2020年は東京で開催されるオリンピックイヤーのため、鈴鹿8時間耐久の開催日が前倒しされて行われる、と年初に発表されていた。ビッグイベントである東京オリンピック開催は、大なり小なり日本国民に影響を与えていたように思う。だが、新型コロナウィルスの出現が、ワクワクとした気持ちを吹き飛ばし、不安の中で全てのスケジュールを狂わせることになった。
多くのスポーツイベントが延期、休止、中止となる。それでも、夏あたりから感染対策を行った上でイベントが再開された。ロードレース世界選手権(WGP)では、スタッフ、取材者らが絞られ、開催ラウンドも限られながらも戦いが始まった。全日本ロードレース選手権も8月から4戦の短期決戦としてスタートを切った。
このパンデミックの中でヤマハファクトリーの野左根航汰は、最高峰クラスJSB1000の新たな王者となり、世界への切符を手にし、多くのライダーへ希望という光を灯した。
全日本ロード最高峰クラスのJSB1000は、2018年にレースファン念願のホンダワークスが復活しエースライダーの高橋 巧と、ヤマハファクトリーの絶対王者・中須賀克行の熾烈なタイトル争いが繰り広げられていた。この年、中須賀は12戦中9勝を挙げタイトルを獲得。翌2019年の中須賀は、第2戦鈴鹿での転倒ノーポイントからの逆転チャンピオンとなり9度目の王座を獲得していた。この2強に、ヤマハファクトリーの野佐根航汰、ホンダの水野 涼が追いつき、2020年は4強の戦いになると予想されていた。
だが、ホンダワークスは撤退し、高橋はスーパーバイク世界選手権へと旅立った。ホンダ勢では伊藤真一監督の『Keihin Honda Dream SI Racing』が誕生した。マシンのCBR1000RR-Rは新型市販キット車ながら「中須賀に対抗するライダーは清成しかいない」と清成龍一を起用。水野も継続参戦だが、同じく市販キット車。ヤマハファクトリーの中須賀と野左根にどこまで迫れるのかも見どころだった。
そして注目していたのは、10回目の全日本タイトルを狙う中須賀克行に、若い野左根がどこまで迫るのか、いや阻止して新チャンピオンが誕生するのか、ということだった。
野左根は1995年10月29日、千葉県に生まれた。父親がバイクショップを経営していたことから、3歳になると近くの河川敷でモトクロッサーに乗るようになったという。7歳からは地方サーキットを走るようになるが、まだ、趣味の領域を出ることはなかった。
2006年に世界を舞台に活躍して来た阿部典史(愛称ノリックで世界中にファンを持つ天才ライダー)が「世界に通用するライダーを育てたい」と『チームノリック』を立ち上げる。阿部の父、オートレーサーとして活躍していた光雄氏も、この運営に関わる。光る原石を見つけるために、地方サーキットを訪れた時に、野左根に目を止めた。
「センスが良いなと感じたこと。いつまでも走り続けていて、この子は走ることが好きなのだと思った」
というのが光雄氏の選抜の理由だった。野佐根10歳の時である。この時、3名のライダーが選ばれ、埼玉県のサーキット秋ヶ瀬で発表会が行われた。夕陽に照らされ、瞳をキラキラと輝かせていた野左根は、はにかんだような笑顔で写真に納まった。
2007年10月、阿部典史が交通事故で他界すると父光雄氏が、その意志を継ぎチームノリックを続けることになる。光雄氏は、典史を育てたように、走行機会を作ることに苦心し、野左根は一期生としてダートレースや、サーキットとひたすら走り続けた。
「ノリックさんは、TVで活躍しているすごいライダーだと思っていました。初めて会った時、僕はまだ10歳の子供だったけど、人を惹きつけるオーラを感じました。接した期間は、少ないですが、阿部さんのように世界で活躍するライダーになりたいと思いました」
野左根は2008年、筑波選手権に参戦を開始し、2009年には筑波選手権GP125チャンピオン、東日本チャレンジカップでランキング2位となる。2010年には全日本昇格。チームノリックの野佐根は、この頃から注目のライダーだった。2011年にはJ-GP2参戦を開始する。海外へスポット参戦するなど、力を蓄え2013年にはチャンピオンを獲得するのだ。翌年にはWGP参戦の準備が進んでいた。だが、その矢先に最愛の父が急死する。
野佐根の代役として長島哲太が世界へと飛び出す。野佐根はレースを続けることを断念しようとしていた。だが、彼の才能を惜しむ光雄監督や、関係者が全日本最高峰への参戦を急遽準備し救済したのだ。
2015年、ヤマハ育成チームが立ち上がり、オーディションが行われ、野左根が選出された。中須賀には次世代ライダーを育てようという明確な目標があった。野左根はその思いに応え、2017年にはヤマハファクトリーへと迎えられ、中須賀のチームメイトとして走り出す。
