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エンタメ

第37回 バイアルスTL125誕生50周年記念 -トライアル活動挑戦の軌跡・7

【公道走行トライアル車の変遷】

 
 1988年3月、TLM200Rのモデルチェンジ版TLM220Rが発売されました。排気量をアップして、フロントには油圧ディスクブレーキを採用。各部の熟成により、トライアル車のポテンシャルを向上させています。
 このモデルは、5年後の1993年にカラーリング変更を実施。ホンダの公道走行トライアル車はこのモデルが最後になりました

1988年 TLM220R
1988年 TLM220R
1993年 TLM220R
1993年 TLM220R

 
 一方、ヤマハの公道トライアル車TY250スコティッシュは、1994年に10年ぶりのモデルチェンジを果たします。スコティッシュもこれが最終モデルになりました。

 国内メーカーの公道トライアル車は、ホンダ、ヤマハともに1990年代後期までこの2車種が販売されました。
 1990年代後期は、日本の二輪車にとって排出ガス規制という大きなハードルがありました。2ストロークエンジンでの規制クリアは困難を極めたため、多くの2ストロークマシンが生産中止に追い込まれました。
 ホンダでは、2000年代初期に4ストロークの新型公道トライアル車の検討をしましたが、排出ガス規制の他に、厳しい騒音規制をクリアするための難題が多く、開発を断念した経緯があります。

1994年 TY250 スコティッシュ
1994年 TY250 スコティッシュ

【二輪車業界有志の普及活動】

 
 1977年、二輪車業界人の親睦を主な目的に、ジャーナリスト・モーターサイクル・ミーティング(通称JMM)がスタートしました。プロカメラマンの鈴木雅雄氏(通称JOPPAさん)とモーターマガジン社の福原広昌氏らが発起人となり、メーカー各社と部品メーカーやウエア業界の企業が協力しました。
 最初は、モトクロス場として有名なセーフティパーク埼玉で「ミニモトクロス」としてスタートしました。その後、1985年にトライアルが仲間入りし、東伊豆のサドルバックというトライアルパークでスタート。JMMは、ミニモトクロスからトライアルへと移行しました。
 私は、1979年のミニモトクロスから運営に関わり、施設の確保やマシンの手配から整備などに携わりました。トライアルに移行してからも毎年運営に携わりながら参加者としても楽しんできました。
 このイベントの特長は、1チーム4、5人の編成で、各セクションを歩いて回ります。セクションごとに用意されたマシンで走り、採点はチーム員が行います。チームリーダーと呼ばれる人が、初心者にテクニックを教えたり、お手本やダメな走り方も披露しながら、ワイワイガヤガヤとトライアルを楽しむのです。自分のマシンを持っていない、トライアルをやったことが無い人でも参加できる敷居の低いイベントなのです。
 このイベントを通じて、トライアルの固定概念に捕らわれずに技量に合った楽しみ方を広めることも目的のひとつでした。

2006年
2006年のライダーブリーフィングの様子 ホンダが用意したマシンは、CRF100と70と50。そして本格的なHRCのRTL250Fも。
2006年
2006年 表彰式の様子  トラックの荷台にセクション地図やタイムスケジュール、チーム分けなどが表示されています。左端が主催メンバーのJOPPAさん。

2010年
2010年 チャンピオンの小川友幸選手を招いてのデモ走行。メガホンで解説しているのは、MFJ第1回全日本選手権トライアルの覇者である木村治男氏。何と豪華なメンバーでしょう!
2012年
2012年 セローでマディセクションを走る筆者。平坦なのですが、簡単にクリーンできないように工夫されています。チーム員に失敗の見本を披露?

