新型コロナウィルスの脅威は世界中に吹き荒れている。その影響はレース界にも及んでいて休止状態となっている。そんな中にあって、アジアロードレース選手権(ARRC)の開幕戦が3月8日にマレーシアのセパンで行われた。しかし、ここに元MotoGPライダーの玉田 誠が監督を務めるHonda Asia-Dream Racing with SHOWAの姿はなかった。今季は新型となったホンダCBR1000RR-Rを駆り、ASB1000にザクワン・ザイディ(マレーシア)を継続参戦させ、新たにゲリー・サリム(インドネシア)を加え、2台体制で挑むことになっていた。玉田は「新型マシンを得て、サリムにはザクワンを超える走りを、ザクワンにはチャンピオンを目指してもらう」と意気込んでいた。
開幕戦欠場について、玉田は「新型コロナウィルスの影響で、タイやインドネシアのスタッフは出国、入国の問題が発生して、事前テストにも参加できない状態だった。新型マシンを駆り、多くのデータを得て、それを世界中のHondaを駆るライダーたちに、いの一番に提供したいと思っていた。ライダーも、今季にかける強い思いは一緒だった。ザクワンは母国レースで、開幕勝利のために準備していたので、なんとか参戦できないか、Hondaの他チームとのコラボや、フル参戦チームがグリッドに揃わない事態でもあり、開催中止など意見が出た。しかしマレーシアには国としてイベント中止の勧告が出ていないこと、すでに現地入りしているチームが多数あったことなどから開催は覆らず、急遽ライダーだけ参戦というのもリスクが大きく断念するしかなかった」と無念さをにじませた。
玉田が丹精込めて作り上げて来たチームの力を示すことが先送りとなったのだ。
玉田は愛媛県松山市出身、兄と共にレースを始めて「ヘルメットを地面にこする兄弟がいる」と話題になる少年だった。父は厳しく、コーナーに竹刀を持って立ち、コーナリングが遅いと振り下ろされるという熱血指導を受けながらも、バイクの楽しさにどっぷりと浸かり成長し、九州の名門チーム高武(ホンダワークス宇川徹、カワサキワークス柳川明を輩出。後輩には清成龍一)の門を叩く。一足先に所属していた同い年だが、チームでは先輩となる加藤大治郎を追い掛けるようにキャリアを積んだ。
玉田の計り知れないポテンシャルを多くの人が認識したのは1999年全日本選手権スーパーバイク最終戦だ。ロードレース世界選手権(WGP)500ccクラスの岡田忠之やセテ・ジベルノー(スペイン)、スーパーバイク世界選手権(SBK)の芳賀紀行、柳川 明が凱旋、全日本レギュラーライダーを加え、18台ものワークスマシンがひしめく戦いだった。予選では11人がレコード更新する激闘でWGP帰りの伊藤真一を破り、なんとルーキー玉田がポールポジションを獲得したのだった。
決勝は岡田、加賀山就臣、玉田のドッグファイトとなるが、終盤、玉田は後続を突き放し初優勝するのだ。ニューヒーロー誕生を誰もが感じ、表彰台の真ん中の玉田を眩しく見上げることになる。
翌年にはホンダワークス入りを囁かれたが、サテライトで奮闘。2001年のSBK SUGO大会ではレギュラーライダーを抑えダブルウィンを飾り、その才能は日本だけでなく、海外でも注目を集めることになる。
2003年にはキャメル・ホンダからMotoGP参戦を開始。朋友・加藤とWGPを転戦出来ることを心待ちにしていた玉田だが、開幕戦の事故で加藤は帰らぬ人となった。失意を抱えながらも戦い続け、リオGPで3位表彰台を獲得し、WGPの中で存在感を示す。
2004年イタリアGPではバレンティーノ・ロッシ(イタリア)、ジベルノー、マックス・ビアッジ(イタリア)とトップ争いを展開。そして加藤の誕生日である7月4日にリオGPで初優勝を飾る。加藤に捧げられた勝利に多くの人が涙した。ポルトガルGPではPPから2位。日本GPで勝利しトップライダーの階段を駆け上がった。
2005年、玉田は、王者ロッシと同条件で戦うことを望んだ。ロッシとの真っ向勝負で世界タイトルを掴もうとした。だが、その同条件を得ることが出来ずに苦戦、日本GPで3位に入るも思うようにならないシーズンが続くことになる。玉田の力を示す体制が出来ずに、レースファンが望んだ最高峰クラスチャンピオンの夢を叶えることが年々難しくなっていった。
