高山さんのバイク承前啓後 第54回 本田宗一郎自らデザインし「世界一の車」を目指した「ドリームC70」
1957年に誕生したドリームC70は、ホンダが世界一のオートバイメーカーを目指して、社員が一丸となって取り組んだ製品です。本田宗一郎が自ら考案した「神社仏閣デザイン」は、その後のホンダの製品はもとより、他社にも大きな影響を与えました。
C70と、翌1958年に誕生したスーパーカブC100が高く評価されて、1960年には二輪車生産台数において世界トップメーカーになりました。ホンダの躍進に大きく貢献したC70について、過去のホンダ社報などを参照しながら、その魅力を紐解いていきたいと思います。
【ホンダ独自デザインの探求】
本田技術研究所発行の技術・製品史「Dream 2」の文面を抜粋して紹介します。
「スタイルというものは進歩的にみえて、はなはだ古典的な一面がある。イタリアの製品には、よくそれが感じられる。欧米視察旅行のさいにこのことに気が付いた宗一郎は、日本独自のデザインを求めて、とにかく歴史的遺産や文化を肌で感じようと京都や奈良を訪れ、神社や寺をつぶさにまわった。世界市場に通用する独特な個性を表現したい。それには日本美術のもつ美しさを基調としたデザインを確立すればよいと考えた。こうして神社仏閣をイメージしたデザインが誕生したのである」
【世界に通用する高性能エンジン】
1950年代中期は、スズキとヤマハの2ストロークエンジンの性能が高まってきた時代であり、4ストロークをメインとするホンダにとっては強力なライバル関係でした。250ccクラスでは、1956年にスズキが2気筒エンジンを搭載したコレダ250TTを投入。ヤマハは1957年2月に2気筒のYD1を発売しました。
C70に課せられた使命は、国内ではライバルメーカーの性能をしのぎ、世界に通用する性能とスタイリングを兼ね備えた「世界一の車」でした。本田宗一郎氏が陣頭で指揮をした、最重要機種の位置づけでもありました。
【社運を賭けたドリームC70の開発】
1957年のホンダ社報から、C70の開発の様子がうかがえます。2年有余の研究開発には3億5千万円を投入しました。生産設備では、新規購入溶接機8基、専用機61基、機械治具726点、金型114点、検査治具320点という膨大な量の設備や備品を揃えました。
一方、走行テストは、1日に500キロを昼夜を徹して行い、トラブルを解決しながら完成に至りました。
量産の直前に、社報編集局が本田宗一郎氏にインタビューした貴重な話が記載されています。それによると、C70の全体の構想がまとまったのは前年1956年の8月頃。それから粘土によるクレイモデルを製作。同年12月に藤澤専務と欧州視察に行き、ドイツで世界的な二輪車を調べて「C70でいける」と判断。1957年1月に出図。2月1次試作、6月2次試作、そして9月17日に量産第1号車がラインオフしたとあります。
詳しい開発工程は機密のため、社報ではうかがい知れませんが、構想も含めて2年くらいで、車体からエンジンまで全く新しくて世界に通用するオートバイを生み出したのです。
本田宗一郎氏は、次のように語っています。
「俺は慣れているんだが、みんなもえらかっただろうなあー。研究所の連中も相当骨が折れていると思うよ。俺は、この頭の中に構想ができているわけだが、他の連中は大変だったろうなあー。しかし、工場もこれをやるために切換えには頭をなやましたことも私はよく承知している。工機関係の連中も、C70のために独自の機械を作ってくれたし……それから設備関係でも浜松の工場の人々の協力もあった。又売る方でも後顧の憂いのないように切換えのチャンスを作ってくれたし。このようにみんなが力を結集したことによって始めて優秀なC70もここに誕生することができたのであって、今後とも力を合わせて世界的なものを作ってゆきたいと思っている」
まさに、全社一丸となって取り組んだ様子が分かります。そして、陣頭指揮を執った本田宗一郎氏がそのことに感謝している姿が見えるようです。
ドリームC70で確立した、神社仏閣からヒントを得た日本のホンダ独自デザインは、125ccのC90などにも反映されました。
C70についてホンダ社報では、高速用スポーツ車、商用、連絡用の実用車としても考慮したと紹介されています。本格的な250ccのスポーツ車は3年後の1960年に誕生するドリームCB72に引き継がれる訳ですが、C70に搭載された高性能な4ストロークエンジンは、その後のホンダにとって大きな財産になったのは疑いのないことだと思います。
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