第36回 バイアルスTL125誕生50周年記念 -トライアル活動挑戦の軌跡・6-
【日本初のスタジアムトライアル、ルジャーンとTLR】
1983年1月23日、東京都日野市の多摩テックで日本初のスタジアムトライアル「GPA ’83インターナショナルスタジアムトライアル」が開催されました。
企画から約2か月半という超特急の準備のため、私がセクションの構想から設営までを担当しました。事前に国際B級の杉谷真氏(現自然山通信)にセクション難易度や強度を試してもらったものの、あまりにも難しいセクションを造ってしまったようです。世界チャンピオンのエディ・ルジャーン選手の他に、フランスからランキング5位のテリー・ミショー選手も来日。マシンはSWMという日本ではあまり知られていないメーカーです。日本人選手は、前年チャンピオンの山本昌也選手をはじめ13名が出場。仮設の観客スタンドも完成しあとは観客を待つばかりとなりました。前売り券は都内の二輪販売店を中心に、まずまずの売れ行きと聞いていました。
ゲートオープン前に、セクションの最終確認をしていると、遠くから足音のようなものが聞こえてきました。多摩テックの係員の後には、お客様の列が長く長く続いていました。スタンドは超満員の状態で、入りきれないお客様もいました(その節は誠に申し訳ございませんでした)。世紀の一瞬を見ようと、関西や東北など遠方からも来場してくれました。
トライアルはテスト走行ができませんから、我々運営側も「やってみなければわからない」状態でした。最初のセクションは、スポンサー「GPA」のヘルメットの箱を積み上げたイメージで、サイコロに似ていることから”ダイスセクション”と名付けました。日本人ライダーにとっては、「こんなセクション見たこともないし、どうやって攻略するの?」といった感じだったと思います。残念ながら、日本人ライダーは誰一人としてクリーンに至らず。このままでは、誰もクリーンできないのではと思い始めました。
そんな余計な心配をよそに、ミショーとルジャーンは鮮やかにクリーンしてくれました。特にルジャーンがセクションにトライする前に、バックギアがついているかのようにスルスルッとバックして助走距離を多くとったときには観客席からどよめきが起こりました。これを機会に、日本人ライダーはバックの練習に励むことになります。
ルジャーンの真骨頂は、”NGKスパーク”と名づけたセクションで「エアターン」を披露してくれたのです。我々一部の人は、一週間前の生駒で妙技を見ていたのですが、まさか真剣勝負の舞台で決めてくれるとは思いもよりませんでした。結果、優勝はルジャーン、2位にミショー、3位に山本昌也、4位はTLR200プロトタイプで出場した服部聖輝の各選手でした。
多摩テックでは、もう一つの衝撃が待っていました。ルジャーンの弟、エリック・ルジャーンと欧州チャンピオンのテリー・ジラールによる自転車トライアル(BTR)のデモ走行でした。トライアルマシンでも苦労するセクションを自転車で攻略して見せたのです。世界で活躍するライダーになるためには、BTRから始める事が重要になる時代が来ていたのです。多摩テックで行ったスタジアムトライアルは、さまざまなドラマを残し無事に終了することができました。
私はホッとする間もなく、翌日からはBTRの普及の仕事もいただくことになりました。モーターレク本部には、早くも近藤博志氏などトライアルの販売店から、「BTRを買いたいので何とかしてくれ」という電話が多くかかってきました。エリック・ルジャーンが乗っていたのはMONTESA製のBTRでした。当時ホンダとMONTESAは提携関係にありましたので、早速MONTESA社から100台のBTRをアクトトレーディングが輸入し、モーターレク本部がトライアル有力ショップに販売を斡旋しました。100台のBTRは瞬く間に完売し、追加オーダーに至りました。また、主に大人が乗ったため、ハンドル周りの強度不足のせいか、ホルダーが割れるトラブルもあり、急遽パーツの供給をするなどのフォローもしました。
当時は、もっと多くのBTRを購入したいとの要望もあり、モーターレク本部では、国内の自転車メーカーでの生産を模索しました。モーターレク本部長の吉田さんは、丸石自転車と交流がありましたので、丸石自転車とMONTESAで業務・技術提携が実現できれば、MONTESAのノウハウを反映した国産BTRの販売につながる。そうなれば、多くのファンに適切な価格で提供でき、尚且つBTRの普及活動にもプラスになると考えました。話はとんとん拍子で提携に至り丸石自転車の社員がスペインに赴き、現地で乗り方や普及活動について学んできました。
