第38回 バイアルスTL125誕生50周年記念 -トライアル活動挑戦の軌跡・8(最終回)
【2000年 待望の日本グランプリが開催】
1997年8月、栃木県茂木町にモビリティ文化を発信していく広大な施設”ツインリンクもてぎ(現モビリティリゾートもてぎ)”がオープンしました。その3年後の2000年には早くもトライアル世界選手権シリーズとして日本GPが開催されることになりました。ツインリンクもてぎをはじめ、MFJなどトライアル関係者は大変な努力をされたと思います。
ツインリンクもてぎの日本GP報道発表会では、「ハイヒールでも観戦できるトライアル」というコンセプトが紹介されました。トライアル観戦には長靴やトレッキングシューズが欠かせないというヘビーデューティーなイメージを払拭する新たな挑戦でした。私は、広報担当者としてライダーの活躍ぶりを広くPRする仕事ですが、日本におけるトライアル文化を何かの形にできないかと思案していました。もてぎにはホンダコレクションホールがありますから、バイアルスTL125をはじめとする歴代トライアル車のオーナーミーティングができないか、企画を始めました。
6月10日土曜日の夜に、コレクションホールでのミーティングを模索しましたが、管理面などの問題があり、メインゲート付近にテントを設置してミーティング会場としました。発起人は成田省造氏と二輪車新聞の福原氏、そして私です。ミーティング名は”TLミーティング”にしました。
土曜日の夕方には、1日目の競技運営の合間を縫って、成田省造氏が駆けつけてくれました。そしてトライアルファンとTLR200の開発メンバーも集まり、ビデオを見ながら日本GP開催を祝してワイワイガヤガヤ親睦を深めました。やはり、話題は初めての日本GPを目の当たりにした感想でした。驚くようなセクション設定と、世界に挑む藤波選手の感動的な走りでした。
日本GP用のセクションは、見ごたえのある人工セクションに、もてぎの地形を生かした斜面やロックセクションとバラエティ豊かです。何よりも軽装で観戦できるのと、トイレと飲食が簡単に利用できるのはとても嬉しい環境です。競技のほうは、広報担当というより、いちトライアルファンとして、藤波選手の応援団の一員になっていました。
我らの英雄、藤波選手の最大のライバルは、同じチームのドギー・ランブキン選手でした。1日目、2日目ともに優勝はドギー・ランブキン、2位に藤波貴久のリザルトでした。私は、広報リリースに”モンテッサ ホンダ 1-2フィニッシュ”と書きながら、何故か敗北感を味わったのを覚えています。藤波選手でも世界には敵わないと。
世界選手権は、2002年、2003年とドギー・ランブキンがチャンピオン獲得。ランキング2位の藤波選手は、ランブキン選手との差を着実に縮めていました。そして2004年、劇的な日本GPがツインリンクもてぎで開催されました。藤波選手が1日目に続いて2日目も優勝と願ってもない結果になりました。ドギー選手に比べると、圧倒的に体は小さいのですが、走りは大きく自信に満ちていました。着実にチャンピオンになるためのトライに見えました。
もう一つの話題は、HRCが新開発した4ストロークエンジンのRTL250Fが小川友幸選手の手によってデビューしたのです。トライアルも、ロードレースやモトクロスと同様に、排出ガスの問題で2ストロークから4ストロークへの移行が固まりつつありました。大会直前に広報リリースを出したのですが、詳細は私も知りません。世界デビューの瞬間を現場で見られるのですから、トライアルファンとしては夢のような光景です。小川選手が第1セクションにトライする瞬間は、とても緊張しました。何年も4ストロークのトライアルマシンは見ていませんが、トラクションはいいようです。
小川選手は、デビューのRTL250Fで2日間ともに9位フィニッシュし、ポテンシャルの高さを実証してくれました。2004年は、待ちに待った日本人トライアルチャンピオンがついに誕生しました。
HRC最後の2ストロークのワークスマシン”モンテッサ コタ 315R”は、藤波選手によってチャンピオンマシンとして歴史に刻まれました。
【4ストロークマシンによる世界と全日本の制覇】
2005年シーズンは、世界と全日本ともに4ストロークエンジンのモンテッサ コタ 4RTとRTL250Fで戦うことになりました。長い間乗り込んできた2ストロークから、全く新しい4ストロークに切り替わるのですから、ライダーにとっては新たな挑戦の1年になりました。
藤波選手は、日本GPの1日目で見事優勝。しかし、素人目には2ストロークの方が攻略しやすいセクションが多くあったように思えました。
世界戦は、ガスガスに乗るアダム・ラガ選手がチャンピオンを獲得し、藤波選手は悔しい2位となり連覇は叶いませんでした。一方、全日本では小川友幸選手がRTL250Fで参戦しますが、ランキングは3位に留まりました。HRCもライダーも自由自在に扱えるように、テストを重ねながらマシンのポテンシャルを高めていきました。
そして、2007年に待望の世界チャンピオンと全日本チャンピオンを獲得します。世界は、藤波選手のチームメイトとして新加入したトニー・ボウ選手。藤波選手は3位となり、最大のライバルがまたもチームメイトになりました。全日本は、小川友幸選手が自身としても初のチャンピオン獲得になりました。
この年から、ボウ選手と小川選手の快進撃が始まります。ボウ選手は、2022年までアウトドアの世界戦で16連覇を達成。
そして小川選手は、2022年まで10連覇、通算12回目のチャンピオン獲得という他を圧倒する走りを見せてくれました。
藤波選手は、惜しまれながら2021年に世界戦から引退を表明。2022年からはHRCのワークスチームの監督として、トライアルの活性化にも取り組んでいます。
