フラミンゴ(flamingo)はアフリカ、南ヨーロッパ、中南米の塩湖や干潟に生息する。塩湖やアルカリ性の湖といった特殊な環境に適応しており、数千羽から百万羽程度の巨大な群れを形成する。フラミンゴという名前はラテン語で炎を意味するflammaに由来しているとされる。
1980年代後半から1990年代初頭、ロードレースが華やかな輝きを放っていた時代を若井伸之は生きた。180cmと長身で手足が長く痩せていた。その身体を折りたたむようにGP125ccマシンに密着させ、激しいコーナリングを見せ、イン側の肘や膝を擦った。その姿が優雅なフラミンゴのようだった。
今も、スペイン・へレスサーキットの1コーナーアウト側に、若井の死を悼み、フラミンゴの像がたっている。
■文:佐藤洋美 ■写真:竹内秀信
「日本人村」の実態とは……
ロードレース世界選手権(WGP)のインターバルにはベルギーのアールストの駐車場に落ちついた。上田 のチームのベンツ609は、最高速80km/hしか出ない。それでキャンパーを引っ張り、光島 稔エンジニアがパーツ棚の上に寝て、野島英俊メカと松山弘之メカがキャンパーの上下ベッドに横になり、上田は奥のベットで寝た。キャンパーといっても狭く、寝言も寝息もなんでも聞こえて来た。プライバシーは、どこにもなかった。若井伸之や坂田和人も、似たり寄ったりの環境だった。夢のWGP参戦ではあるが、金銭的な厳しさも結果が残らない悔しさも日々大きくなっていく。いつでも、居心地の良い自宅に帰り、家族や友人と会える環境はここにはなかった。
これを拠点に、時に何千キロもの旅にでる。アウトバーンを走り、山を越え、気の遠くなるような距離を走りサーキットを目指し、遊牧民やジプシーのように移動を繰り返す。
その延長線上にWGPのパドックがあり、彼らが集まるエリアは「日本人村」と呼ばれた。おとなしく真面目という日本人の定説を覆すハチャメチャぶりの騒々しさで、スクーターに3人乗りして、嬌声を上げながらパドックを疾走する姿が幾度も目撃されていた。パドックでは日本人村の周りにモーターホームを停めたがらないため、主催者が日本人チームをパドックの端へと追いやる事態も生まれた。
日本人ライダーの全てが陽気で騒々しいわけではなく、上田は「日本人ライダーの奥さんから“モーターホームに来て、ここに座って”と呼ばれたことがあって……。えぇ~、ちょっとやばいんじゃないのって思ったけど、ついて行ったら“ねぇ~、あなたたち、こんなにうるさいのよ”って、わけぇーしゅー(若井)やさんちゃん(坂田)の騒ぐ声や、ガンガン鳴らしている音楽が聞こえて怒られたことがある」と苦笑した。
食事も睡眠も限定される生活の中で、スタッフたちと家族以上、24時間一緒に過ごす。恋人でもないのに、いつだって一緒だ。機嫌のいい時ばかりではない。それでも、ストレスをぶつけるわけにはいかない。きれいごとばかりでは渡ってはいけない。そこに信頼できる人間がいるかいないかは大きな鍵を握っているのだ。3人は「お互いがいたから乗り切れた」と語る。上田は「24時間、レースのことだけ考えられるレースおたくの俺や若井にとっては最高の生活だった」と振り返る。
第10戦フランスGP・ポールリカール
第10戦はフランスGP、ポールリカール・サーキットで開催された。フランスの南部・マルセイユ近郊のル・キャステレ村にあるサーキット。リキュールで名高いペルノ・リカール社を創立したポール・リカール(Paul Ricard)の名前が冠されている。プロヴァンス地方の中心都市マルセイユから東に約40km、地中海から北に約15kmの山中に位置する。なだらかな丘の上にあり、南仏特有の青い空と日差し、「ミストラル」と呼ばれる強い北風が特徴。ここで1973年から1999年までWGPが行われた。
ホームストレートから1コーナーの高速S字を抜け、2コーナーのシケインで減速。3コーナーで折り返し、全長の4割近くを占める1.8kmのミストラル・ストレートがある。ここで上田はポールポジション(PP)を獲得する。4番手に坂田が入りフロントローに並んだ。若井は6番手だ。
決勝スタートはファウスト・グレッシーニが決め、ロリス・カピロッシ、ラルフ・ワルドマンが続き、6番手に若井、8番手に高田孝慈がつける。上田はスタートを失敗、オープニングラップを14番手で通過する。同じくスタート失敗した坂田が追い上げるも、優勝はカピロッシ、2位にグレッシーニ、3位ワルドマン、上田は5位、坂田は7位、若井は8位でチェッカーを受けた。GP500はウェイン・レイニー、GP250はロリス・レジアーニが勝った。
