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レース・イベント

世界と日本で戦う 高橋裕紀 「出るからには、 すべてのレースで勝ちたい」
全日本ロードレース選手権が栃木県ツインリンクもてぎで開幕した。昨年は新型コロナウィルスの影響で8月開幕の4戦となったが、今季は全7戦が予定されている。2020年に新設されたST1000初代チャンピオンとなった日本郵便Honda Dream TPの高橋裕紀は、今季は世界耐久選手権(EWC)と全日本とのダブルエントリーとなっている。
EWCフル参戦となると全日本は3戦をキャンセル予定で、全日本ST1000のV2達成は難しくなる。だからこそ「このスケジュールを受け入れてくれたチームのためにも、参戦するレースは全て勝ちたい」という高橋裕紀の強い思いが加速することになる。
■文:佐藤洋美 ■写真:赤松 孝






 EWCの事前テストで渡欧していた高橋裕紀は、全日本事前テストに参加出来ず、4月3日(土)~4日(日)の開幕を迎えた。
 今季のST1000は、スイッチ組を含め37名が参戦。最高峰クラスJSB1000の17名を凌ぎ、一気に注目度を上げた。開幕戦には37名フルエントリー、タイムアタック合戦も熾烈なものとなり、上位7名がレコードを更新、高橋は2番手(予選を通過したのは36台)。
 高橋は、決勝朝のウォームアップランでトップタイムを記録するも、トラブルが発生し、展示用マシンからエンジンを乗せ換えるという苦境に立たされる。セットアップの状況は未知数、さらにグリッドには並べずに、ピットスタートを余儀なくされる。

 それだけでなく、決勝前には灰色の空から雨粒が落ち始める。マシンはちゃんと走るのか? どこまで追い上げられるのか? という不安の中で、ウエット宣言が出され、14周のレースは12周に減算されてしまった。追い上げるしかない高橋にとって、周回数減算はハンデとなる。路面は濡れているが、これからの天候がどう変わるのか……。
 各チームのスタッフは空を見上げる。グリッドではレインからドライへと慌ただしくタイヤ交換するチームが出始めて、ドライタイヤとレインタイヤが混在する。緊迫感の中で、ピットでスタートを待つ高橋の選択肢はドライタイヤしかなかった。
 

最後尾36番目からのピットスタート。たった12周のレースで35台を、まさしくごぼう抜きし勝利した。

 
 シグナルグリーンと同時に飛び出したのは、レインタイヤを選択したライダーたち、濡れた路面を果敢に攻めリードを広げる。だが、そのライダーたちよりも速いペースで高橋がラップタイムを刻む。最後尾の36番手から僅かなドライ寄りの走行ラインを見つけ出し、路面状況を確認しながら慎重に走行するライバルたちの間を縫うようにポジションを上げ、3周目に13番手、4周目には9番手、5周目には7番手、6周目には3番手に浮上、遂に7周目にはトップに立ったのだ。
 絶叫するアナウンスを背に、独走する高橋は12周を走り切り、劇的優勝を飾った。たった12周のレースで35台を抜き去る快進撃に、誰もが目を見張り大喝采を送った。
 

スタート前には雨粒が落ち始める。タイヤのチョイスは? 迷わずドライを選んで勝負に出たのだった。

 
 高橋は、いつものように静かに語った。
「路面の状況を確認しながらライバルたちのペースを見られたことで追い上げることが出来た。限られた時間でマシンを仕上げてくれたスタッフに感謝する」
 驚愕するレースに熱狂するファン、涙を浮かべて健闘を称えるスタッフに笑顔を見せた高橋は、いつにも増して謙虚だった。

 高橋は1984年7月12日、高橋家の三人兄弟の長男として生まれる。3歳の誕生日に祖父からポケバイを贈られるが、興味を示すことなく乗り始めたのは7歳だった。趣味で始めたバイクだったが、本人の「走り続けたい」という熱望を親は受け入れることになる。弟の江紀も走り始め、高橋兄弟の奮闘が続いた。埼玉県の桶川スポーツランドを拠点する「桶川塾」で腕を磨く。ロードレース世界選手権(WGP)GP250で世界チャンピオンとなる青山博一、現在はオートレースで活躍する弟の周平、今季からブリティッシュスーパーバイク参戦となった高橋 巧、さらに現在は全日本で活躍する清成龍一らも桶川塾に通っていた。若い才能がぶつかり合い、切磋琢磨した。
 