 
 JMMトライアルは、セローやSL230などのトレッキングマシンでも楽しめるよう「スーパートレッカーズ」に名称を変更し、山梨県道志村の道志の森キャンプ場で継続されてきました。そして、2014年の第30回大会で長い歴史に幕が下りました。
 このイベントに参加した業界人とその家族は、延べ5000人くらいにはなるでしょう。トライアルを気軽に手軽に楽しむノウハウは、参加した人たちがさまざまな方面で活かしてくれていると思います。

【世界に挑んだ日本人ライダー 成田匠選手】

 
 日本人トライアルライダーで、世界選手権にフル参戦したのは、服部聖輝選手が最初でした。そして、1981年の全日本チャンピオン黒山一郎選手が1987年に挑戦しました。プライベーターとしての参戦のため、多くの苦労があったと思いますが、トライアルの本場で吸収したノウハウやBTR(バイシクルトライアル)への取り組みなどは、その後の日本トライアル界に多大な功績を残しました。

 
 成田匠選手は、1988年に国際B級でチャンピオンを獲得。翌年1989に国際A級に昇格すると1年目で全日本チャンピオンを獲得しました。まさに新星誕生のような衝撃でした。匠選手は、バイアルスTL125の普及活動に尽力された成田省造氏の子息で、子供の頃から早戸川などのトライアル場でトップライダーの走りをつぶさに見てきました。
 私から見ますと、努力家というより伸び伸びと楽しんで走っている印象でした。若くして全日本チャンピオンになるためには、大変な努力があったと思いますが、それを感じさせないのが彼の人柄なのだと思います。
 1990年、成田選手は世界選手権に挑みます。マシンは、HRC市販レースマシンTLM260Rです。ワークス体制ではなくプライベートに近い体制でした。西ドイツGPで6位を獲得し、シリーズランキングは12位を獲得しました。
 翌1991年もTLM260Rで挑み、シリーズランキングは8位に上昇しました。成田選手とホンダ(HRC)との関係は、この年が最後になりました。1992年用のニューマシンが間に合わない状況になったのです。

1988年 TLM250R
1988年 HRC市販レースマシン TLM250R 1989年、成田選手はこのマシンをベースにした全日本仕様でチャンピオンを獲得しました。

 
 上位を狙う成田選手は、1992年からベータのマシンで参戦を継続しました。1991年は、ホンダはもとより日本全体でバブルが崩壊した経済不況による嵐が吹き荒れました。トライアルマシン開発もその影響を受けたと思われます。
 成田選手は、1994年にはランキング5位を獲得。1996年まで世界選手権に参戦しました。10代の若さで世界に羽ばたいた姿は、日本の若いトライアルライダーの目標になりました。成田選手は、2000年に始まった日本GPでセクションアドバイザーを務めるなど、現在に至るまで日本のトライアル界発展のために尽力されています。

1990年 世界初挑戦の成田匠選手とTLM260R TLM250R
1990年 世界初挑戦の成田匠選手とTLM260R年 TLM250R
1990年 世界初挑戦の成田匠選手とTLM260R

【黒山、小川、藤波3選手の挑戦】

 黒山一郎氏が立ち上げたチームから、黒山健一選手、小川友幸選手、藤波貴久選手など、日本でそして世界で活躍するライダーが輩出されました。

 
 1995年は、黒山選手と小川選手が世界選手権に挑戦を開始しました。同年、藤波貴久選手は、15才の若さで全日本選手権の国際A級でチャンピオンを獲得。マシンはベータでした。
 翌年の1996年には、早くも世界選手権に挑戦します。マシンはHRCの2ストロークマシンRTL250Rで、黒山、小川両選手の後を追い掛けます。1年目にしてランキング7位を獲得しました。
 1997年は、黒山選手が日本人ライダーとしてトライアル世界選手権で初優勝を挙げます。そして藤波選手も最終戦で優勝を飾った特別な年になりました。当時の黒山、藤波両選手は、世界戦の間を縫って全日本選手権にも参戦していました。
 1997年の全日本選手権最終戦は、初優勝を挙げた両選手が来日し参加することになりました。大会の1週間前に、HRCから広報部に相談がありました。「最終戦の翌日に、藤波選手のワークスマシンを報道関係者に試乗していただく機会を設けたい。同時に藤波選手にも取材いただきたい」というもの。私の知る限り、HRCのトライアルワークスマシンを報道関係者に乗っていただくのは初めてです。急遽でしたが、報道関係者に案内して私も会場の冨山県に行くことになりました。
 冨山県のコスモスポーツランドで行われた最終戦は、藤波選手が優勝し、黒山選手は2位でした。シリーズチャンピオンは、黒山選手が獲得しました。翌日に同会場で行った報道試乗会は雨の中でしたが、5名ほどのジャーナリストにワークスマシンRTLに試乗いただきました。

