかった。世界から選りすぐりのライダーたちが集まり、1番を決める舞台は、やはりモータースポーツを愛するものにはユートピアだ。朝から晩まで、レースにどっぷりと浸かっていられるのだ。日本にいるときはレース資金を稼ぐために仕事に追われ、自分がライダーであることを忘れてしまいそうになる。

 だがここでは、ずっとライダーでいられた。レースの生まれたヨーロッパは、レースへの理解度も高く深く、モータースポーツ文化が根ついている。レースをすること、バイクを愛することは、普通のことで特別なことではない。自分たちのやっていることを認めてくれる空気は居心地のいいものだった。買い物をしていても、レストランにいても、「がんばれよ」と声をかけてくれる。

 何十万と集まる観客の声援は、自分たちにも向けられており、はっきりと聞こえた。いい走りを、いいレースをすれば、祝福があった。個性の強いライダーたちとのバトルは、自分がまだ知らなかった力を最大限に引き出してくれる。GPは、いつも発見があり刺激に満ちた世界だ。

 得も言われぬ緊張感、張り詰めた空気、シグナルグリーンと同時に一斉に飛び出すライダーたちの最高のライディングに熱狂する観客たちの声援は、自分たちの背中を押し続けてくれた。

 そして、掴んでみたいと望む名誉も金も、そこにはあった。GP1のトップライダーたちは、何億という高額の金額を手に入れていた。同じパドックにいても、別世界の住人だった。ケビン・シュワンツの巨大なモーターホームはパドックでも目立った。モーターホームの後方部分には車を積むスペースがありフォルクスワーゲンのポロが収まっていた。サーキットに付いてからの足に使うのだ。モーターホームを移動させるドライバーがいた。アメリカの家に帰れば何エーカーという牧場があった。

 ウェイン・レイニーのモーターホームは小ぶりだが、ヨーロッパ車の最高ランクのものだった。レイニーもカリフォルニアにヘリポート付きの豪邸があった。エディー・ローソンだって、ジョン・コシンスキーだって、アメリカでの生活レベルは高い。ワイン・ガードナーもドゥーハンもオーストラリアのゴールドコーストにはヨットが横付けにできる豪邸がある。

 自分たちの身近にいるカピロッシだって、契約金は2億は下らない。スポンサーからポルシェのプレゼントがあるトップアスリートだ。人の好みはいろいろだろうが、お世辞にもイケメンとは言えないライダーでも、GPライダーだというだけで、美女が寄って来た。

 そんな姿を身近に見ながら「すげー」と若井、上田、坂田は一般人のように騒いでいた。だが、若井は「俺らだって、あんなふうになるさ。1億くらい、すぐに稼げるよ」と豪快に笑い飛ばすのだ。坂田も上田も「そう簡単じゃないだろ」と突っ込むが「何を言っているんだよ。簡単とか、難しいじゃないんだな。君たち、わかってないねー。そうなるんだよ。俺たちは、そのために、ここに来たんだろ。目標持って、夢持って、だから、ここにいるんだろうが」とまくしたてる。

「そうだよな」
「うん、そうだよ」
「そうだろ」

 若井のわけの分からない迫力と説得力に負けて、ふたりは若井と一緒に豪快に笑うのだった。若井は、自分の夢を坂田や上田にも移植した。ふたりは、でっかい夢を若井と見た。「絶対にかなえてやるぞ」といつの間にか決意していた。なんだか、若井のそばにいると、自分たちも特別な人間になったような気分がした。

 全日本では、レース人気を底上げし、時代の寵児となった平忠彦が桜の花びらが舞うスポーツランドSUGOで引退式とラストランを行った。彼に憧れてレースを始めたライダーが大勢いた。WGP参戦を果たし、鈴鹿8時間耐久での勝利を求める姿に多くのファンが歓喜した。平忠彦の引退は日本のレース界の大きな出来事だった。

 相撲会でも横綱・千代の富士貢が引退した。スターが退く時は、新たなヒーローが生まれる時でもある。

 日本ではテレビアニメが人気となり、「美少女戦士セーラームーン」シリーズ放送開始、「クレヨンしんちゃん」も放送開始と、長く愛されるキャラクターが誕生の年でもあった。
(続く)

若井伸之

(文:佐藤洋美、写真:竹内秀信、赤松 孝)


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2024/06/28掲載