フラミンゴ(flamingo)はアフリカ、南ヨーロッパ、中南米の塩湖や干潟に生息する。塩湖やアルカリ性の湖といった特殊な環境に適応しており、数千羽から百万羽程度の巨大な群れを形成する。フラミンゴという名前はラテン語で炎を意味するflammaに由来しているとされる。
1980年代後半から1990年代初頭、ロードレースが華やかな輝きを放っていた時代を若井伸之は生きた。180cmと長身で手足が長く痩せていた。その身体を折りたたむようにGP125ccマシンに密着させ、激しいコーナリングを見せ、イン側の肘や膝を擦った。その姿が優雅なフラミンゴのようだった。
今も、スペイン・へレスサーキットの1コーナーアウト側に、若井の死を悼み、フラミンゴの像がたっている。
■文:佐藤洋美 ■写真:赤松 孝 ■写真提供:若井十月
伸之、そして坂田、上田の1991年
1990年のシーズンを終えて世界GP参戦を決意した若井は、全日本チャンピオンになった坂田と千葉県松戸にあるファミリーレストランで向かい合い、「俺は世界GPに行く」と告げた。
若井からロードレース世界選手権(世界GP)参戦への思いを聞かされた坂田は「世界GP…?」と考えることになった。坂田はレースを始めたのは「全日本チャンピオンになる、世界チャンピオンになるんだ」なんて、高い志を持っていたわけではなかった。走れば速く、負ければ悔しいから、がむしゃらに目の前のレースを走っていたら、ノービスチャンピオン、ジュニアチャンピオンになり、全日本チャンピオンになったというだけのことだ。
「全日本チャンピオンになったんだから、もう、いいかな」
坂田にはそういう思いもあった。坂田も若井と同様にプライベートライダーで、レース以外の時間はトラックに乗っていた。本業が何かっていったらトラックの運転手だ。「レースは面白い、勝ったら気持ちいいし、楽しい」が、金がかかる。トラック運転手として必死に働いても、レース資金で、お金が消えてしまう現実に、ちょっとうんざりもしていた。
レースのことだけを考えられる恵まれたライダーとは違い、サーキットを離れればレースとは無縁の世界だ。世界GPの存在も、漠然としたものだった。その坂田に伸之はくっきりとした現実の「世界GP」という存在を突きつけてしまった。坂田の中の「負けず嫌い」に火をつけてしまったのだ。
「1番の俺が行かないで、2番の若井が行くのはおかしくないか? おかしいよな」と……。
坂田は、一晩で、世界GP参戦を決意するのだった。全日本チャンピオンの坂田が参戦を決めたことで、ランキング2位の伸之が参戦資格を得るには、翌年春開催の世界GPの一戦である日本ラウンドでポイントを獲得し、世界GP参戦に相応しいライダーであることを示さなければならない。
世界最高峰の戦いである日本GPで、一発勝負でポイントを獲得しなければ世界GPの扉は開かない。それでも、若井は動き出していた。参戦資格を得てからでは準備が間に合わないからだ。
世界GPは、世界中から選りすぐりのライダーたちが集いシリーズチャンピオンを生む。巨大メーカーのバイクの売り上げを左右する威信を賭けた戦いだ。ここに参戦する体制を作るためには、参加資格を得ることももちろんだが、資金が必要なのだ。
レースは公然としたハンデの存在するスポーツだ。より速いマシンを得たものが優位である。その速いマシンを得るためにはお金がいる。また、力を発揮するためにはいいスタッフが必要だ。いい人材を集めるためにもお金がいるのだ。レースの才能だけでは戦っていけない世界なのだ。それでも若井は頭を下げ、スポンサー獲得に奔走した。夢を叶えるためには、その舞台に立たなければならない。
「速さの秘訣は?」との質問に、若井は「よく頭を下げること」と答えている。