日本のトライアルの歴史は、バイアルスTL125の発売から50年ですが、藤波選手はこの半分にあたる26年間も世界の第一線で戦いました。彼はライダーというより”偉人”と呼ぶのがふさわしいと思います。
【トライアルのPRイベントに携わる】
1997年にHRCのワークスマシン”RTL”の報道試乗会に携わってから、度々運営に携わることができました。
2007年に世界と全日本でチャンピオンを獲得した記念として、藤波仕様のコタ4RTに乗っていただく機会を設けました。同時に、広くトライアルの魅力を知っていただきたいとの思いから、藤波、小川両選手によるスクールもプログラムに加えました。33名のジャーナリストが参加し、その中で20名の方がスクールに参加してトライアル体験をしていただきました。マシンは、近藤博志氏プロデュースのCONDY(コンディ)100ccです。
私にとって思い入れのある”多摩テック”でもトライアルのPRイベントをサポートしました。1983年のスタジアムトライアルの開催をきっかけに、多摩テックに自然の地形を生かしたトライアルパークの建設にも関わることができました。このパークにも、藤波選手や小川選手などトップライダーを招いて、ファンとの交流を深めていただきました。
とても残念なことに、2009年9月末に多摩テックは閉園になってしまいました。モータースポーツのパークとして、遊園地として親しまれましたが、48年の歴史に幕を下ろしました。同年9月26日、多摩テックのグランドフィナーレ・トライアルフェスティバルFINALが開催されました。このイベントをもって多摩テックのトライアルパークも閉鎖となります。
ゲストライダーは、小林直樹選手、本多元治選手、小川友幸選手の3名。華麗なテクニックを披露した後に、ファンと名残惜しい撮影となりました。日本のスタジアムトライアル発祥の地は、多くの人たちに見守られながら、静かにその役目を終わりました。
2016年、これまでで最も豪華なワークスマシン報道試乗会が実現しました。
ツインリンクもてぎで行われたモータースポーツイベントに来日した世界チャンピオンのトニー・ボウと藤波貴久、そしてハイメ・ブスト3選手に、全日本チャンピオンの小川友幸選手がゲストライダーです。
世界選手権でも使用されるこのエリアで、サンクスデイ翌日に報道試乗会を実施しました。17媒体44名の取材をいただき、世界戦のコタ4RTの2台と、全日本戦のRTL計3台に試乗いただきました。
私はこれまでHRCワークスマシンの報道試乗会に長く関わってきました。MotoGPやモトクロス、トライアルで10回くらい企画から運営に携わりました。ワークスマシンは、極一部のライダーによってそのポテンシャルを最高に発揮した結果、チャンピオンを獲得してきました。ジャーナリストに試乗いただく意義は、試乗を通じてHRC技術者の挑戦する姿と、その競技の魅力を広く伝えていただきたいという願いです。そして、私自身がワクワクすることが、企画の原動力になっていました。
【青山本社でのデモ走行の過去と現在】
1985年8月、本田技研の青山本社が完成し、パブリックスペースのホンダウエルカムプラザ青山がオープンしました。オープニングイベントとして服部聖輝選手によるデモンストレーションは、本田宗一郎氏も間近で見てくれました。以降、山本弘之選手、小林直樹選手などによって妙技を沢山の人たちに見ていただきました。その後、小川友幸選手と藤波貴久選手もスーパーテクニックを披露してくれました。
そして、今年2023年には世界チャンピオンのトニー・ボウ選手が初めて青山で素晴らしい走りを見せてくれたのです。私はいちファンとして見学しながら、38年に渡って続く青山のトライアルイベントに関わった多くのスタッフに感謝するとともに、何回見ても飽きないトライアルの魅力を心から楽しむことができました。
【内燃機関から電動へ】
今年は、電動トライアル車が私たちの身近に感じる存在になりつつあります。
黒山健一選手がヤマハTY-Eで全日本選手権にフル参戦しています。私はもてぎ大会で見ましたが、独特なモーター音とともに素早く急斜面を駆け上がる姿に驚くとともに、新しいトライアルの世界を見ることができました。
トライアル競技には排気量制限が無いクラスがありますから、電動トライアル車がガソリンエンジン車と対等に戦える環境にあります。現在は、2ストローク、4ストローク、そして電動と三つのマシンが見られる貴重な時代かもしれません。いずれ訪れるであろう電動の世界が、トライアルの普及に寄与してくれることを願っています。
成田匠選手によって、全日本選手権の北海道・和寒大会 国際A級で2位に入賞するなど、ポテンシャルの高さを実証しました。
今年の6月、ヤマハコミュニケーションプラザを訪れました。目当ては、1973年の全日本選手権で優勝したTY250を見るためです。50年前のマシンは、今でも走行可能な状態で保存されています。そして、電動トライアルマシンも見ることができました。50年の歴史の中で、マシンのあり方まで変わろうとしていました。
【終わりに】
バイアルスTL125誕生50年を機に、私が携わってきた活動の一部を紹介させていただきました。50年経っても「トライアルは飽きない」ことに、今さらながらびっくりしています。
私は、トライアルライダーを「不可能を可能にする男たち」と表現することがあります。スタジアムトライアルでセクション設営に携わったとき、私の予想をはるかに超えるテクニックで見事に攻略されたことが強く印象に残っています。現在は、観て楽しむ立場になりましたが、不可能を可能にする男たち・女性たちを応援していきたいと思います。