そして、驚くことに1983年の秋には、「MARUISHI MTR20-U」が49,800円で発売されたのです。BTRの普及活動をモーターレク本部が直接行うわけにいかず、当時国内でBMXの活動を行っていた「日本BMX協会」にお願いし、モーターレク本部と丸石自転車がサポートする体制を整えました。セクション設定や競技方法などは、私がベースを作り提供しました。
第1回のBTR大会は、9月4日にセーフティパーク埼玉(桶川)で行いました。私も手探りでセクション設営やオブザーバーなどのお手伝いをしました。その後、多摩テックで定期的に競技会やスクールが実施されました。多摩テックの大会は、スタジアムトライアル風の人工セクションを設営し、見ても楽しいイベントでした。1984年に多摩テックで開催した2回目のスタジアムトライアルのセクションには、丸石自転車の広告が掲げられました。このように、BTRが身近にトライアルを体験できる種目として、徐々にではありますが、国内に浸透していきました。
【TLR200が発売 たちまち大ヒット商品に】
1983年4月、満を持してTLR200とTL125が発売されました。
TLR200は、服部選手によってワークスマシン並みの戦闘力を実証してくれましたので、保安部品を外しタイヤを替える程度でMFJの地方選手権ノービスクラスに出場する人が急増しました。私もその一人でした。MFJライセンスを取得し、初めて関東選手権のノービスクラスに出場しました。私のアドバイザーは、なんと’80年チャンピオンの丸山選手です。無名のデビューライダーにチャンピオンが直々にアドバイスをするという、公私混同の状態でした。
丸山選手が攻略コースをアドバイスする通りに走れば、オールクリーンです。しかし、私の一夜漬けテクニックでは5点の連続でした。
TLR200は、発売直後から好調な販売で、6月には軽二輪のオン・オフロード車で初の月間1位を記録しました。ロードスポーツのVT250FやRZ250などを抑えての快挙でした。従って、拡販のための普及活動を自ら行うことは少なかった気がします。一方、各地でトライアル入門スクールが多く開催されるようになり、モーターレク本部契約の講師陣は毎週のように飛び回っていました。その講師陣を派遣するのが私の役目でした。
1983年は、イギリスのSSDTにTLR200で出場した服部選手がクラス優勝。世界ではルジャーンが、全日本では山本昌也の両選手が2連覇を果たすなど、ホンダのトライアルにとって収穫の多い年になりました。
同年12月に登場したのが2ストロークエンジンのTLM50です。TL50に比べて、新設計フレームやフロント21インチ、リア18インチの大径タイヤを備えた本格派でした。
1984年は、このTLM50の拡販のための普及活動に取り組むことになりました。ツーリングトライアルの楽しみ方のハンドブックを制作し、支店を通じて全国の販売店に配布してもらいました。本部契約講師陣には、スクールを行うときはTLM50の活用を依頼しました。トップライダーが乗ると、魔法のバイクになるからです。
そして、フジテレビが主催する「国際スポーツフェア」が代々木体育館で開催されると、ミニサイズのスタジアムトライアルのコーナーを作り、バイクファン以外の人たちにも身近にトライアルスポーツを知っていただきました。セクションを作るのは私の仕事です。国際A級の丸山選手が鮮やかにクリーンできる、少し難解なセクションです。本番の前日に、アイデアマンの本部長に呼び出しがありました。
「高山君、どんな状況かね」
「はい。丸山選手が華麗にクリーンできる設定です。お客さんも喜ぶと思いますよ」
「そうじゃないんだ。丸山選手はチャンピオンだから、上手いに決まっている。その凄いテクニックがお客さんには伝わらないんだ」
「でも、他に方法が….」
「高山君は、トライアルライダーだよね。ノービスかもしれないけど、自分が造ったセクションだからある程度走破できるのでは。その後に丸山選手が走ると、違いが分かるから、お客さんはもっと喜ぶに違いない」
そんなやり取りが交わされた後に、翌日から本番です。
