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フラミンゴ(flamingo)はアフリカ、南ヨーロッパ、中南米の塩湖や干潟に生息する。塩湖やアルカリ性の湖といった特殊な環境に適応しており、数千羽から百万羽程度の巨大な群れを形成する。フラミンゴという名前はラテン語で炎を意味するflammaに由来しているとされる。

1980年代後半から1990年代初頭、ロードレースが華やかな輝きを放っていた時代を若井伸之は生きた。180cmと長身で手足が長く痩せていた。その身体を折りたたむようにGP125ccマシンに密着させ、激しいコーナリングを見せ、イン側の肘や膝を擦った。その姿が優雅なフラミンゴのようだった。

今も、スペイン・へレスサーキットの1コーナーアウト側に、若井の死を悼み、フラミンゴの像がたっている。

■文:佐藤洋美 ■写真:赤松 孝 

ベルギーをベースに挑むヨーロッパラウンド

 綱渡りのようにロードレース世界選手権(WGP)参戦への足がかりを掴んだ若井伸之は、初の海外参戦への準備に追われていた。だが、1991年のWGP2戦目への参戦を若井は断念している。金銭的な問題もあったが、レギュレーションの変更で獲得ポイントの低い2戦がシリーズポイントに加算されない(有効ポイント制)ことになったからだ。若井のいない戦いはオーストラリアのイースタンクリークで行われた。

 環境保護条約とビクトリア州のたばこ広告禁止条例の影響からシドニー郊外に建設された新しいサーキットは、3、4速を多用する回りこんだコーナーの多いレイアウトで下りのストレートの先の1コーナーとスプーン状に回りこんだ最終コーナーが攻めどころだった。

 GP125のポールポジション(PP)はカピロッシ、2番手ジャノーラ、そして3番手に上田 昇がつけた。上田は海外経験などなく初走行で好タイムを叩き出す。決勝はカピロッシが逃げ、上田はグレッシーニとの2番手争いを見せ3位表彰台に駆け上がった。6位には高田孝慈、そして畝本久が15位、坂田和人は16位でチェッカーを受けた。GP500はウェイン・レイニーが勝利、GP250はルカ・カダローラが2連勝を飾る。

 坂田は「ストレートで抜けたマシンは1台もなかった……。でも、これからが勝負、ヨーロッパに渡るまでの間にマシンを戦闘力のあるものに仕上げるのが先決。悔しい悔しいなんて言っていられないから、自分の力でなんとかするしかない」と決意していた。

 若井もヨーロッパラウンドに向かう準備を整えながら「意気込みを強く持って、イケイケのムードでヨーロッパラウンドから頑張りますよ。今年の世界GPはスペイン人とイタリア人、そして、日本人という勢力図が出来上がった。その中で90年の全日本の時のように目立つことが出来るように頑張ってきます」と気合充分でヨーロッパへと向かった。

 だが、WGPのトップチームは、ヨーロッパに拠点を持ち、現地でチューニングしたマシンを持ち込み、戦いながらマシンの戦闘力を上げていくのだ。ベースが日本にあるチームはオフシーズンにまとめたベースマシンを微調整するしかない。全てが初めてのサーキットを走る初参戦組みにとっては、本当のWGPの厳しさは、ヨーロッパラウンドにあった。

 若井をはじめ日本人チームの多くはベルギーの首都、ブリュッセルから北上したアールストという小さな町へと向かった。この街には、ホンダベルギーがあり、ホンダ車を駆るチームは、自然とここを拠点とするようになるのだ。

 その昔、WGPがヨーロッパラウンドだけで戦っていた頃は、ベルギーやオランダが中継地点として利便性が高かったことからホンダはベルギーに、ヤマハはオランダにベースを置いていた。時代の流れの中で、スペインやイタリアでの開催数が増え、日本やマレーシアといったアジア圏、オーストラリアの南半球での開催が加わるようになり、その意味も失われつつあったが、依然としてホンダ系のチームはベルギーに集まった。

