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フラミンゴ(flamingo)はアフリカ、南ヨーロッパ、中南米の塩湖や干潟に生息する。塩湖やアルカリ性の湖といった特殊な環境に適応しており、数千羽から百万羽程度の巨大な群れを形成する。フラミンゴという名前はラテン語で炎を意味するflammaに由来しているとされる。

1980年代後半から1990年代初頭、ロードレースが華やかな輝きを放っていた時代を若井伸之は生きた。180cmと長身で手足が長く痩せていた。その身体を折りたたむようにGP125ccマシンに密着させ、激しいコーナリングを見せ、イン側の肘や膝を擦った。その姿が優雅なフラミンゴのようだった。

今も、スペイン・へレスサーキットの1コーナーアウト側に、若井の死を悼み、フラミンゴの像がたっている。

■文:佐藤洋美 ■写真:竹内秀信、赤松 孝

GP250参戦のチャンス、強豪相手に奮闘

 若井伸之にとって初のロードレース世界選手権(WGP)のフル参戦となった1991年最終戦マレーシアGP。トップ争いを繰り広げて3位となり表彰台に登った若井のポテンシャルの高さは、WGP関係者の目には、もっと早くに止まっていた。

 シーズン中盤の第8戦スペインGPが開催されたハラマで、フランスチームのテック3を率いるエルベ・ポンシャラル(2024年Red Bull GASGAS Tech3 TeamではMotoGPにアウグスト・フェルナンデス、ペドロ・アコスタが参戦中)から、GP250参戦の誘いを受けていた。

 だが、現状のチームを抜け、夢のためとはいえ他チームにシーズン途中で移籍することは出来なかった。もちろん自分にまだその力があるのか確信が持てなかったこともあった。その話し合いの中で、WGPシーズンが終わった後に欧州で開催されるプレステージ参戦を打診されていた。

 若井はチームオーナーの池澤一男氏に相談し「勉強してこい」と承諾を得て参戦を決意する。来季はロスマンズホンダフランスからHonda RS250を駆り念願のGP250参戦のチャンスを掴むことが出来るかも知れない。若井にとっては期待と不安が交差する参戦だった。

 若井はスペイン、バルセロナで開催されるスーパープレステージへと向かった。WGPを戦い終えたライダーがファンサービスに重きをおいて行うイベントレースだった。WGP250の強豪たち、トップ争いの常連である、ヘルムート・ブラドル(ドイツ)、カルロス・カルダス(スペイン)、ロリス・レジアーニ(イタリア)、マーチン・ウィマー(ドイツ)が顔を揃えていた。

 テック3のチームスタッフはWGPパドックで顔を合わせており、若井は違和感なく溶け込むことが出来た。スタッフたちも若井の力が、それまでに残った結果以上であることを知っていた。若井は初めて跨がるGP250マシンながら、難なく乗りこなした。走行毎に確実にタイムを削るライディングにスタッフは喜びを隠さなかった。ピットに戻ると「コンマ1秒でもタイムを詰めると飛び上がって喜んでくれた。絶対に若井なら、あいつに勝てる。思いっきり行け~」と背中を押した。若井は自分のために懸命にマシンを整備して送り出してくれるスタッフの思いを感じながら懸命なトライを重ねた。決勝ではブレーキングでブラドルを交わしウィマーに食らいつき、その後もレジアーニ、ブラドルと大バトルを展開する伸び伸びとした走りで7位と6位を獲得した。

「250のレースは初めての挑戦だったけどチームの雰囲気がよくてリラックスして走ることが出来た。いつも、モニターやコースサイドで見ていたライダーたちと競り合えたことは、本当にいい経験だった。楽しむことが出来た」

 若井は確かな手応えを感じていた。

 この参戦はオーデションの意味合いもあり、ポンシャラルは確信を得て、来季は若井を起用して参戦体制を固めようと動き出す。ポンシャラルが若井の才能を評価していたことが一番だが、まだ強さを持っていたジャパンマネーに期待する部分もあった。日本企業のスポンサードを獲得し、日本のバイクメーカーとの密接な関係を築きたいとの思惑もあった。