MotoGPのテスト参加を許されるなど、ライダーとしての幅を広げて行く。世界耐久選手権(EWC)へも武者修行に出かけ、深いバンク角を持つコーナーリングと、物おじしない勝負強さで活躍し、表彰台の常連となり海外でも高い評価を得る。日本GPにも代役参戦、雨のもてぎで速さを示し、その名をMotoGPファンにも認知させた。
中須賀を越えるライダーだと証明できれば野左根を世界へという話は、公然のものとして囁かれるようになる。だが、中須賀の強靭さは、そばにいる野左根が一番知っていた。2018年、野左根はEWCの誘いを断り全日本へと集中することを選ぶ。タイトル獲得のためだ。前年度は中須賀のケガや転倒があり、勝利を挙げるが、この年は未勝利。
2019年は「ファクトリー3年目、勝負の年」と野左根は自身を戒めている。同世代の水野の急成長も野左根の闘争心を煽り、遂に雨の岡山国際で勝利、2位水野、3位中須賀で表彰台に登る。だが、圧倒的強さを示す中須賀が当然のように9度目のタイトルを得る。
そして2020年、野左根の成長を感じていた『YAMAHA FACTORY RACING TEAM』の吉川和多留監督は「中須賀、野左根はチームを分けることにする」と英断。同じチーム内ではあるが、より明確にライバル関係を打ち出し切磋琢磨することで、ふたりの力をより引き出そうとした。
野佐根も「これまで、中須賀さんと同じ仕様で走っていたが、同じでは勝てない、自分の武器を生かさなければ」と考えるようになる。MotoGPライダーのように肘も膝もヘルメットも擦ってしまうほどのコーナーリングを生かすセッティングを模索するようになったのだ。オフに行われたマレーシアテストでもトップタイムを記録した。
だが新型コロナウィルスの猛威から、長いオフシーズンが続くことになる。力を示したい野左根にとっては辛い時間が流れた。
「レースが出来ること、走れること、今まで、当然のように思っていたことが、特別のことなんだと思いました」
野佐根はレースへの渇望を抱きながら開幕を待った。
鈴鹿8時間耐久が中止となる前に行われた自粛明けの7月のテストでは、中須賀との熾烈なタイムアタック合戦を見せている。それは、テストとは思えぬほどの緊張感のあるもので、中須賀が野左根を意識している証のようでもあった。
「中須賀さんは、素晴らしいライダーで、チームの要。誰もが中須賀さんを見ています。自分なんて存在感がない。勝てると思われてない。相手にされてないような気持ちになる。自分も、いるのだと証明したい。今年はタイトルが欲しい」
野左根はその思いをぶつけるようにコースに飛び出し、トップタイムへのこだわりを見せた。それは、「今年、ダメなら後はない」という覚悟であり、中須賀10回目のチャンピオンを阻止し、自分が、その座に就こうという思いを示すものだった。
待ちに待ったレース再開は全4戦と発表された。JSB1000は2レース開催となり、全8戦で争われることがリリースされた。開幕は8月、事前テストで野左根はウェット路面とドライが混在する難しい路面を攻め、トップタイムを記録していた。
吉川監督は「この状況でもトップタイムに拘る挑戦者の野佐根と、リスクを冒さない、冒す必要のない中須賀。どちらの選択もあり」と語り、ふたりの戦いを見つめていた。
第1戦スポーツランドSUGOは、予選、レース1と雨模様となった。野左根は中須賀を抑えてポールポジション(PP)を獲得する。レース1で中須賀が転倒して右肩を痛め、レース2を欠場する。野佐根は、レース1・レース2とダブルウィンを飾り、中須賀のノーポイントで、ランキングトップに立つ。
第2戦はオートポリスだった。PPは野佐根、レース1は野佐根と中須賀の熾烈なトップ争いとなるが、決着がつく前に赤旗でレース成立となり野左根が勝利。ふたりとも不完全燃焼の思いを抱え、レース2に挑むことになる。ここでも激しい戦いは続き、最終コーナーでトップの中須賀に勝負をかけた野左根だが、接触してしまう。中須賀が押し出されて転倒、野左根の勝利となったが、危険行為と判断され厳重注意を受ける。
野佐根は「強引だった」と猛反省、中須賀へ謝罪する事態となった。
開幕戦は中須賀不在のレースであり、オートポリスのレース1は赤旗で勝負しきれていなかったからこそ、中須賀との真剣勝負で勝ちたいという思いが先行することになってしまう。
「このことを気にして委縮していいレースが出来なくなることを望んではいない」
と、中須賀は男気を示し水に流した。
野左根は第3戦もてぎでも中須賀を抑えダブルウィンを飾り連勝を続けた。ランキング2位の清成とのポイント差は52Pと大きく、最終戦の鈴鹿では20位以内に入ればタイトル決定という局面を迎える。
野佐根は、中須賀やライバル陣営が選んだ固めのタイヤではなく、柔らかめのタイヤを選択する。通常、固めは持ちが良く、最後までグリップを維持すると言われる。柔らかめは、初期グリップは勝るが、持ちに関しては消耗が激しく後半は厳しいと言われている。それでも、野左根は「予選で赤旗が出て、最終確認はできていなかったが、最後まで持たせるライディングが出来れば勝算がある」と勝負に出る。