 チームトラックを停める駐車場所がそのまま寝床となり宿泊スペースとなった。通常は車を停めるだけという誓約が多いのが常だが、ここのオーナーは寛大で貧乏チームに生活の場としても場所を提供してくれていた。坂田や上田もここを拠点とする。資金的に余裕のあるチームは車を停め、アパートに落ち着いた。アーブ・カネモト(名メカニックとして知られ、数々のチャンピオンを生む)や、ケビン・シュワンツなどもここに巨大なモーターホームを止めていた。

 第3戦はアメリカ、ラグナセカで開催されたが、GP125の開催はなく、GP500はウェイン・レイニーが勝ち、GP250はルカ・カダローラが勝利した。

若井伸之

第4戦スペインGP・ヘレス

 若井はスペインの南部、丘陵地帯にあるヘレスサーキットに向った。平坦なコースレイアウトだが、合計13のコーナーは、それぞれが滑らかに連続しており、どのコーナーも進入から脱出加速までをつめていかねばならない難しいサーキットだった。

 上田はライバルたちのタイムアタックを見ながらピットアウトのタイミングを計りトップタイムとなる1分54秒647を記録すると予選終了まで残時間があるにも関わらずにアタックを終了。ライバルたちはタイム更新を狙ったが、そのタイムを越えるものはなく上田のPPが決定した。2番手マルチネス、3番手グレッシーニ、4番手にジャノーラ、14番手畝本、16番手坂田。若井は18番手となる。

 決勝でも上田は、ジャノーラ、グレッシーニと堂々のトップ争いを展開、カウルとカウルが接触する接近戦で一歩も引かない走りで観客を沸かせた。その争いからジャノーラが抜けスパート、上田は追うがグレッシーニに捕まり壮絶な2位争いへともつれ込む。トップを独走していたジャノーラがクランク破損でリタイヤすると上田とグレッシーニのトップ争いとなった。グレッシーニが首位に立つが、上田が5コーナーで仕掛けトップに躍り出てトップでチェッカーを受けた。

 上田は「ジャノーラのペースに僕はついていけなかった。だから勝ったという意識はない」と冷静に分析していたが、本場ヨーロッパラウンドの緒戦で勝利をかっさらった上田の勝利は日本GP優勝以上の衝撃となった。2位グレッシーニ、3位には猛追したカピロッシが滑り込んだ。11位に畝本、若井は21位でチェッカーを受ける。GP500はマイケル・ドゥーハンがレイニーを押さえて優勝し、GP250はヘルムート・ブラドルが初優勝を飾った。

 日本では小さな大横綱・千代の富士が、21年におよぶ土俵生活に別れを告げた。数々の記録を残した国民栄誉賞横綱が引退し、新時代を担う宿命を背負った兄弟力士が登場する。若花田(のちの若乃花)と貴花田(のちの貴乃花)。社会現象となった「若貴ブーム」が起きる。

 全日本ロードでも、GP500ではダリル・ビーティー、伊藤真一。GP250では岡田忠之、原田哲也、青木宣篤、GP125では小野真央、井形とも子ら、後に世界へと飛び出すライダーたちがしのぎを削っていた。

 スペインGP終了後から上田にはトップチームからのオファーが舞い込み始める。ヨーロッパのGPファンは日本人ライダーを見ると「ウエダぁ~、ウエダぁ~」と騒いだ。若井は「俺は上田じゃねー。今に見ていろ」と誓うことになる。若井は坂田に「俺たち全日本の1番2番なんだから頑張ろうぜ」と声をかけた。

第5戦イタリアGP・ミサノ

 夏はヨーロッパ中から海水浴客でにぎわうアドリア海沿岸から数km内陸へ向かったところに、アウトドローモ・サンタモニカ(ミサノ)がある。ここまでの戦いではカピロッシ、グレッシーニ、上田と同じ顔ぶれが表彰台。カピロッシ、グレッシーニはイタリア人ライダーで、この母国GPに向けてマシンを見直し戦闘力を上げてきた。予選PPはグレッシーニ、2番手カピロッシ、4番手にジャノーラ、上田は5番手につけた。若井は13番手となる。