2000年に全日本ロードレース選手権GP125クラスデビュー。第9戦の菅生で初優勝した。

 

2001年には、GP125クラス8戦中4勝し、年間ランキング2位となった。
2002年にはGP250にステップアップ。チームはダイドーMIUレーシング。

 
 全日本昇格は2000年で、GP125にエントリーした。翌年にはWGP日本大会にスポット参戦して3位に入り表彰台に駆け上がり、その非凡な才能を世界に認めさせている。WGPでは、加藤大治郎がタイトル争いを繰り広げており、加藤に続く逸材として早くも注目を集めたのだ。
 2003年にもWGP日本ラウンドで3位に上がり力を示す。2004年には青山博一がホンダスカラシップでWGPフル参戦を決め世界に旅立つ。この年、高橋は単独でWGP観戦に出かけている。初めてのお使いのように、すべて自分で旅行の手配をして夢の舞台を見に行っているのだ。
 この時の気持ちを「いてもたってもいられなかった」と振り返る。自分の目指すべき場所を確認しなければならないという思いに突き動かされ、本場のWGPの熱気を体感した高橋は、その思いをぶつけるように全日本でタイトルを獲得してスカラシップの権利を勝ち取る。
 

2004年、GP250クラスでチャンピオンとなる。いよいよ「世界」が見えた。

 
 2005年にはWGPライダーとして走り始め、ランキング11位となる。2006年にはフランス、ドイツで優勝を飾りランキング6位とトップライダーの仲間入りを果たした。しかし転倒による左腕骨折、大腿骨骨折の重傷を負い、それでも度重なる怪我を乗り越え、活躍を続けた。
 2008年にはランキング5位となり、2009年には、遂にMotoGPへとスイッチする。海外チームから焦がれての参戦決定で、高橋は自分の力で「世界」という荒野を切り開いていることを印象付けた。だが、チームの金銭面の苦境から、その力を示すことなく、2010年にはMoto2へと戦いの場を移した。カタルーニャGPで優勝を飾るも、本来の力を示す環境が揃わずに時間が過ぎた。
 

2005年からWGP250ccクラスにフル参戦。初年はランキング11位。2006年にはフランスGPとドイツGPで勝利し、ランキング6位となった。

 
 2012年には鈴鹿8時間耐久にプライベートチームから参戦し2位表彰台に登り、その力が大排気量マシンでも遺憾なく発揮されることを証明した。高橋の力が世界レベルであることを信じる者は多く、2013年には、監督もスタッフもすべてが日本人で、マシンはモリワキというオールジャパンチームのエースライダーとして高橋はMoto2参戦を果たす。だが、またしても本人の力という以外の事情で、途中解雇という最悪の事態を受け入れることになる。

 努力が報われない状況は、絶望しかない。この時、高橋は「引退」を決意している。だが、モリワキから「もう一度、一緒に挑もう」と声をかけられる。全日本に戻り「再生」を目指すのだ。WGPライダーだった自分をリセットして、ただ、レースに向き合うひとりのライダーとして歩み始める。日本のレースの創成期の立役者の一人である森脇護社長は高橋にウィリーの練習を勧める。MotoGPを経験しWGPで勝利経験もある高橋が、その言葉を受け入れ、まだ、薄暗い早朝にモリワキの駐車場で、ウィリーの練習に明け暮れるのだ。天性の速さは、誰もが認めるものだが、この地道な努力で、転倒が減り、高橋はさらなる強さを身につける。
 

鈴鹿8時間耐久レースにも2002年から意欲的に参戦した。そして2012年TOHO Racing with MORIWAKI(ホンダCBR1000RR)から参戦し2位となった。パートナーは、現在のチーム監督である手島雄介、そして2003年の8耐でもコンビを組んだ山口辰也だった。

 
 2014年~2015年と全日本J-GP2でV2を達成、全日本のレベルを引き上げる。2015年にはアジアロードレース選手権にも参戦し、タイトルを獲得している。まったく異なる環境の戦いをこなしダブルチャンピオンとなった。2016年には「鈴鹿8耐優勝」の悲願に向け、モリワキは最高峰クラスJSB1000に参戦を開始する。タイヤはピレリを選択、これには8耐以外に、スーパーバイク世界選手権(SBK)への参戦の思惑も隠れていた。
 

2014年~2015年には、J-GP2で2連覇を果たした。森脇父娘が、高橋をバックアップした。

 

