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伊藤真一の 大きな挑戦。 ── 後編 ── もっと上を!
伊藤真一の2020年シーズンが終わった。JSB1000に、「Keihin Honda Dream SI Racing」を率いて監督として挑んだが、結果は、清成龍一がランキング2位、渡辺一馬は5位だった。プライベートチームがファクトリーに勝つことを目標にしたが、それは叶わなかった。「納得はしていない」伊藤は、すでに来シーズンを見据えている。
前編に続き、伊藤真一の「大きな挑戦」を追った。(前編はこちら➡ https://mr-bike.jp/mb/archives/15738
■文・佐藤洋美 ■写真:赤松 孝






 2005年には本格的に全日本JSB1000に参戦、チャンピオンに輝く。2006年には「ケーヒン・コハラ・レーシングチーム」を立ち上げた。
 ケーヒンは「世界中の人々の生活が便利で豊かになるとともに地球環境に影響の少ないモビリティ社会に貢献する」ことを掲げ、創業以来60年にわたり、クルマやバイクの製品を数多く生み出している。
 伊藤の故郷である宮城県角田市にもケーヒンの工場があり、町で知られた優良企業だった。伊藤は地元に拘り続け、ホンダワークス契約となっても地元を離れなかった。ケーヒンには、一緒にレースに打ち込んだ遠藤研一がいる。遠藤は「悩んで相談した時に、伊藤さんが、お前は普通に大学に行って就職した方がいいって言ってくれた」と振り返る。レース資金で借金が増えていく生活を、遠藤にしてほしくないという、伊藤の思いからの言葉だった。
 ケーヒンの中にも伊藤ファンは数多くいる。地元のヒーローを支えたいと、そのファンを代表してケーヒンとつないでくれたのが遠藤だった。遠藤は昼休みの食堂で、決死の覚悟で、社長に直談判、その企画書が通り、伊藤は走ることが出来るようになる。
 

2006年、ケーヒン・コハラ・レーシングのライダーとしてJSB1000に参戦し、チャンピオンとなる。
今も続くケーヒンとの関係を築いた遠藤研一さん(右)。伊藤にとって、後輩であり友人であり、恩人のひとりである。

 
 その思いに応えるように、2006年にも全日本タイトルを得て、鈴鹿8時間耐久ではプライベートチームのTSRから辻村猛と組んでワークスチームを抑え劇的な優勝を飾るのだ。伊藤はキャリアを重ね、その実力は多彩となり、魅力を増して行った。
 だが、2007年、伊藤はシーズン開幕前のテスト中にトラブルで転倒してしまう。大腿骨が骨盤に突き刺さる大事故だった。選手生命どころか、命の危険まであった。それでも、伊藤は小原に「絶対に戻って来る」と告げている。
 

2006年のJSB1000第5戦菅生大会。「あまり調子は良くなかった」という伊藤だったが、結果は2位。優勝したのは、辻村 猛。「伊藤さんに乗り方を教わったりして後半戦は調子を上げられている。これも伊藤さんのおかげですね」と語っている。
この年の鈴鹿8時間耐久は、プライベートチームのTSRから参戦した。ペアライダーは、コンビを組んで4年目の辻村 猛。2003年こそ3位表彰台だったが、2004年のリタイア、2005年の14位。その鬱憤を晴らすような優勝だった。

 
「自分が戻らなければ、チームスタッフは、大きな負い目を感じてしまう。それを避けたい」
 という伊藤の一念からだった。
 医師は、伊藤の強い意志を感じ、ライディングの写真を取り寄せ、関節の可動域を広げ、ライディングポジションが可能となるように取り組んだ。伊藤はリハビリの時間が終わっても、病院のベッドの端にゴムを巻き付け、過酷なトレーニングを続けた。
 