第11戦イギリスGP・ドニントンパーク
第11戦はイギリスGP、ドニントンパーク・サーキットで開催された。 ロンドンから北へ高速道路を2時間半ほど走ったノースウェストレスターシャーにあり、1931年にオープンしたイギリスきっての名門サーキットだ。
緑の広い丘陵地にあり、煉瓦で造られたピット・エリアと緑豊かななだらかな起伏のコースが特徴で独特の雰囲気がある。路面はローグリップ舗装でありハイサイドやトラクションコントロールの制御との戦いになる。2つの中速コーナーが合わさり、クリッピングを取るのが難しく、高速部分か、低速部分にマシンセットアップを合わせるかでマシン特性が変わるためメカニックにとっても難所となる。
カピロッシがポールポジション(PP)を獲得すると決勝でも圧倒的速さを示す。オープニングラップの最終コーナーでエツィオ・ジャノーラが転倒、シケインでスリップダウンした上田がダーク・ラウディス、ホルヘ・マルチネスを巻き込んで転倒してしまう。上田、マルチネスは再スタート、怒涛の追い上げで観客を沸かせたがカピロッシは優勝を飾る。上田は猛攻して5位。坂田は8位、若井はクラッチトラブルでリタイヤとなった。GP500はケビン・シュワンツ、GP250はルカ・カダローラが優勝を飾った。
第12戦サンマリノGP・ムジェロ
第12戦はイタリアのサンマリノへGPだった。トスカーナ州、フィレンツェの北およそ30kmのスカルペリーアにあるムジェロ・サーキットで開催される。高低差が41.19mあり、左コーナーが6つ、右コーナーが9つの合計15のコーナーで構成される。丘陵地帯の地形を活かしたアップダウンがあり、切り返しのコーナーが多い中高速テクニカルコースだった。
PPは上田、決勝で飛び出したのはピーター・エッテルで、そのまま勝利を飾る。坂田は8位でチェッカーを受けるが、若井も上田も転倒リタイヤとなった。GP500はレイニー、GP250はカダローラが勝ち、カダローラはタイトルに大手をかけた。
第13戦チェコスロバキアGP・ブルノ
第13戦はチェコスロバキア、ブルノ・サーキットだ。チェコ共和国のブルノ近郊にあるサーキット。当初は公道コースだったが、1987年に常設のブルノ・サーキットがオープンした(※1993年にチェコスロバキアがチェコとスロバキアに分離した後は、チェコグランプリとして開催が続けられている)。
サーキットは元々F1の誘致を念頭に設計されたため、コース幅が広いのが特徴である。右回りのサーキットで14のコーナーがあり、うち右コーナーは8つ。高低差が大きく、コース終盤に7.52%の急な上り勾配をもつ。エンジンパワーの非力な軽排気量クラスでは、スピードを維持してコーナーを通過することが重要となる。
PPはカピロッシ、3番手に坂田が浮上し、若井は9番手となる。決勝のトップ争いを繰り広げた坂田だが、痛恨の転倒でケガを負う。変わって若井がトップ争いに加わり、終盤はペースが落ちてしまうが5位でチェッカーを受けた。上田は17位となる。優勝はアレッサンドロ・グラミーニとなり、2位に入ったカピロッシがV2を決めている。GP500はレイニーが勝ち、タイトルへと前進する。GP250はヘルムート・ブラドルが勝利した。
第14戦はフランス、ル・マンで開催されたがGP125はなく、GP500でシュワンツが勝ち、GP250ではブラドルが勝利している。
上田の元には4月~5月あたりには複数のチームからオファーが舞い込んでいたが、9月には上イタリアの名門チーム、ピレリに移籍することが発表された。1991年、カピロッシやグレッシーニを起用して圧倒的速さを誇るWGPでもトップクラスチームへの移籍だった。
坂田、若井は終盤戦に来て力を発揮し始める。そして、その力が示される時が巡って来た。
最終戦マレーシアGP・シャー・アラーム
第15戦はマレーシアGPだ。アジアで2番目のGP開催サーキット、シャー・アラームはクアラルンプール近郊にあり、全長3500メートル、大小14のコーナーが続くテクニカルコースだ。中速コーナーを緩やかな高速コーナーでつないだレイアウトで1コーナー先と最終コーナー手前はS字上のコーナーが続く。また、コース中程にすりばち状のコーナーが続き、ここがマシンセットアップの要だ。
初開催ということが若井や坂田、上田にとっては、WGPを走り慣れている常連組とイーブンな条件で戦えるという意味でも期待が膨らむことになった。