野左根の中にポイント狙いという選択肢はなかった。挑戦者として、いつものように勝利を狙うことで、タイトル決定戦という極度の緊張を押しのけた。
レース1、中須賀との熾烈なトップ争いを繰り広げる。中須賀が最終ラップのシケインの攻防で競り勝った。ふたりを長年取材しているジャーナリスの佐久間光政氏が「中須賀に奥の手を出させた野左根がすごい」と感嘆、称賛するレースとなった。中須賀は王者の意地を示し勝利。野佐根は僅差の2位でタイトルを決めた。チャンピオンTシャツを着込み、ウイニングランした野左根をスタッフが泣き笑いで迎えた。
新たなスター誕生の瞬間でもあった。
「中須賀さんが、もっと喜べと声をかけてくれた。スタッフの喜ぶ顔を見て、嬉しかったが、どう喜べばいいか分からなかった。でも、このチャンピオン獲得のために走ってきた。勝てないだろうって思われていた自分が1番になれたんだから、誰もが目指しているものを得たのだから、特別なこと。特別な時間だと思う」
野左根は、チャンピオンを獲得して挑んだレース2は文句なしの勝利を挙げ、全戦優勝の記録とはならなかったが、全8戦中7勝という圧倒的な力を示した。これまで苦楽を共にしたスタッフに感謝しながら「来年は一緒じゃないんだなと思うと、少し寂しい気持ちになった」と感傷的な気持ちを抱えてもいた。
第3戦もてぎ戦時に、野佐根は2021年シーズン、SBK参戦決定の発表があった。新型コロナウィルスの猛威の中、不安を消すことが出来ない状況下で、この明るいニュースにだれもが笑顔となった。
ヤマハのレース責任者でもある堀越慶太郎部長は「海外チーム、吉川監督とも相談をして、野左根を世界に出してもいい時期だと判断した」と語った。
吉川監督も「やっと、思いっきりやって来いと声をかけることが出来る。もちろん、まだまだな部分はあるが、外で学ぶこと、成長することが出来るタイミングだと思う」と太鼓判を押した。海外へと出かける時期は、ライダーにとって重要だ。その見極めが確かでなければ、才能あるライダーを潰しかねない。
ヤマハは、じっくりと野左根を育て、その時期を図っていたのだ。
当の野左根はこう語った。
「2021年、ゼッケン1で全日本を戦う姿を見て判断してほしいと思っていました。だから、驚きでもありました。でも、自分が考えていたよりも早くに願いが叶い嬉しく光栄に思います。全日本チャンピオンになり、日本代表としてスーパーバイク世界選手権(SBK)に行けることになり良かった。WGPでは、Moto2、3で日本人ライダーが勝ち、MotoGPでは中上(貴晶)選手がPPを獲得と、世界で日本人ライダーが活躍しています。彼らに負けないように自分も力を示したい」
2021年、野左根は『GRT Yamaha World SBK Junior Team』からSBKに参戦する。位置付けは“ジュニアチーム”であり、ここでの活躍次第ではファクトリーチームへの昇格もあると見られている。昨今、日本人ライダーが海外へ行く道は狭く、チャンスを掴むのは至難の業だ。ヤマハがライダーの夢を受け止め、その道を作ってくれたことに称賛が集まっている。すでに、海外テストに出かけ、来シーズンへの準備が始まっている。
(文:佐藤洋美)
追記:最終戦で柔らかめのタイヤを選択した野左根、周りと違う選択をするのは勇気がいる。冒険でさえある。だが、その冒険を怖がっては、進歩はないのかもしれない。野佐根はレースが出来ることに感謝し、一歩を踏み出し自分自身を発見し大きな成長につなげた。
中須賀は、マシンを知り尽くし、スタッフとの絆、戦い方とプロフェッショナルな唯一無二の存在として進化し続ける絶対王者だ。その中須賀を倒すことを宿命づけられた野左根を、実は可哀そうだと思っていた。野佐根は「中須賀さんに勝てるなんて誰も思っていないでしょう」と囁いたことがあった。そんな空気が漂うほど、中須賀の強さは際立っていた。
だから、中須賀を倒さなくてもチャンスをあげてほしい、海外という大きなフォールドで野左根の才能を磨いてほしいと願ってもいた。
だが、野左根は中須賀に真っ向勝負を挑み、そんな空気を変えたのだ。中須賀はSUGOの転倒で右肩を痛めており、万全の体調ではなかったが、それを差し引いたとしても、タイトルを引き寄せた野左根は、自身の殻を破り、強さを身に着けたのだ。尻込みすることなく戦い、チャンスを掴んだ野左根は、後に続くライダーに希望を与えてくれた。
2020年全日本チャンピオンとなったJ-GP3の村瀬健琉も、ST600の岡本裕生も「野左根さんのようになりたい」と語っている。頬を紅潮させ瞳をキラキラさせていた10歳の男の子が成長し、夢を掴み、目標とされるライダーとなったことを、きっとノリックも、誇りに思い、心から喜んでいるに違いない。SBKでの活躍を誰もが心から願っている。
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