ストレートオン誌 TLM250R
ストレートオン誌に掲載された試乗記事とワークスRTLの解説ページ。

 
 藤波選手は、1998年から2001年まで世界戦と全日本戦にエントリーし、この期間は国際A級スーパークラスで4連覇を達成。1999年には世界ランキング2位を獲得。2002年シーズンからは世界選手権に専念し日本人初の世界トライアルチャンピオンを目指します。

1998年 RTL250R
1998年 RTL250R
1998年 藤波貴久選手 全日本第1戦にて
1998年 藤波貴久選手 全日本第1戦にて。

【夢を追った電動トライアルマシン】

 2000年12月、本田技術研究所・朝霞研究所の能力開発委員会の企画で、”第1回夢コンテスト”が行われました。対象は朝霞研究所とHRCの社員です。
 このコンテストに応募された中から”夢実現賞”を授賞したのが、当時HRCに所属していた田中誠さん提案の電動トライアルマシンでした。この賞は、会社側が費用を負担して、提案した夢を実際に製作できるというものです。
 田中さんは、HRCのトライアルマシンRTL250Rの電装設計者でした。提案の動機は、レースの世界も環境に取り組まなければならない時代がやってくる。“ラクーン(電動アシスト付自転車)のノリで、電動トライアルを作ってみたい”と提案したのです。
 賞は授賞したものの、田中さんの職場はHRCですから、レースシーズンに入ると余裕は全くなくなります。鈴鹿8耐の電装関係のまとめ役でしたので、実際に製作に取り掛かったのは8月からでした。製作体制や時間、費用など多くの課題がありましたが、数か月で電動トライアル車”ETL60A”が完成したのです。
 そして、報道関係者向けのお披露目が企画されました。2002年1月に伊豆で行われたCB400スーパーフォア報道試乗会の会場で、その電動トライアルマシンは小林直樹氏のライディングで登場したのです。私も初めて会場でその姿に接しました。エンジン音がしないだけで、トライアルマシンのポテンシャルは相当高いと感じました。素人には、ギアはどうなっているのか、スロットルを開けるとどんな力が加わるかなど、素朴な疑問は沢山ありましたが、実現性の高い夢作品に思えました。

2001年 電動トライアルマシン ETL60A
2001年 電動トライアルマシン ETL60A

ETL60A
ETL60A
ETL60A 車両重量:80kg以下 電池:ニッケル水素 モーター:永久磁石方同期発電機クランクケースカバーには本田宗一郎氏のサイン”夢”があしらわれています。

 
 この時点では、バッテリーの容量の関係で4セクション程度を走破できる性能だったようです。ETL60Aは、あくまでも研究所員のアイデアコンテストですから、市販車の開発とは連動していません。提案者であり、製作者の田中誠さんは、2005年から2007年までMotoGPの監督として手腕を振るいました。
 今考えますと、このマシンを進化させることができたとしたら、トライアルの世界がもっと広がっていたように思えます。排出ガス規制もOK、騒音規制もOKですから、公道走行トライアル車にとって二つの課題はクリアできます。航続距離や操作性などの課題はありますが、ぜひ実現して欲しいと思います。沢山の人たちの夢を乗せて。

TLM50
2002年 ミスター・バイクで紹介された小林直樹氏によるETL60Aのデモラン。

 次回は、2000年にスタートした日本GPや、HRCの新型4ストロークマシンなどについて紹介させていただきたいと思います。

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2023/08/21掲載