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エンタメ

バイクと出会って半世紀。子供の頃、バイクのカタログ集めに夢中になった山形の少年は、学校を卒業すると念願だったホンダに入社。1994年からは二輪広報を担当し、2020年定年退職するまで四半世紀、一貫して広報活動に従事した。バイクブームのあの時代からの裏も表も知り尽くした高山さんの視点でふりかえる、バイク温故知新の四方山話。それが「バイク・承前啓後(しょうぜんけいご)」。




第22回 おめでとう。エルシノアCR250M誕生50周年

【RC335C復元車両のPRに携わる】

 今年は、ホンダ初の市販モトクロスマシン「エルシノア CR250M」が1972年9月に発売されてから50年を迎えます。このマシンが誕生した背景や現在にも継承されるスピリッツなどを紹介いたします。

 私が「エルシノア」と深く関わるきっかけは、2014年2月に本田技術研究所・朝霞で眼にしたモトクロスのワークスマシン「RC335C」の復元車両でした。2009年に復元された1959年マン島TTレース初出場車「RC142」に続く復元車両第2弾です。
 RC142は、報道のお披露目をツインリンクもてぎで行うなど、PR担当として携わることができました。今度は、ホンダの2ストロークモトクロスマシンエルシノアのルーツにもあたる伝説のマシンです。

1959年 RC142 復元車両
1959年 RC142 復元車両。
1972年 RC335C 復元車両
1972年 RC335C 復元車両。

復元メンバー:「RC142と同じく、車両は残されていなかったのでゼロから造り上げた。あとは試運転をしながらお披露目につなげたい」
私:「ゼッケンが3番だから、吉村太一選手が乗ったマシンということですね」
復元メンバー「そうなんだけど、吉村さんに上手くコンタクトできるメンバーが居ないので皆さんの力を貸してほしい」

 といった経緯でした。たまたまモータースポーツ部門に、吉村氏が経営するお店で仕事をしていたという人が居て、その場から吉村氏に電話してもらいました。「吉村さん、喜んで乗ってくれるそうです」という嬉しい報せがありに急ピッチに計画は進みました。
 お披露目は、やはりモトクロス全日本選手権の会場がベストということで、MFJなど主催者との協議が始まりました。4月6日の開幕戦(熊本・HSR九州)で初公開し、第2戦(埼玉・オフロードヴィレッジ)で吉村氏に実際に乗ってもらう計画です。
 準備期間は2カ月を切っていました。復元車両は、外観だけでなく走りも当時を再現できるレベルが求められますから、復元チームの目標は相当に難度が高かったと思います。
  
 4月20日(日)、吉村太一氏とRC335C復元チームがオフロードヴィレッジで対面しました。ほんの少し始動の要領を聞いただけで、数回キックするとRC335Cのエンジンは甲高いエキゾーストノートを響かせました。吉村氏と復元メンバーは自然に絵顔になっていきます。
 そして昼休み時間を利用したデモンストレーションです。吉村氏はぶっつけ本番にも関わらず、スタートダッシュを決めて猛然とスパート。折り返しのターンでは逆ハンを決めてファンの声援にこたえてくれます。42年ぶりに吉村氏とRC335Cのコンビネーションが実現した夢のような時間でした。

吉村太一氏
有志が揃えてくださった当時のライディングギアをまとってワイドオープン。
吉村太一氏
華麗なライディングフォームです。

吉村太一氏
ファンの声援に応える吉村氏。
復元メンバー
デモ走行後にステージで感想を聞かれる吉村氏。

復元メンバー
復元メンバーの苦労が報われた日。

【1960年代後半は2ストロークオフロード車が台頭】

 1969年、二輪業界はもとより社会にも衝撃を与えた高性能スポーツバイク「CB750FOUR」が日本で発売されると、大ブームになり「ナナハン」という新語も生まれるほどでした。一足早く発売されたメイン市場のアメリカでも圧倒的な支持を得ていました。
 ところが、オフロードカテゴリーでは4ストロークのSLシリーズは他社の2ストロークマシンを前に劣勢を強いられていました。ヤマハは1968年に2ストローク250ccの「DT-1」を発売。軽量・コンパクトな設計で一躍ベストセラーモデルに。スズキは1969年に2ストロークの「ハスラー250」を発売。翌1970年には日本メーカーとして初めてモトクロス世界チャンピオンを獲得するなど、技術の上でも高い評価を得ていました。カワサキも1970年に2ストロークの「250TR バイソン」を発売しモトクロスレースにも積極的に参加していました。特にオフロードが盛んなアメリカにおいては、このままではホンダのオフロード車の将来は危うい状況でした。