だが、玉田は次なる夢を見つけた。アジアから世界に通用するライダーを生み出すことだ。2012年若手ライダー育成のため始まった『ホンダドリームカップ』のトレーナーを任された玉田は、各国から選ばれたライダーたちを熱心に指導。ライダーとしても求められ鈴鹿8耐(2010〜2013年)、アジアレースにも参戦したが、2014年から育成に専念する。
ARRCには、藤原克昭、清成龍一、玉田誠、高橋裕紀、小山知良ら世界を知るライダーたちが参戦、タイトル争いを繰り広げ、お手本を示すことで、レベルがグングンと上がって行った。玉田は2015年からタイの『APHonda』の専任コーチとなり、2017年にはチーム監督に就任。2018年には『Honda Asia-Dream Racing』が発足。ARRCのみならず、鈴鹿8耐、全日本ロードレース参戦と活動の場を広げた。玉田が数多くのアジアライダーから目を付けたのはザクワンだった。
「清成龍一がチームメイトだった時は、朝の起床から、食べるもの、準備運動まで、ザクワンは、すべて真似をしていた。分からないことは聞きにくるし、移動先でも、トレーニング出来る場所を探している。こいつなら速くなるんじゃないかと思わせてくれた」
と、玉田は言う。
「まだ子供だったけど、玉田さんが、黄色いキャメルカラーでMotoGPを走っていたのを夢中で応援していた。同じアジア圏の出身のライダーだったこともあるし、速くてカッコ良かったから。その玉田さんと一緒にレースが出来るのは光栄なこと。熱心な指導に応えたい」
と、ザクワンは語る。
ザクワンは玉田の指導を受けトップライダーへと成長すると同時に、家族のような絆が育っている。
さらに玉田は急激に発展するアジア圏で、バイクが普及し、同時に交通事故も増えていることを憂慮。「バイクをわかる人を増やすことは交通安全にもつながるはず」と早くからメカニックの育成にも乗り出していた。チーム高武の柳本慎吾メカを呼び寄せ、メカニックの指導を行った。またモリワキエンジニアリングとコラボレーションし、アジアからメカニックを日本に送り込んだ。
レースにおいても、Hondaにとってもアジア圏は重要なマーケットなだけに、玉田が言えば、ワークスマシンも用意できなくはないはずだが、玉田は「まだ、ライダーもチームもそれをこなせるほどのレベルにない」とスタンダードマシンで、プライベートチームとして、学びの姿勢を貫き切磋琢磨してきた。鈴鹿8時間耐久は、絶好の学びの場で、徐々に日本人スタッフを減らして行った。そこには、「レースは勝ち負けだけではない」という玉田の思いがあった。
「すぐに人は育たない。だから、時間がかかるのは仕方がないこと。確実に力をつけ、日本人の手を借りなくてもしっかりとレースが出来ることを目標とした」
その目標が叶ったのは、2019年12月に開催された、世界耐久選手権(EWC)第2戦マレーシア、セパン8耐だった。ライダーもスタッフも、ほぼアジア圏で固めた。限られた時間の中で、準備を重ね、玉田にとってのDream Teamとしてセパンに挑んだのだ。
2019年~20年シリーズのEWCは、開幕戦フランス・ボルドール24時間耐久で行われ、第2戦がマレーシアのセパン8耐として組み込まれた。鈴鹿8耐を完全コピーして行われるとリリースされ、さらに、鈴鹿8時耐参戦権利を得るためのトライアウトのファーストステージとなる。
セパン8耐には参戦権を求める日本チームが多数参加することになった。初開催ながら、50チームが参加し、欧州のレギュラーチーム、アジアチーム、日本とバラエティーに富んだチームがピットを埋めた。クアラルンプールの街中を8耐マシンで疾走、歓迎パーティーが行われるお祭りムードの中で、ヤマハはエースナンバー、ゼッケン21番をつけ、ロードレース世界選手権(WGP)MotoGPライダーのフランコ・モビリデリ(イタリア)、マレーシアの英雄ハフィス・シャリーン(マレーシア)、スーパーバイク世界選手権のマイケル・ファン・デル・マーク(オランダ)を送り込み、優勝候補の筆頭に挙げられていた。