予選1回目終了直前、若井がトップに躍り出た。2番手のカピロッシも懸命のタイムアタックを見せるが、若井の1分33秒756には届かない。坂田は4番手につけた。予選2回目、3回目が行われる土曜日は早朝から雨が降り出している。若井は「このままいけばPPかな」とコースを叩く雨を見ていた。だが、雨は上がり、午後からは天候も回復、3回目の最終セッションはほぼドライ、完全に路面が乾いたのは残り20分、坂田は33秒台を連発、若井のタイムを抜き去ろうと激しいアタックを繰り返した。そして、残り10分、ついに坂田が1分33秒597をマーク、リーダーボードのトップに躍り出る。
前日にタイムを出している若井は決勝へ向けてのセットアップに専念していたが、カピロッシ、坂田のアタックを見て、終盤、飛び出すが時間切れ。坂田は「チェコで転んだときの怪我が、まだ治ってないけど、若井がタイムを出してくるから、頑張ってタイムを出した」とPPを獲得する。若井は2番手。3番手カピロッシ。4番手には高田がつけ、フロントローに3人の日本人ライダーが並んだ。上田はタイヤと路面のマッチングに悩み9番手となる。
決勝で坂田がすかさずトップを奪う。若井、上田は大きく出遅れ後続に飲み込まれてしまう。オープニングラップを首位で通過した坂田を数珠繋ぎとなったライダーたちが追った。坂田は懸命にトップを死守するが、4周目にはポジションアップしたカピロッシが首位に立つ。カピロッシは逃げようとするが、坂田が横に並びかける。ストレートではカピロッシが速いが、インフィールドでは坂田に分がある。
レース中盤になると、4秒後方にいたマルチネス、カブリエーレ・デビア、若井、グレッシーニのセカンドグループがトップグループに迫り始める。セカンドグループのタイムがトップグループを上回り、グイグイとその差を詰め、一気に7台のトップ争いとなる。
坂田はカピロッシを捉えて首位に立つが、カピロッシ、マルチネス、若井が次々と坂田に襲いかかる。17ラップ目にはカピロッシが首位を奪い、マルチネス、若井と続き、坂田がポジションダウン。若井はマルチネスと接近戦を繰り広げる。
その攻防は、激しくカウルをぶつけ、時に肘や足を接触させながら一歩も引かないバトルへと発展する。この争いからマルチネスが痛恨の転倒で脱落。トップ争いは坂田、カピロッシ、若井の3人に絞られた。競り合いになれば強い坂田、絶妙のコーナーリングを見せる若井に勝利への期待が高まった。
だが若井はチャンバートラブルが発生してペースを上げることが出来ない。カピロッシ、坂田が逃げ、若井は「最後までもってくれ」と祈るような気持ちでアクセルを開けた。
坂田はカピロッシのライン、マシンの挙動を観察しながら仕掛けるタイミングを冷静に図る。「最終ラップの裏ストレート」を勝負所と決めた。坂田はカピロッシに自分のラインを印象つける。カピロッシが、坂田のラインをふさごうとブロックした瞬間に、坂田は別のラインを通り前に出る作戦だったが、突っ込んだ坂田がオーバーランし、カピロッシはトップに出る。坂田は再びカピロッシの背後に迫る。坂田は若井のトラブルを知るわけもなく、若井に2位を奪われまいとブロックしながらカピロッシを追いかけた。だが、僅かに届かずカピロッシが勝利のチェッカーを受け、2位に坂田、3位に若井となった。7位に上田、高田は9位、和田欣也は10位。畝本 久はリタイヤに終わった。
カピロッシを挟んで坂田と若井が表彰台に立った。その姿に「サカタァー」「ワカイーッ」と声が飛び、幾重にも沸きあがった。日本人プレスや関係者、GP仲間からも大きな声が上がり、熱狂が渦巻いた。ふたりは太陽が隠れているにもかかわらず気温30℃を超える暑さと高い湿度の中で力を振り絞ったレースを終え、頬を蒸気させた。
このレースのファーステストラップを記録したのは若井であり、そのタイムは坂田のPPタイムを上回るものだった。さらに坂田のベストタイムはカピロッシより速かった。ふたりには勝てる力が充分に備わっていることを示した。最終的に上田はランキング5位、若井が10位、坂田が13位でシーズンを終えた。
日本のスポーツ界では、大横綱・千代の富士が君臨していた大相撲界に、新時代を担う宿命を背負った兄弟力士が登場した。若花田(のちの若乃花)と貴花田(のちの貴乃花)が若貴ブームを巻き起こし日本中を熱狂させる。
この年に発売された写真集『Santa Fe』(篠山紀信撮影)は宮沢りえが18歳で人気絶頂時のオールヌード写真集であり、150万部以上の売り上げとなりで大ヒットとなる。もものかんずめ(さくらももこ)もべストセラーとなる。ジュリアナ東京がオープンした年でもある。
WGPを戦う若井にとって、日本で起きる様々な出来事は遠い世界のようだった。最終戦で得た手応えは、大きな希望となり若井を包んでいた。
(続く)
(文:佐藤洋美 写真:竹内秀信)