 
 奇跡の復活を遂げ、2008年伊藤は鈴鹿8時間耐久のグリッドにいた。絶対に転ばない約束、まだ、足を引きずらなければならず、自身でバイクの乗り降りもままならないのに、スタートライダーを務めた。その強靭な意志の力にライバルたちも尊敬の念を抱き、ヨチヨチとマシンに駆け寄る伊藤を守るようにスタートを切った。伊藤は走り切り3位表彰台に登る離れ業を見せる。奇跡の復帰劇に誰もが驚愕した。
 2009年にはヤマハの中須賀克行や、ホンダの秋吉耕佑とタイトル争いを繰り広げるまでになり、鈴鹿8耐でもトップ争いを繰り広げた。2010年鈴鹿8耐には玉田誠と組んで2位となる。
 

2010年、JSB1000第5戦岡山では、ヤマハの中須賀克行との熾烈な争いを制して優勝。第1~3戦まで調子の上がらなかった伊藤だったが、第4戦に続く連勝だった。

 

2009年、2010年とJSB1000に参戦した。ランキングは、2009年が7位、2010年が5位だった。

 
 2011年3月東日本大震災が起きる。大津波、火災等により、12都道県で約1万8000人の死者・行方不明者が発生し、伊藤自身も被災し、親戚には亡くなった人もいる。レース以前に、日常を取り戻す必要に駆られる。救済のために動き始めた伊藤の事務所には、公共の機関が手の回らない人々からの助けを求める電話が鳴り響いた。
 伊藤は、その求めに応え続ける。注射針がないと言えば、知人を頼って手に入れ、トイレの代わりにペットシートがほしいと言えば手に入れ、奥地に住み、救援物資が届かない人には届けた。ガソリンがないと言えば、ライダー仲間がかき集めて届け、その物資を困窮している地域に届け続けた。困っている人たちに手を差し伸べ続けた。
 

引退を決意した伊藤は、開発ライダーとしてMotoGPマシンのテストをする予定だった。しかし2011年3月東日本大震災で伊藤自身も親戚を亡くし、またバイクショップも営業中止を余儀なくされる。「被災者を元気づける」ためにJSB1000にスポット参戦。開幕戦では3位に入った。

 
 この年、伊藤の走る姿で被災地に元気を届けようと、TSRの藤井正和監督が伊藤を誘う。鈴鹿2&4に参戦、3位表彰台に登るのだ。鈴鹿8耐には、同TSRから秋吉耕佑、清成と組んで勝つ。通算4度目の鈴鹿8耐勝利を数えた。表彰台では盛大な「イトウコール」が沸き起こった。また、スポーツランドSUGOにも参戦し4位となった。被災地に勇気をとホンダがMotoGP日本ラウンドに伊藤を参戦させている。記者会見で世界中から集まった義援金に感謝の言葉を述べた。この世界のひのき舞台で伊藤が駆ったマシンは赤、白、青のホンダトリコロールカラーのRC212V。このレースを最後に、伊藤は引退を決意する。2011年10月2日だった。
 

2011年7月31日に行われた鈴鹿8時間耐久では、秋吉耕佑、清成龍一と組み、4度目の優勝を飾った。これは、伊藤自身の持つ最年長優勝記録を更新して44歳236日とした。

 

2011年10月2日、ツインリンクもてぎで行われたMotoGP第15戦に参戦し、13位となった。

 
 2012年からホンダのマシン開発のためテストをこなし、アドバイザー契約となり、熱心な指導者としての一面も発揮。パドックを自転車で動き回り、コースへと足を運び、全クラスのライダーたちの走りを見ていた。アドバイスを求めるライダーすべてに、真摯に応え続けた。しかし「ライダー・伊藤真一」を周りは望んでいた。ライダーとして、プライベートチームから鈴鹿8耐参戦を求められ2013年には山口辰也、渡辺一馬と組み、2014年には渡辺、長島哲太と組んで鈴鹿8耐に参戦、鈴鹿8耐は、伊藤のライフワークのようになった。
 2016年、伊藤はTSRに招かれてボルドール24時間耐久にも渡辺らと参戦している。2017年には伊藤を全日本に復帰させようとホンダの関連企業がチームを集結しフル参戦復帰した。2018年鈴鹿8耐には、桜井ホンダから濱原颯道と参戦、手をケガしながら、巨大なグローブに左手を押し込み、右手だけでライディングして走り切った。2019年も桜井ホンダから濱原、作本輝介と参戦10位と入賞を飾っている。
 50代となっても、ライダーとしての力量は変らず、人気もトップクラスであり続けている。
 