坂田は、トラックの運転手をして稼いだ金と、賞金を貯めたお金を吐き出す。若井も、足りない分は持ち出しだ。予算はギリギリ、足りる保障もなかった。後は、借金するしかない。若井は参戦の準備はしていたが、参戦できるかはわからなかった。
1991年の世界GPは、日本GPで開幕を迎え、オーストラリア、アメリカを終え、ヨーロッパラウンドの11戦を戦いマレーシアで最終戦を迎える15戦が予定されていた。世界GPには125、250、500と3クラスあり、それぞれに世界のトップライダーたちが集い凌ぎを削る戦いが繰り広げられる。
世界GP125ccクラスの先駆者である畝本 久、高田孝慈は世界GP参戦4年目を迎えていた。90年の途中から参戦を開始した和田欣也も初のフル参戦を決めていた。90年全日本チャンピオンの坂田でさえ、参戦実績のある高田、畝本についで参加資格ウェーティングリスト3番目。若井は、参戦希望を出してはいるが、日本GPで何がなんでもポイントを得ることで、やっと候補に名乗りを挙げることが出来る。
世界GPはエンターテイメントビジネスの側面もあり、主催者はファンが喜ぶレースを提供することで金銭を得る。主な収入源は、放映権料だ。人気となればなるほど、莫大な金額へと跳ね上がる。戦いに値すると認められたライダーは、主催者側からスターティングマネーが支払われ、遠征費用の一部が負担される。上位でフィニッシュすればするほど、GPに必要な人材だと認められるのだ。
世界の強豪が集う日本GP、そのたった一戦で若井の運命が決まる。若井は、まさしく崖っぷちの勝負に出る。
後に若井、坂田と並び、日本を熱狂させることになる上田 昇にいたっては、この時点で上田のうの字も上がってはいなかった。だが上田は名門チームであるTSRに移籍し、オフシーズンにはエンジンチューニングで定評のある光島 稔、そして世界GPの経験もある野島英俊メカニックとの最強コンビでテストを重ね、50時間にも及ぶテストを消化していた。さらに、まだ無名に近い上田をヒーロースポーツがスポンサードすることになる。エンジン、フレームと何種類も用意され、勝ちに行く体制が整いつつあった。
上田は、国際A級昇格1年目となった1990年全日本第2戦目125ccクラス、西日本サーキットで優勝を飾り、6戦目鈴鹿で2位となる。ノーポイントが4戦もありタイトル争いに絡むことはなかったが、注目選手のひとりだった。その才能は誰の目にも明らかで、彼に寄せる期待の表れが入念なテストスケジュール、スポンサー獲得という状況を作った。
だが、あくまでも1991年の目標は全日本チャンピオン獲得で、世界GP参戦は1992年というものだった。一方で上田の心の奥には「坂田君や若井君が世界へ行くなら、自分も……」という思いがくすぶっていた。「日本GPで勝てたら考えてくれる」との約束をスポンサーに取り付けてもいた。
予選4位、世界と走りのレベルの差は感じなかった
世界情勢は、1991年が明けると国連がクウェートに侵攻したイラクに撤退を求める声明を発表。イラクがこれを拒否したため、多国籍軍が攻撃開始。イラクも徹底抗戦を表明して湾岸戦争に突入した。2月27日、クウェート解放を確認し多国籍軍が攻撃停止する。平和な日本に戦争のニュースが飛び込むが、日常の生活への変化を感じることは多くはなく、日々の生活に追われていた。
そして、若井、坂田、上田にとって運命の日本GPの日がやって来た。鈴鹿サーキットは、世界屈指のテクニカルコースだ。スタートダッシュから1コーナー、S字コーナーから上りのデグナーへと繋ぐライディング、ヘアピンから、200R、スプーンとブレーキングから立ち上がりでコーナリングの腕を競い、トップスピードを競う西ストレートでスリップストリームを利用した接近戦から、130Rの飛び込み、カシオトライアングルへのアプローチでのバトル、そこから最終コーナーまでと、数多くのパッシングポイントがあり、ドラマチックな戦いの舞台となっている。この年、シケインの改修が行われ、コース長が5mほど長くなった。