 苦労を覚悟で世界に飛び出し、日本で掴めないチャンスを海外で掴もうとした若井に異存があるはずもなかった。メーカーの契約を得たエリートライダーじゃなくても、プライベートライダーだって力を示せばチャンスがある。若井は、それを証明したのだ。

 だが、そこには国籍という壁が隠れていた。テック3はラッキーストライク(タバコメーカー)がスポンサードすることが決まっていた。若井の起用を打診すると、あくまでもヨーロッパ市場をターゲットと考えた場合、日本人よりもヨーロッパのライダーの方がPR活動がやりやすいとの返答となった。海外でのPR効果を狙うスポンサーにとっては、どんなに魅力あるライダーでも日本人ではお金を出す意味がないのだ。スポンサーの意向は、チームの存続に係わる。ポンシャラルも若井も諦めるしかなかった。

 スポンサー獲得のために苦労している若井にはスポンサーの意向の大切さが痛いほどわかっていた。

「会社が一生懸命に稼いだお金を使うんだから、出す方も慎重になるのは当たり前だと……」

 若井のWGP250参戦は叶わなかったが、若井の力が海外で認められたことは紛れもない事実だった。若井も「背が高くて目立っていたのが良かったかな」とお道化たが「俺や坂田(和人)は、ストレートでは遅いバイクに乗っている。だから、前に出るためにはコーナリングスピードを上げるしかないんだ。区間タイムでは速かったから、そこの頑張りを見てくれていたんだと思う。GPには結果だけじゃない部分を、きっちりと見ていてくれる人がいる」ことを信じて、渾身の走りを貫いていたことが無駄ではなかったことで自信を深めた。

 上田 昇は「今年のGP125には日本人ライダーたちが大勢いた中で、僕の成績がたまたま良かったから注目されていたけど、みんなすごく頑張っていて、力としてはみんなチャンピオン争いが出来るものを持っていると思う。でもWGPには歴然としたマシン差がある。僕が頑張れたのは本当にスタッフの力があって、マシン差を埋めてくれたからだ」と語る。

 WGPの戦いでは、ヨーロッパに本拠地があり、エンジン調整のためにベンチを回せて、そこでパーツを組み込んでマシンを仕上げることが出来るチームが圧倒的に有利になる。日本に本拠地のある日本人チームに出来るのはレースウィークでの調整となる。ここでベストなセッティングに仕上がれば良いが、調整できなければセッティングを出し切れずに終わってしまう。だからと言って、欧州にベースを持つのは金銭的な面で困難だ。

 上田はオフシーズンの走り込みやチームの懸命な努力が実り、前半戦での快進撃を生んだ。他の日本人たちは、上田のような華々しい結果を残すことはなかったが、ハンデを背負いながらも奮闘し続けた。その中で若井が、ステップアップのチャンスを見出したことは大きな希望だった。

 上田は海外チームからの熱心な誘いを受ける中で、来季はWGPで数々のチャンピオンを輩出している名門チームピレリに移籍することになった。イタリア人のロリス・カピロッシやファウスト・グレッシーニが所属しており、カピロッシがGP250にステップアップすることになり、GP125に上田が入ることになった。

「チャンピオンチームで走るわけだから、言い訳できないですよね。でも、こういうのが好きなんです。自分を追い込んで行くというのが……」

 上田は勝負のシーズンを迎えることになる。

 上田の抜けた穴を埋める形で坂田がTSRに移籍。若井は継続参戦となった。

世界GP参戦で出来た3人の絆

 上田、坂田、若井の3人は、全日本最終戦に参戦する。高田考滋や和田欣也も参戦を決めた。WGP125スターライダーたちの凱旋だった。会場となった筑波サーキットは、彼らを一目見ようとファンが押し掛けた。全日本500、250、125、TT-F1、TT-F3が開催され、タイトル争いが繰り広げられる戦いの中でも、彼らの参戦する125への注目度は他を圧倒するものがあった。