 
 そして昨年からは、その指導力を買われタイホンダの求めで、アジアのライダー育成のため自らプログラムを組み指導している。
「アジアのライダーたちの熱心さは驚くほどで、貪欲に何でも聞いて来る。言葉の壁も立場の壁も何もなくて、速くなりたい。勝ちたいという思いがストレートに伝わる。一方で日本人は控えめに感じるが、夢をかなえたいと思っている気持ちは一緒。そんな日本のライダーたちの能力を発揮できる場所を作りたい」
という思いが大きくなっていく。
 ライダーはチームがなければ走れないのだから、その場を作りたいと考えるようになった。その伊藤の思いを後押ししてくれたのはケーヒンだ。ホンダモーターサイクルジャパン、モータースポーツに多大な貢献をしている株式会社ピーアップワールドのサポートでチームの骨格が出来、ビッグチーム誕生となった。
 

2020年、「Keihin Honda Dream SI Racing」として、連勝を続けるヤマハ・ファクトリーチームに挑んだ。メカニックは、旧知の仲である小原 斉、ライダーは左から作本輝介(ST1000)、清成龍一、渡辺一馬(共にJSB1000)という陣容。

 
 ヤマハファクトリーに対抗する存在感を持ち、開幕戦では清成がレース1で2位と表彰台に登った。それを見上げ伊藤は、ライダーと同じように心血を注ぎ、緊張もし、疲れも感じながら、表彰台には登っていない、不思議な感覚を感じ「監督になるというのはこういうことか」と実感したと言う。レース2でも清成はトップ争いを見せるが、トラブルで後退するも、それを抱えながら4位となった。渡辺はリタイヤ・7位となる。作本はトップに迫るもリタイヤでレースを終えた。

「清成のポテンシャルの高さは、走り出しから限界近くを攻めて行くこと、さすがにレベルが高い。去年の結果が本当に信じられない。こんな力量があるのに、何故、結果が残っていないのか不思議だ。しっかりと清成の力を示せるようにサポートしたい。渡辺も経験を積んで力をつけて来ていることを実感している。作本は、なかなかタイムが上がらずに心配したが、決勝ではきちんと上げて来た。転んでしまったが、前向きな転倒、これからに期待したい」
 レース後の伊藤は、これからを見据えていた。
 

 
 伊藤にとって監督という立場でサーキットにいることは初めての経験だが、それも面白いのだと笑った。
「清成の一挙一動、トレーニング取り組みが、自分だったら、こうするなと思うことを清成が実践している」
と言う。疑似体験、自分がサーキットを疾走している感覚になれる。だからこそ、何が必要なのかと察知できるのだ。
 ライダーに寄り添い、適格なアドバイスが出来るのだ。ヤマハファクトリーとの差は、まだまだあるが、チーム一丸となり、大きな目標に取り組んでいる充実感は、何事にも代え難い。スタッフ全員の目の輝き、緊張感ある動き──それは、プロフェッショナル集団であるワークスそのものだ。
 伊藤は、このチームを、日本から、アジアへと広げたいと言う。才能のあるライダーにチャンスを与えること、それが、先人の務めだからだ。
 

オートポリスで行われた第3戦の第2レースでは、清成がホールショットを奪い、3連勝中のヤマハの野左根航汰、そして中須賀克行をリード。しかし、ファクトリーマシンの壁は厚く2位となった。

 
 伊藤監督率いる「Keihin Honda Dream SI Racing」は、今季、ホンダワークスのいなくなった全日本に、大きな存在感を示した。開幕戦となったスポーツランドSUGO、レース1で清成が2位表彰台を獲得、第3戦オートポリス、レース2で2位となり、最終戦鈴鹿ではレース2、2位と表彰台に食い込む走りでランキング2位となった。渡辺はランキング5位となる。
 ST1000の作本は第4戦もてぎ、最終戦鈴鹿と連続で3位表彰台を獲得、ランキング3位となった。