ヤマハトレールDT-1
1968年 ヤマハトレールDT-1。
スズキハスラーTS250
1969年 スズキハスラーTS250。

カワサキ250TRバイソン
1970年 カワサキ250TRバイソン。
ドリームSL350
1970年 ドリームSL350。

 当時のホンダのオン・オフロードマシンのフラッグシップモデルはドリームSL350。堂々としたスタイリングですが、4ストローク2気筒は重量の面で大きなハンディを負っていました。
 そのような時代背景から、2ストロークエンジンの本格的なモトクロスマシン開発がスタートしました。度重なる困難と向き合い、1972年のモトクロス全日本選手権で吉村氏が駆るRC335C(正式名称はRC250M)が6月の日本GPで初優勝を獲得しました。そして同年に市販モトクロスマシン「エルシノアCR250M」が早くも発売されたのです。
 この経緯とRC335Cの復元プロジェクトの活動は、ホンダのホームページで見られますので、ぜひ一読いただきたいと思います。

RC335C復元ストーリ
Honda初の2ストロークレースマシンRC335C復元ストーリー

【1972年9月26日 エルシノアCR250Mが発売】

 6月にRC335Cが初優勝を獲得した3か月後には、ワークスレーサーのレプリカモデルとしてエルシノアCR250Mが早くも発売されました。全国標準現金価格は30万円。

1972年 エルシノアCR250M
1972年 エルシノアCR250M。

比較するのは可哀そうですが、公道走行車ホンダSL250Sが20万8千円ですから、いかに高額なレースマシンだったかが分かります。
 1972年当時のホンダ関連資料を調べますと、エルシノアCR250Mはあっという間に200台を販売。10月9日、10日に鈴鹿サーキットにて「エルシノア ミーティング」が開催されました。主催は全国ホンダ会で、メーカー、販売店、ユーザーが一堂に会して走行テクニックから整備までを学ぶ勉強会でした。特別ゲストに吉村太一氏を招き、模範走行を披露してもらうなど、販売店、ユーザーと交流された記録があります。
 ホンダ初の2ストロークモトクロスマシンは、先行する3メーカーに追いつくためにこのような普及活動を迅速かつ積極的に展開していきました。そして、翌1973年には、モーターレクリエーション推進本部を設立し、健全なモータースポーツの普及活動を強力に推し進めていきました。

【1973年 エルシノアMT250を発売】

 ホンダに待望の2ストロークのオン・オフマシンが誕生しました。このマシンにもエルシノアの名が採用されました。標準現金価格は、20万8千円でした。

 このカタログには、「エルシノア」のネーミングの由来が詳しく記されています。

エルシノアMT250のカタログ
1973年 エルシノアMT250のカタログより抜粋。※カタログは個人所有につき、汚れがあります。ご容赦ください。

モーターサイクリストのあこがれ。エルシノア
アメリカ合衆国カリフォルニア州エルシノア。アメリカのどこにでもある田舎町。
小さな町です。しかし、この町は、モーターサイクルに深い理解と関心を示していることで知られています。アメリカのモーターサイクリストは、一度はこの町を訪れることを願っているのです。ここでは、毎年初夏に、モーターサイクル・クロスカントリー・レース<エルシノア・グランプリ>が、文字通り町をあげて開かれます。モーターサイクリストにとって、このレースに出場することは、誇りであり、あこがれでもあります。
モーターサイクルを愛する人々が住み、愛する人々が、あこがれ集う町エルシノア。
ホンダは、新しいシリーズ<2サイクル・マシン>に、誇りをもってこのエルシノアの名を冠せました。メカニズムにおいて、パフォーマンスにおいて、その名に恥じない高い水準を確保しています。エルシノアが、モーターサイクリストのあこがれの地であるように、ホンダの2サイクル・マシン<エルシノア>もまた、あこがれのニュー・マシンです。モトクロス・レース場で市販レーサー・エルシノアCRがすでに。
そしていま、路上へ、ダートへ、<エルシノアMT>の登場です。
(エルシノアMT250のカタログより抜粋)