若井伸之

 若井は予選終了後などでウィリーを披露するなどファンサービスに努めた。パドックでもサインに気軽に応じて、幾つものカメラの前でポーズしファンと握手し声援に答えた。走り続けることが出来るのはファンがいるからでファンを大切にすることは大事なことだとWGPを転戦しながら学んだ。世界を走り、日本のモータースポーツの認知度は、まだまだ低いことを実感した。そして、それを引き上げたいとの願いが若井の中に芽生えていた。

 さらに若井には、ここで大事なミッションがあった。オートボーイでアルバイトをしていた時の店長である藤原 優が参戦していた。若井は、速さがありながら思うようなレース活動が出来なかった藤原に優勝でシーズンを締めくくって欲しいと願った。藤原のセットアップに協力し、決勝でも引っ張る約束をしていた。坂田や上田にもお願いしている。真剣勝負のレースではあるが、世界GP帰国組にとって、ファンサービスが主な目的であり、賞典外の招待選手であり、ポイントも関係なしでプレッシャーとは無縁のレースだった。

 予選から若井、坂田が激しいPP争いを見せWGPライダーの貫禄を示す。最終的には坂田がポールポジションを獲得、2番手若井、3位清水隆男、4番手に上田がつけフロントローを獲得する。藤原は予選12番手であるが、トップ争いが出来る実力を若井は認めていた。

「サンちゃんも上田も頼むよ」

「ああ」

「なんか、気がないな」

「だってさ、トップ争いに来てくれなきゃ話にならないし」

「大丈夫だって、トップ争いに引っ張るからさ」

「ま〜、出たとこ勝負だな」

「頼んだぜ」

 決勝は雨となった。雨の中でも16,300人の観客が詰めかけて、筑波サーキットは観客で埋まっていた。前年度までは全日本ライダーだった3人が世界で活躍したことで、全日本125ライダーたちにとって、3人を負かすことが出来れば力を証明することにもなり、彼らの闘志に火がついていた。

若井伸之

 異様な熱気の中で、スタートダッシュで飛び出した清水だったが、2周目には坂田と上田が清水を交わしてトップ集団を形成する。6周目には若井もトップ争いに追いつきWGP帰りの3人が1、2、3フォーメーション、そこに若井の思惑通りに藤原が追いつき、16周目にはトップに躍り出るのだ。藤原、若井、坂田のオーダーとなり激しいトップ争いを展開する。坂田は若井を捕らえ2番手に浮上すると藤原を追撃し最終ラップの最終コーナーで藤原を捕らえトップでチェッカーを受けた。2位に藤原、3位若井。4位には斉藤 明、5位に上田が入った。表彰台に上がった坂田、藤原、若井は派手なシャンパンファイトで藤原の2位を祝福した。ファンはGP帰りの二人の疾走に喝采を贈った。

「なんだよ。サンちゃん、勝っちゃったじゃないか」

「ま〜な」

「GP帰りの二人に挟まれての2位は、最高だよ。ありがとう」

「藤原さんが、そう言うならいいけど……」

「そんなこと坂田に頼んでたの……。その気持ちだけで嬉しいさ。レースは勝負の世界だぜ。お客さんだって、そんなレースは見たくないよ。俺は、お前らと走れて光栄だ」

 藤原は、勢い良くシャンパンを若井の顔めがけて飛ばした。

若井伸之
※写真をクリックすると違う写真を見ることができます。

 全日本タイトルは、ランキングトップの島 正人が予選で転倒しケガで決勝を走ることなく、小野真央が7位でタイトルを決め、翌年にはWGP参戦する。その他、清水や斉藤も、その後WGP参戦することになる。