玉田は、アジアロードレース選手権(ARRC)ASB1000のザクワン・ザイディ(マレーシア)、ARRC SS600のアンディ・イズディハール(インドネシア)、Moto2のソムキャット・チャントラ(タイ)のラインナップ。アジア期待の若手で構成し戦いを挑んだ。
「勝てる気がする。根拠と聞かれると、これってはっきり言えることはないんだけど、そんな気がする」
玉田はそう言った。
だが、EWCのレギュラーチームのレベルは年々上がっている。強豪はヤマハだけではない。アジアの応援を集めたとしても優勝のハードルは高い。玉田は「チャントラはMoto2で戦いレバルを上げている。速くなっているし、それが刺激になりザクワンも士気が上がっている」と語り、何かが起きる予感を感じていた。それは、トップ10トライアルでのチャントラの躍進に表れる。2番手タイムを叩き出すのだ。PP獲得のモビリデリに迫った。
だが、決勝朝の走行でザクワンが転倒、マシンが炎上、オフィシャルが熱心に消火したがマシンは真っ白というアクシデントが勃発。ピットには動揺が走るが、玉田が、それを抑える。スタッフが決勝に間に合うようにマシンを準備、チャントラがマシンに乗り込もうとすると、ピットからは自然と拍手が巻き起こり、ライダーを鼓舞する。チャントラはチームの思いを受け取りコースへと飛び出して行く。その中心にいる玉田は、張り詰めた緊張の中で、全てに目を配り、的確な指示を与え続けた。チームがしっかりまとまり、機能して行く。
雨季のマレーシア、天気予報は当たり、スタートの時刻が近くなると雨が激しさを増して行った。2度もレースディレイとなり、雨はやむ気配のない中で、監督会議が繰り返され、玉田を始め、監督たちは会議室とピットを往復することになる。8時間耐久が、実質3時間となり、この3時間耐久を戦うための作戦の立て直しを迫られる。玉田はザクワンにスタートライダーを任せ、チャントラにつなぎ2位でチェッカーを受けるのだ。
「勝てる気がした」のは夢想ではないことを示す戦いとなった。ライダーと共に表彰台の上で玉田の笑顔が弾けた。
「いつもは戦うことのないレベルの高いライダーと戦うことで、ここで、ライダーもチームも多くを学ぶことが出来たと思う。まだまだ、課題があるので、さらにチームとして成長していきたい。来年はARRCでタイトルを取り、確実にレベルをあげ、いつか、欧州のライダーと肩を並べ、戦えるライダー、そして、メカニックが生まれることを目指す」
玉田は決意を語った。
セパン8耐で、感じた手応えを、2020年にはARRCで示そうとしていた。開幕戦がノーポイントに終わったことは痛手だが、玉田は「ここからの巻き返し」を誓っている。第2戦オーストラリアは延期となったが、第3戦日本・鈴鹿は6月28日開催。新型コロナウィルスが終息し、予定通りの開催が待たれている。
(取材・文:佐藤洋美)
追記:玉田は全日本250参戦時、テストで宮城県SUGOにやって来て、九州にあるチームまで戻る交通費がもったいないからとSUGOに残ると言っていた。「1週間もあるけど、何をして過ごすの?」と聞いたら「トレーニング」と答えていた。プライベート時代が長かったが、その負けん気の強さと才能で、頭角を現し世界で活躍した。その玉田に憧れて、レースを始めた少年たちが、たくさんいる。加藤大治郎が果たせなかった最高峰クラスで世界チャンピオンになってくれる逸材だと誰もが信じていた。日本の期待を背負い、それに応えられず「すまない」と日本GPで、わざわざピットから出てきて、ピットロードで手を合わせ、頭を下げて観客に謝っていた玉田を思い出す。ファンはいつまでも、いつまでも玉田に温かい拍手と声援を送っていた。
私は、玉田はライダーを辞めたら、レース界を去ると思っていた。全身全霊挑んでいたレースが出来ないなら、いる意味を見いだせないだろうと思っていた。玉田も「自分でもそう思っていた。でも、ずっとレースしかなかったから、他が考えられなかった」と腹をくくり、今ではタイ在住、誠心誠意、アジアのレース界のこれからを考えている。玉田が育てた世界チャンピオンに、いつか、会いたいと思う。会えそうな気がしている。
[「監督としての青山博一」へ]