「目指していたものは優勝であり、チャンピオンという高い目標だった。そこに届いていない以上、納得はしていないが、チーム1年目、スタッフが一丸となり、戦った結果としては、よくやったのではないかと思う。支えてくれたスポンサー、ファンに感謝しかない。来季は、さらなる結果を引き寄せられるように努力したい」
と語る伊藤だった。
 

コロナ禍の2020年のシーズンは終わった。市販マシンでファクトリーマシンに戦いを挑み、目指したのは優勝だった。それは叶わなかったが、伊藤はすでに来年を見据えてるに違いない。

 
 市販マシンを駆るプライベートチームがヤマハファクトリーに肉薄する走りに、誰もが驚愕し、羨望のまなざしで見つめた。最終戦鈴鹿では、昨年のホンダワークスの高橋巧の2分3秒503という驚異のタイムがレコードとして残っているが、清成、渡辺共、2分5秒台に入れる激走を見せ「4秒台」も見えたと語った。清成は2度、渡辺も1度、作本も1度、マシン全損に近い大クラッシュで、ファンを心配させたが、チームはマシンを修復、グリッドに並べた。
 高い目標を掲げ、そこにギリギリのライディングで届こうとするライダーたちの力走、そして、それを支えるスタッフ。それを取りまとめる伊藤の戦いは、ファンの心を鷲掴みに捉え離さない。来季の飛躍を誰もが楽しみにしている。
 

 
追記:伊藤は“角田の星、宮城の星、日本の星、世界の星”へと夢をつなげたライダーだ。シンデレラボーイとしてホンダワークス入り、いきなり最高峰マシンを操る。度胸なんて言葉では、かたづけることのできない挑戦だったに違いない。どんな困難にも真正面から取り組み、伊藤はなんてことないようにこなしてきたスーパースターだ。
 東北人特有の粘り強さと、謙虚さ、真面目さが魅力だが、責任感が強すぎて、頑張りすぎたことで、世界では思うような結果が残らなかったように思う。それでも、世界デビューシーズンから表彰台に登っているのだから、その非凡さは特筆出来るものだ。
 

 
 ミック・ドゥーハンの王者君臨の影には伊藤の力があったと聞く。開発テストをしながらのWGPは、伊藤の中で甘くほろ苦い経験だったように思う。世界チャンピオンになれる力を持ちながら、それを発揮することが出来なかったからだ。
 だが、帰国して肩の力が抜けてからの伊藤の速さは、柔軟性と経験の豊富さで誰も敵わなかった。日本人ペアで初の鈴鹿8耐勝利を成し遂げた。さらに2006年の全日本タイトル、鈴鹿8耐を優勝し、完璧な速さ、判断力、強さは、ものすごいレベルの高い完成度で、伊藤の魅力が最大限に表れたシーズンだった。53歳となった今も、きっと、現役ライダーをしのぐポテンシャルを持ち続けているはずだ。
 

 
 絶体絶命のケガからの復帰劇は、スタッフへの強い思いがあってのこと。世界レベル級に、心優しい人なのだと思う。それは、東日本大震災での働きに表れる。私財を投げ打ち、寝食を忘れ没頭した救援活動は、誰にも真似のできないこと。今も、伊藤へ感謝している人が大勢いる。
 今、その優しさは、ライダー、チームスタッフへと向けられている。
 清成は「シートが合わず、乗り辛いと言ったら、自宅に戻って合うシートを監督自ら探しに行ってくれた。そんな監督は、今まで会ったことがない」と感謝していていた。
 それを伊藤に伝えると「そんなことなんでもない」と答えた。だから、伊藤の周りには人が集まる。伊藤のためならなんでもしたい、と思う人が集まるのだろうと思う。その強い絆はチームのパワーとなって、目標へと確実な歩みを見せることになるような気がする。
 市販キット車が、ファクトリーマシンを超える日、そんな夢物語が実現する日があるのかも知れない。
 でも、ホンダがワークスマシンを用意してくれ、真っ向勝負で挑んでくれることをファンは願ってもいるのだけど……。
(文:佐藤洋美)
 

 


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2020/11/27掲載