こうして、「エルシノア」の車名はモトクロスマシンと2サイクルのオン・オフロードマシンに採用され、1974年にはエルシノアMT125がラインアップに加わりました。
映画スター「スティーブ・マックイーン」氏が駆るエルシノアCR250MのCMは、とにかくカッコいいの一言。高校生の私は、ハスラー90に乗りながら、気分はマックイーンでした。

【1976年 エルシノアのモトクロスマシンにレッドが採用された】

 1976年に発売した「エルシノア CR125MⅡ」に、ワークスマシンRCと同じレッドが採用されました。この年から現在までホンダのモトクロスマシンにはレッドが採用されています。46年間も継承していますから、この先もレッドホンダが続くでしょう。

1976年 エルシノアCR125MⅡ
1976年 エルシノアCR125MⅡ。モノクロ写真ですみません。
1977年 エルシノアCR125MⅢのカタログ
1977年 エルシノアCR125MⅢのカタログ。「赤は自信だ」のコピーは秀逸です。この年まではダウンタイプのチャンバーでした。

1977年 エルシノアCR125MⅢのカタログ
1977年 エルシノアCR125MⅢのカタログ。

【ELSINOREのステッカーは、1980年発売のモトクロスマシンが最後に】

 日本の広報リリースを確認すると、車名にエルシノアを記載しているのは1977年発売モデルが最後になっています。それ以降は、車体にELSINOREのステッカーが確認できますが、車名には登場しません。

 1980年11月、先進の水冷エンジンとプロリンクサスペンションを採用したCR125RとCR250Rが発売されました。サイドカバーには「ELSINORE」のロゴが確認できますが、このモデルが最後になりました。
 ホンダのモトクロスレースは、1979年に世界選手権500ccクラスでチャンピオンを獲得。1980年は世界選手権を連覇し、全日本選手権250ccでチャンピオンを獲得するなど、圧倒的な成績を挙げました。「CR」イコールホンダのモトクロスマシンが定着していましたので、エルシノアの名称は次第に重要視されなくなったのだと思います。

1980年11月 CR250R
1980年11月 CR250R
1980年11月 CR250R。サイドカバーに小さくELSINOREが確認できます。

【2007年3月、CR250R最終号機がラインオフ】

 1972年のエルシノアCR250M発売から35年後の2007年3月26日にホンダ2ストロークモトクロスマシンCR250Rの最終号機がラインオフしました。翌27日にはCRの開発に貢献された東福寺保雄選手を招いて、浜松製作所で関係者による記念撮影が行われました。
 日本では、2003年に発売したCR250R(2004年モデル)が最後になりました。
2000年代に入ると、モトクロスレースでも4ストローク化が世界的に広がり、現在はCRF250R、CRF450Rが世界各地のレースで活躍しています。

生産に携わったメンバーと東福寺保雄選手
歴代CRと開発・生産に携わったメンバーと東福寺保雄選手。浜松製作所にて。

【有志によるエルシノア発売50周年記念の集い】

 2022年4月30日(土)、埼玉県狭山市で「エルシノア発売50周年記念の集い」が開催されました。主催は、(株)ホーリーエクイップ代表でチキチキヴィンテージモトクロス大会を主催される堀口雅史さん。幹事は、元モトクロスエンジン開発担当 宮田卓英さん、元無限の名メカニック 芦森幸二さん、元モトクロス普及担当 藤澤博幸さんの3名です。参加された方々は、エルシノアの開発や日本モトクロス界に多大な貢献をされたレジェンドライダーやエンジニア約50名です。まさしく夢のような集いになりました。

エルシノア発売50周年記念の集い
左から幹事の宮田さん、芦森さん、藤澤さん、そして主催者の堀口さん。
エルシノア発売50周年記念の集い
堀口さん製作のRC335Cレプリカ。堀口さんによると、再現しきれなかったとの事ですが、一瞬コレクションホールの復元マシンかと思いました。見事としか言いようがありません。