デモンストレーションエリアには、解説者がトライアルテクニックについて観客に説明しています。
「さあ、いよいよトライアルのデモンストレーションを見ていただきましょう。初めは、一般的なトライアルライダーからです。一般的と言いましても、日夜訓練に明け暮れるほどのライダーですから、相当のテクニックを持ち合わせています」
さあ、私が造ったセクションにトライします。頭の中ではオールクリーンです。しかし、最初のセクションからつまづいてしまいます。どんなに必死にやっても攻略できません。丸太から落ちるは、台にはあがれず、何とかゴールにはたどり着きました。お客さんには、必死に走っても攻略できない“一般のトライアルライダー”を見て、「難しそうだ」という先入観が与えられました。
そして、全日本チャンピオンの丸山選手の登場です。お客さんは固唾をのんで注目します。丸山選手にしてみれば、片目をつむっても攻略できる難度です。最初のセクションから鮮やかなクリーンです。解説者も盛り上げます。お客さんからは大歓声です。次々と華麗にクリーンし、完璧なゴールを決めますと、会場は拍手喝さいです。本部長は見抜いていました。真剣にやっても成功できないシーンを見せることで
チャンピオンの凄さが際立つと。またしても本部長の策略にはまってしまいました。
ホンダが快進撃を続ける中、ヤマハは1984年6月に公道走行ができるTY250 スコティッシュを発売します。SSDTの大会名称を取り入れるなど、TLR200に比べより競技志向が強い性格でした。
【2ストロークのTLM200R登場】
1985年の幕開けは、3年目を迎えた多摩テックのインターナショナルスタジアムトライアルです。この大会に、服部聖輝選手に託されたTLM200Rプロトタイプは、1日目の競技で3位になる活躍を見せました。空冷2ストロークエンジンに、リアサスはプロリンクを採用。よりトライアル競技志向のマシンになりました。時代は、4ストロークから2ストロークに移行しつつありました。そして、3月にTLM200Rとして発売を開始しました。
TLM200Rは、セクションの走破性には優れていましたが、ツーリングマシンとしては4ストロークのTLR200が支持されていました。そのような中、研究所ではTLR200の後継として4ストローク250ccのトライアル車の開発が進められていました。開発の途中経過を数回見る機会がありました。当初はスリムで軽量なマシンが、時間が経つとどんどん重量が増え堅牢なイメージになっていきました。高速道路の利用を想定すると、仕方なかったのかもしれません。苦労の末に完成したTLR250Rは、1986年4月に発売となりました。
TLR250Rは新設計パーツが多く、TLR200に比べて9万円高になりました。トライアルマシンとしては成功に至りませんでした。私が乗った感触では、林道ツーリングではXL系よりも取り回しが良く軽快かつ豪快に走ることができました。今にして思えば、トライアルよりトレッキングに適したマシンとして展開したほうが支持されたのではと考えます。
このマシンが発売された数か月後に、モーターレク本部を離れ、本社ビルのショールーム“ホンダウエルカムプラザ青山”に異動しイベント企画担当になりました。1979年から7年間のトライアル担当の時代は変化が多く、”日本初”とか”業界初”といった仕事に携わることができたのは、望外の喜びです。
【人工セクションと格闘】
スタジアムトライアルのセクション企画に携わった後は、手軽に運んで組み立てられる人工セクションキットの開発でした。ああでもない、こうでもないと悩みながら、軽トラック1台に積載できるサイズに収めました。もう写真や資料は残っていませんが、1セット30万円くらいで、30セットほどをホンダ関連施設などに売上ました。難易度や強度は、ノービスライダーの私が実験して確認しました。
上の写真は、1985年にホンダ本社ビルが完成し、同年か翌年にウエルカムプラザ青山で行った山本弘之選手とTLM200Rによるデモンストレーションです。私がセクションを設営して解説をしていました。販売したセクションキットは、これよりも小さかった記憶があります。
バイクで楽しんでもらう事を考えてそれを普及することが私の仕事でした。今度は間接的な立場でトライアルに携わることになります。1980年代後半から1990年代は次回で紹介させていただきます。