世界GP開幕戦日本ラウンドは、GPに賭けるライダーたちの意気込みを削ぐように、冷たい雨が路面を叩いた。ここで、若井は世界に通用するライダーであることを証明しなければならない。だが、雨のフリー走行、予選と何度も若井はグリーンに叩きつけられた。トップタイムをマークしたのは坂田だった。坂田は存在感を示し、ライバルたちを圧倒する。世界の強豪たちはリスクを避けた側面もあり、本格的なタイムアタックは晴れの予報が出ている翌日に持ち越された。
坂田は、雨の影響が残る路面確認する慎重な走りから、中盤以降アタックに入り、自己のタイムを4秒以上詰めトップに躍り出た。だがS字から先のコーナーには水が残っていた。そこで足元を救われた坂田は逆バンク手前で転倒してしまう。再スタートするが、再び転倒してしまう。
変わってトップに出たのはロリス・カピロッシ(イタリア)だが、終了間際に上田が、狙い澄ましたようにコースイン、トップタイムを叩き出し逆転ポールポジション(PP)を獲得した。2番手にカピロッシ、3番手ファイスト・グレッシーニ(イタリア)、若井は4番手につけた。坂田は転倒が響いて21番手となる。
「鈴鹿のテストは雨で走りこみが出来ずに、そのまま日本GPを迎えた。何度も何度も転倒してしまって、転びすぎて走りのリズムが完全に狂ってしまった。でも最終セッションは晴れて、少しずつ走りのリズム戻ってきた」と若井は決勝に賭ける。
「転倒やケガのショックより、マシン差が大きくて愕然としていた。最終予選では、その差を詰めよう詰めようと無理して転倒してしまった。世界GP参戦を決めてからGPのビデオをみて研究していたけど、こんなにマシン差があるとは思わなかった。転ぶまで攻めたことには後悔はない。でも、マシンをなんとかしなきゃ。このマシン差は腕でカバーできる範囲を超えている」と、転倒の影響で右手首を痛めてしまった坂田は語っていた。
予選を終えた鈴鹿サーキットには夕方から夜にかけて、春の嵐を予感させる荒々しい風が吹き荒れた。この風が、雨雲とコースに残る水を完全に吹き飛ばす。決勝には青空が広がり、気温20度、路面温度は30度まで上がり、春の麗らかな陽光が降り注いだ。シーズンの幕開けにふさわしい快晴の中で、熱戦が繰り広げられた。
GP125の決勝は、11時15分シグナルグリーン、飛び出しのはカピロッシ、グレッシーニ、それを予選8番手の山川洋佐が追った。上田は若干出遅れたが、スプーン1個目で山川を捉え3位に上がったが、再び山川に押さえられ4位でオープニングラップを終える。坂田は5位、若井はスタートに失敗し、後続に飲み込まれ12位で通過し追い上げのレースを強いられる。
2周目、グレッシーニがカピロッシを抜きトップに出る。上田はカピロッシをパスし2位に上がるが、カピロッシがストレートで上田を抜き去る。トップ争いは、この3台に絞られ各コーナーでつばぜりあいを見せる。そして3周目、上田は一気に首位に立った。91,000人の観客が総立ちの拍手と声援を送りざわめく。上田は逃げ切ろうとアクセルを開けるが、グレッシーニがくらいつく。坂田は懸命にポジションアップを狙ったがシケインで痛恨の転倒でリタイヤとなってしまう。
上田の背後にいたグレッシーニが11周目に動いた。スプーン1個目でインに滑り込み首位を奪う。グレッシーニはペースアップし上田を突き放そうとするが、上田は東コースでグレッシーニとの間隔をぐっと詰めて抜き去る。グレッシーニは再びスプーンで上田を捉えた。