 決勝スタートから、グレッシーニ、カピロッシ、ジャノーラ、グラミーニ、上田が激しいトップ争いを見せる。グレッシーニとカピロッシが集団を抜け出し、逃げられまいとスパートした上田は9周目で転倒、頭部、右手甲、左膝を強打しヘリコプターで病院に搬送された。優勝はグレッシーニ、2位にカピロッシ、3位争いはグラミーニが制し、4位ジャノーラ。5位争いは9台の集団となり、その先頭で若井が引っ張り接近戦を見せた。若井は6位でチェッカーを受ける躍進を見せる。畝本は13位、高田が16位でチェッカー。坂田は4周目にクラッシュ。和田欣也は最終ラップに焼け付きによる転倒に終わった。GP500はドゥーハンが勝ち、GP250はカダローラが優勝した。

 上田は「世界GPでどこまで走れるのか試そうと思って出かけてきた。だから、チャンピオンのことは意識していなかったはずなのに……。心のどこかで意識していたんですよ。本当は……。まだ、そんな力がないのに。上手く行き過ぎて舞い上がって……。だからクラッシュしてしまったのだと思う。自分をコントロールできなかった」と振り返った。

 坂田についたあだ名は「カズート」だった。イタリア語で転倒の意味を持ち、当初は危険印としての愛称だったが、しだいに、その思い切りのいいライディングが評価され愛情を込めた「カズート」へと変わっていった。真剣に縁起が悪いから、名前を変えた方が良いとアドバイスしてくれる人もいたが、坂田は「カズート」と呼ばれることが、さほど嫌ではなかった。

 若井も得体の知れない日本人として「危険」のレッテルを貼られていた。危険も何も次から次と初めてのコースが続くのだから、レイアウトを頭にいれ、忙しいレースウィークをこなすだけで精一杯だった。思いの限りに挑んで、転んでしまう。それでも、その懸命なトライが認められて行くのだ。

若井伸之

第6戦ドイツGP・ホッケンハイム

 ホッケンハイムは、屈指の高速コースとして知られ、3個あるシケインとインフィールド入り口の左コーナーは超高速からのフルブレーキングで勝敗が分かれる。長いストレートでのスリップを駆使するため駆け引きも重要なポイントとなる。

 予選PPはカピロッシ、2番手グレッシーニ、3番手に地元のラウディス、4番手に坂田が浮上する。若井は14番手。決勝で飛び出したのはカピロッシだったが、グレッシーニに、地元ライダーのワルドマン、スタドラーらが数珠繋ぎで追う。10数台にも膨れ上がったトップ争いの中で、坂田も若井も激しい争いの渦の中で懸命に這い上がるチャンスを窺った。トップ争いのグレッシーニがカピロッシと接触して転倒、それを避けようとしてスパーンがコースアウトする。トップ争いはカピロッシとワルドマンに絞られ、ワルドマンはラストスパートを成功させ115000人の地鳴りのような歓声が沸きあがる中で勝利のチェッカーを潜り抜けた。2位にカピロッシ、3位エッテルが入った。若井と坂田は激しい9位争いを展開し、若井が9位、坂田が10位、和田も14位でポイントゲットする。GP500はケビン・シュワンツが劇的勝利、GP250は地元ブラドルが優勝を飾った。

第7戦オーストリアGP・ザルツブルグ

 オーストリアGPが開催されるザルツブルグはアルプスの北に位置する美しい森に囲まれたサーキットだ。牧歌的な雰囲気とは裏腹に高速サーキットであり、丘の上から見下ろすようにバトルを近く見ることが出来るため人気が高い。

 超高速コースであるオストシュトライフェと呼ばれる東の急な斜面に沿って走る6速全開のS字はラップタイムを左右するポイントだ。そして、山のサーキット特有の天候不順さがあるのも特徴だ。

 予選PPはワルドマン、ケガから復帰した上田は6番手、坂田14番手、若井は18番手と苦戦。トップ争いはグレッシーニ、ワルドマン、上田の3人。最終ラップ、トップのワルドマンに上田がシケインで勝負を賭けるがダートに飛び出す。コース復帰するも、この波乱を味方につけたグレッシーニが優勝、2位にワルドマン、3位上田となった。

 上田は「勝つことしか考えられなくて本能だけで走っていた。完走が目標だったのに、前が見えてくると駄目で……。ケガしていない右手だけで走っていた。何かあったら、コントロールできなかったと思う」と振り返っている。若井は12位でチェッカーを受けた。GP500はドゥーハン、GP250はブラドルが勝った。