エルシノア発売50周年記念の集い
堀口さん所有のエルシノアMT250 新車の状態が保たれていました。
エルシノア発売50周年記念の集い
1976年 CR250M1改 芦森スペシャル。芦森さんが吉村太一選手用に造り上げたスペシャルマシンも展示されました。

エルシノア発売50周年記念の集い
吉村太一さんから、RC335Cの開発や優勝レースの思い出など貴重なお話を聞くことができました。
エルシノア発売50周年記念の集い
狭山工場。ホンダの四輪車量産工場として1964年に誕生。2022年からは部品製作のみを行う。

 集いの会会場の近くには、狭山工場がありますので正門付近から撮影しました。
 私がホンダをスタートした地でもあります。エルシノアCR250Mは、1972年にここで生産されました。そして1979年、アメリカにおけるホンダ製品の生産1号機はCR250Rでした。当時狭山工場でエルシノアの生産に携わった方々からも貴重な話を伺いました。アメリカに進出する際には、狭山の二輪生産で培ったノウハウを生かし部品点数の少ないモトクロスマシンから始めました。その後狭山で生産していたGL1000の生産を移管するなど、狭山工場とオハイオの工場は密接な関係にありました。そして、アメリカで四輪車を生産する際にも、狭山工場のバックアップがありました。小さく生んで大きく育てるというホンダイズムが貫かれています。
 エルシノアCR250Mは、Hondaが飛躍していく過程で大きな役割を果たした製品であったことをいまさらながら知る機会になりました。この集いに参加された人たちに共通していたのは、「挑戦」「情熱」「感謝」の想いでした。50年経ってもこの思いは色あせていませんでした。

【次世代につなぐ挑戦の50年】

 2022年5月28日、欧州の現地法人ホンダモーターヨーロッパがホンダモトクロスマシン50周年を記念したCRF450Rを発表しました。1980年代のCRをイメージし、鮮やかなブルーのシートを採用しています。その直後の5月30日に開催されたモトクロス世界選手権MXGPでは、ガイザー、エバンス両選手がそのカラーリングをあしらったCRF450RWで出場しました。

50周年記念ロゴ
エガイザー選手のCRF450RW
(左)50周年記念ロゴと1973年エルシノアCR250M、2023年モデル CRF450R 50周年記念車。欧州とアメリカでは、1973年がデビュー年なので、2023年モデルを50周年記念車としています。(右)ガイザー選手のCRF450RW。50周年記念カラーを施しています。

 一方アメリカでも、5月30日に開幕したAMAプロモトクロス選手権に合わせ50周年記念車を発表しました。セクストン、ロクスン両選手がこのカラーリングのCRF450Rで出場。ローレンス兄弟も同様のカラーリングを施したCRF250Rで出場しました。ライディングウエアも1980年代のデザインで観客を大いに沸かせました。

#23セクストン選手
450MXで2ヒート優勝の#23セクストン選手と、2ヒート2位の#94ロクスン選手。
#1 ジェット・ローレンス選手
250MXで2ヒート完勝の#1 ジェット・ローレンス選手。ハンター・ローレンス選手は2ヒートともに2位。兄弟で1.2フィニッシュでした。

 吉村太一氏とRC335Cが初優勝してから50年。マシンもライディングテクニックも時代とともに進化しました。50周年という節目は1度限りですから、エキサイティングなモトクロスレースを思いっきり楽しみたいと思います。
 そして、有志による50周年記念の集いで学んだ「挑戦」「情熱」「感謝」の気持ちを日々忘れないようにしてまいりたいと思います。

吉村氏
ロクスン選手
<ゴールを目指して> 左 吉村氏とRC335C復元車(2014年)。右 AMAモトクロス ロクスン選手とCRF450R(2022年)。


高山正之
高山正之(たかやま まさゆき)
1955年山形県庄内地方生まれ。1974年本田技研工業入社。狭山工場で四輪車組立に従事した後、本社のモーターレクリエーション推進本部ではトライアルの普及活動などに携わる。1994年から2020年の退職まで二輪車広報活動に従事。中でもスーパーカブやモータースポーツの歴史をPRする業務は25年間に及ぶ。二輪業界でお世話になった人は数知れず。現在は趣味の高山農園で汗を流し、文筆活動もいそしむ晴耕雨読の日々。愛車はホーネット250とスーパーカブ110、リードのホンダ党。


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2022/06/20掲載