だが、上田は1コーナーでトップに浮上すると、グレッシーニを押さえこむ走りを見せるのだ。百戦錬磨で世界チャンピオン経験者であるグレッシーニと互角、いや、それ以上に走りで渡り合うのだ。2台は息詰まる戦いを続けながら最終ラップへと突入した。上田はグレッシーニを押さえ込み、最終ラップを駆け抜けトップでチェッカーを受ける。初出場のGP、それもスポット参戦で、まったく無名の上田が勝利したのだ。熱狂する観客の祝福を浴びながら、日の丸を掲げて上田はゆっくりと勝利をかみ締めるようにウイニングランした。表彰台では2位グレッシーニ、3位カピロッシを挟んで、真ん中に立った上田が大きく両手を上げ雄叫びを上げた。レースキャリア3年目、A級2年目の上田の勝利は衝撃以外の何ものでもなかった。実に24年ぶりのGP125の日本人勝者が誕生した瞬間だった。
若井は12位でチェッカーを受け「スタートで出遅れて自分のレースが出来なかった。でも走りのレベルの差は感じなかった。走りながらレースの運び方、外人勢のライディングスタイルの違いとか勉強になった」と目標のポイントをゲットし、世界GP参戦の権利を得た。願いに願った世界GP参戦の切符を得たが、喜びよりもここからが大変な戦いが始まるという身の引き締まるような思いが大きかった。何もかもが初めての未知の戦いの始まりだった。上田の勝利は、日本人ライダーにとって、大きな刺激であり、励みでもあった。自分たちのレベルが世界で通用するかも知れないという期待を抱かせるものでもあった。若井は武者震いするような高ぶる感覚を感じていた。
坂田はノーポイントではあったが、予選での快走、チャンピオンの実績を認められ参戦は受理された。
GP500はミック・ドゥーハン(豪・ホンダ)、ジョン・コシンスキー(米・ヤマハ)、ウェイン・レイニー(米・ヤマハ)とのバトルを制しケビン・シュワンツ(米・スズキ)が勝利。GP250はルカ・カダローラ(イタリア・ヤマハ)が勝ち、熱い戦いが繰り広げられた日本GPが終わった。
レース終了後に鈴鹿サーキット主催の歓迎パーティが開催された。そこで、若井はイタリア人ライダー、ブルーノ・カサノバと出会う。
「言葉は通じなかったが、すぐに仲良くなった。お互いにずいぶんビールを飲んでいて、どうして理解し合えたのが不思議だったが、異国のライダーと、こんなに親しくなったのは初めての経験だった」
カサノバは、そう振り返っている。
この時の出会いから、カサノバは若井の理解者となり、ヨーロッパラウンドでも、若井を助けてくれることになる。カサノバにとって、初めてのGPで悪戦苦闘する若井の姿は参戦したばかりの自分を思い出させるもので、自然と助けの手を差し伸べることになる。そんなカサノバに感謝し、若井はカシオの時計をプレゼントしている。カサノバは長い間、その時計を大事に愛用することになる。
上田は、ここで、第2戦が開催されるオーストラリアのオーガナイザーから「是非、参戦して欲しい」とオファーを受ける。
「神風が吹く予感めいたものがあった。全日本で勝った時も、同じような予感があった。勝つ時は、いつもそう、神風が吹く」
上田は意気揚々と参戦を決意する。劇的勝利を飾った上田は、世界GPフル参戦を決めてしまうのだ。
若井の世界GP参戦が始まると、若井家のリビングには畳半分大の世界地図が張られ、伸之がいる場所に赤いピンが刺され、どこにいるのかが一目でわかるように準備された。WOWOWで世界GPを見ることは出来たがリアルタイムではないため、世界GPのFAXサービスに申し込みリザルトを入手、朝の5時30分に届く東京中日スポーツを見るために、家族が我先にとポストに走った。伸之の活躍に家族が一喜一憂するシーズンが始まった。
(続く)
(文:佐藤洋美、写真:赤松 孝)