若井伸之

第8戦ヨーロッパGP・ハラマ

 ヨーロッパGPはハラマが舞台だ。イベリア半島の中心であるスペインの首都マドリッド郊外にあるハラマは、土地の起伏を巧みに利用してテクニカルコースを作り上げた。右左だけでなく、上下方向の変化も考えて走らなければならず、激しいバトルを繰り広げながらの駆け引きが見どころだ。

 予選PPはジャノーラだが、上田、ワルドマン、カピロッシ、エッテル、マルチネスまでがコンマ6秒以内にひしめく。若井は22番手と苦戦。決勝はカピロッシ、グレッシーニ、ワルドマン、上田が続く。

 若井は1コーナーで他車と接触転倒で出遅れてしまう。トップグループは8台にも膨れ上がる激戦となり、カピロッシはスパートし集団を抜け、追いかけた上田はヘアピンのアプローチで大きくリヤを滑らせて痛恨の転倒リタイヤとなってしまう。

 優勝はカピロッシ、2位グレッシーニ、3位エッテルが入った。8人による12位争いは和田が制し、坂田が14位に入った。GP500はレイニーが優勝、GP250はカダローラが勝つ。

第9戦オランダGP・アッセン

 アッセン・フォンドレンサーキットはオランダの首都アムステルダムから北北西へ250kmの距離にある。1949年にWGPが誕生して以来、アッセンTTとして愛され続けている。宗教上の理由から決勝日が土曜日で、牧草地のそばにあり、牛が草をついばむ姿が見られる。レースウィークにはアッセンの町には移動遊園地がやってきて、見世物小屋や出店が出る。

 また、猫の目のようにクルクル変わる天気も有名で突然やってきた雨雲が大粒の雨を降らせたと思うと、太陽が顔を出し綺麗な虹が見えることもある。コースは水はけを考えてかまぼこ状になっているためグリップがつかみにくく、コース幅も狭い難コースでもある。

 予選PPはカピロッシ、坂田が7番手。上田は11番手、若井は25番手。決勝は雨のため2ヒート性となりワルドマンが制した。坂田は11位。上田は12位。若井は15位となった。GP500はシュワンツが勝ち、GP250ではキリが優勝した。

若井伸之

 前半戦を終了し、若井は持ち前の陽気さでGPパドックの中に溶け込んだ。語学が堪能だったわけではないが、どんなふうにコミュニケーションを図っているのか、そばにいるチームスタッフにとっても謎だったが、カサノバやトロンテギとはすぐに仲良くなった。

 スペインGPにはトロンテギの親戚縁者が20~30人は集まり大型バスで応援にやって来て、パドックで巨大なパエリアを作った。若井も、その輪の中にいてパエリアをほおばった。知り合いが通ると「俺の友達、紹介するからさ」と誰かと誰かをつないだ。

 若井の攻撃的なライディングやパドックでの元気やいたずらっ子のような笑顔、そして日本人選手の中では、ずば抜けて高い身長のせいで若井は目立つ存在だった。GPジャーナリストのマイケル・スコットは若井を見て「自信たっぷりな人間」という印象を持ち、ワッキー(妙な奴)と名つけ若井を目で追うようになる。

 WGP参戦初年度から話題のライダーとなった若井、坂田、上田は、最初から仲が良いわけではなかった。上田は飛ぶ鳥を落とす勢いでGP参戦を開始した。坂田は口には出さなかったが、上田をライバル視していた。パドックであっても話もしなかった。そのふたりを繫いだのは若井だった。

 日本経済では6月に野村証券の大口顧客への損失補填と暴力関係者との関係が発覚。4大証券会社も同様に補填していて、大手証券4社は損失補填の相手先リストを公表。その額は228法人と3個人で総額1283億円に上った。日本経済にかげりが見え始めた事件となった。1991年はバブル景気の終焉、失われた10年の始まりとも言われるようになる。

(続く)

若井

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若井

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(文:佐藤洋美、写真:赤松 孝)


[第9回|第10回|]

2024/03/01掲載