 ライダーたちにとって、WGPは遠い世界ではなくなっていた。

 全日本の戦いが終わった筑波サーキット、ピットロードに上田、坂田、若井がいた。これからの日本のレース界を引っ張る逸材たちだ。彼らの活躍でGP125に大きくスポットライトが当たった。これまでは、WGP500や250のリザルトを気にしていたのが、何よりもまずGP125の順位をチェックするファンが確実に増えていた。彼らの活躍は、GP125を表舞台へと引き上げたのだ。

 レースが終わって、みんなが引き上げた後でも、熱戦の余韻が消えずに残っていた。雨が上がり、澄んだ空気の中で、西に傾いた陽射しが3人を照らしていた。

 思い出の詰まった筑波サーキットから帰りがたく、旧知のジャーナリストや関係者と立ち話をした。話題は1990年のWGP125最終戦のタイトル争いだ。WGPデビューした17歳のイタリアの新星カピロッシがタイトルを争い攻防を見せた最終戦オーストラリアGP、イタリアンライダーたちが一致団結してカピロッシをサポートしタイトルに押し上げたレースだ。

 ファウスト・グレシーニ、ドリアーノ・ロンボニ、ブルーノ・カサノバらイタリア人ライダーが、カピロッシと2ポイント差でタイトル争いを繰り広げるハンス・スパーン(オランダ)を囲むように周回を重ね、カピロッシのタイトル獲得に貢献するのだ。

「あれは、カピロッシの勝利というよりイタリアの勝利という感じだった。レース内容としては、どうかなと思う部分もあるけど、3人なら切磋琢磨して、これぞ日本の勝利だと示せるレースが出来るんじゃない」

 初めてのWGP参戦で出来た3人の絆を1991年にはさらに強固なものにして3人は自分たちを高めて行くことになる。

 オフになると、若井は出不精の坂田を誘い時間を過ごした。わざわざ、自宅まで迎えに来る若井の熱意に動かされ、坂田も町へと繰り出した。若井は自分の活躍が載った雑誌を見せて「これ、俺、俺」と女の子や友人に見せた。

 「こいつが、これ」と坂田を指す。坂田は「恥ずかしいからやめろよ」と気まずそうにするが、若井は「自分がやっていることに自信持てよ。俺ら、頑張っているじゃないかよ。それで、こ〜やって、雑誌に載ったりしているんだろ。恥ずかしいことじゃない」とレースの話をし始めるのだ。

 海外から来たラブレターを何気なく持ち、ちょっと訳してくれないと、いろんな人に訳させたのは有名な話。

 上田も上京すると若井家に泊まり込んでいた。家族は上田を受け入れて息子のように接した。その後、稼げるようになった上田は若井の母に感謝を込めて真っ赤なバラを100本贈っている。

 世界情勢は年末に入り、12月1日にウクライナ独立住民投票で独立宣言。12月21日、ソ連に代わる共同体創設を協議するソ連11共和国の首脳会議が開かれ、11共和国を創設メンバーとする独立国家共同体の設立と、ロシアなど4共和国による核兵器などの統一管理などで合意。12月26日、ソ連は正式に消滅しゴルバチョフ大統領の退陣も決まった。

 歴史的にも大きな出来事が起きたが、日本も欧州も、来るべきWGPシーズンに向けての動きは止まることはなかった。

 若井はオフシーズンのインタビューで決意を述べている。

「チャンピオンを狙う。勝つことの執念を持ち続けて戦いたい。今年は、その執念や坂田や上田に負けていたのかも知れない。だから、その思いを強くして、進歩した自分になれるようにガンガン行く。ライバルは坂田と上田、海外ライダーといってもピンと来ない。3人でトップ争いをしているところを見てもらいたい」

 初めてのWGPシーズンで、ランキング10位を獲得した若井は支援してくれるスポンサーへの挨拶に回り、チームとのミーティングをこなし、忙しいオフシーズンを過ごし「勝負の年」を迎える準備に追われていた。

(続く)

若井

(■文:佐藤洋美 ■写真:竹内秀信、赤松 孝)


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2024/05/31掲載