 
 高橋の中に、「もう一度、世界へ」の思いが沸き上がる。SBKはピレリワンメークで戦われているため、その選択は正しいものでもあったが、全日本初参戦であり、データがまったくなく、トライ&エラーの戦いは苦難以外の何ものでもなかった。BSB(ブリティッシュスーパーバイク)を戦っていた清成龍一も招集され、ふたり体制で戦うが、世界に通用するふたりのライダーを擁しても、トップ争いに加わるのは至難の業だった。タイヤのフロント、リアの膨大な組み合わせを限られた時間の中で試す。難関大学を目指す受験生のようにデータをにらみながら走り続けた。
 

2016年は、モリワキレーシングから全日本の最高峰JSB1000にエントリー。怪我により成績は芳しくなかった。

 
 2019年、清成はSBK参戦となるが、高橋は全日本のスポット参戦となる。この時も「チームが決めたことなので」と高橋は何も言わなかった。悲願の8耐優勝からチームの方針が離れて行った。そして、2020年モリワキのレース活動はストップする。

 高橋は自らチームを探さなければならなくなった。高橋は「誰かを押し出して、そこに自分が収まるのは嫌だった。新規で自分を走らせてくれるところでなければ」と、ST1000に参戦する日本郵便Honda Dream TPを見つけ出す。朋友・小山知良がおり、同世代の若き監督手島雄介の率いるチームだ。そこで高橋は2020年、ST1000初年度チャンピオンを獲得するのだ。
 

2020年、ST1000参戦。チームは日本郵便Honda Dream TPで、監督は鈴鹿8耐でもパートナーとなった手島雄介、チームメイトには小山知良もいた。

 
 そして、その才能に目を止めたのがEWCチャンピオンを獲得したTSRの藤井正和監督だ。新型コロナウィルスの影響で、テストもままならない状況の中、日本で高レベルの走りでテストをこなし、チームの戦力になってくれるライダーとして高橋を指名する。
「子供の頃から世界チャンピオンになりたいと思っていた。その夢を叶えるチャンスだ」と考えた高橋は、その申し出を快諾した。今季は、全日本とEWCという過酷な戦いを選択した高橋だが、厳しければ厳しいほど、その才能は研ぎ澄まされていく。それを証明するような、レースを全日本開幕戦で見せてくれた。そして、その走りが、確実に進化していることも示したのだ。
 

2020年、全日本ロードレース選手権ST1000の初代チャンピオンとなった。

 
 しかし、EWC開幕戦5月の独オーシャスレーベンは中止となった。すでに4月開催の延期が発表されていたル・マンが6月12日(土)~13日(日)で行われる。高橋の次回のレースは、全日本は5月22日(土)~23日(日)のSUGOになりそうだ。
(取材・文:佐藤洋美)

※追記
 高橋は全日本デビューからスターライダーで、スポンサーを背負って走り出していた。チームががっちりガードしており、報道陣は、ちょっと近寄りがたい雰囲気だった。きっちりと取材申請をしないと話が出来ず、限られた時間での取材の時の受け答えは、いつもそつがなく優等生。チームの期待を背負い、そこから離れてからはホンダの期待を背負っていた。
 それでも、MotoGP参戦の会見では、ホンダの後押しでなく、己の力でチームから請われての参戦決定が誇らしく、高橋の心からの笑顔を見たように思った。WGP最後のシーズン、途中解雇の通知を受けた高橋が人目をはばからずに涙をこぼしたと、近しい人から聞いた時、胸が痛くなった。あんなに懸命に期待に応えようと頑張るライダーの誇りを奪う行為だと、チームを恨んだ。その失意を思うと、引退してしまうことが当然のようにも思い、レース界の財産が消えてしまうのだと焦燥感に駆られた。
 だが、高橋は、そこから蘇った。全日本とアジアのダブルチャンピオンは、高橋の力を誇示するものであり、ST1000チャンピオンもしかり。今も早朝のトレーニングは継続中だ。いつも謙虚で、優等生であることは変らないが、辛い状況を乗り越えたことで魅力が増したように思う。
 そして、これからも、きっと、思いもよらない劇的なレースを見せてくれるのだと思うとワクワクする。世界チャンピオンになるに相応しいライダーであり、それをEWCで示すこと、そして、鈴鹿8耐勝利の勲章を手に入れてほしいと願っている。
 

 


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2021/05/14掲載