第35回 バイアルスTL125誕生50周年記念 -トライアル活動挑戦の軌跡・5-
【イーハトーブと普及活動】
1981年4月、待望のイーハトーブが発売されました。同年3月に発売されたトレッキングバイク「シルクロード」に続く第2弾でした。バイアルスTL125の後継モデルは、トライアルのイメージではなく、野山をゆったり駆け巡るトレッキングバイクとして登場したのです。
※カタログなどの資料は個人所有のため、汚れなどがありますがご容赦ください。
モーターレク本部では、イーハトーブによる林道ツーリングトライアル「イーハトーブミーティング」を提唱しました。岩手県で開催されているイーハトーブトライアル大会と混同されないようにロゴをあしらったステッカーを作成し、楽しみ方マニュアルと一緒に、各支店に供給しました。
イーハトーブが発売されると、トライアル車の復活を待っていた販売店さんがものすごい勢いで注文してくださいました。多くのお客様は、トレッキングマシンというよりトライアルの入門マシンとして購入されていました。そのような背景から、モーターレク本部契約のトライアル講師陣にイーハトーブを貸与して、トライアルスクールなどのイベントでは、イーハトーブでもデモンストレーションをしてほしいと依頼したのです。丸山選手や小谷選手といったトップライダーが操ると、ノーマルのイーハトーブが信じられないポテンシャルを発揮するのです。
それを象徴する出来事は、1982年のイーハトーブ2日間トライアルでした。TY250を駆る最強の加藤文博選手と、イーハトーブを駆る小谷重夫選手の激戦でした。二人はともに全日本トライアルで戦うトップレベルの選手です。2日間合計で減点2の小谷選手が1点差で加藤選手を勝り優勝したのです。この大会は、どちらかと言えばレクリエーションの要素が大きいのですが、乗る人が乗れば凄いことができることを証明してくれました。
イーハトーブで試みたゲームがあります。埼玉県のセーフティパーク埼玉で行ったモーターレク本部主催のバイクイベントで行った「モトリンピック」です。
この会場はモトクロス場なので、トライアルを出来る場所ではありません。それならば人工セクションを造って、見る楽しさも加えたタイムトライアルにしようと。トライアルの減点も採点しますが、ゴールまでのタイムも採点の対象にしました。新しい試みなので、気持ちは大きくオリンピックから少し拝借して「モトリンピック」と名付けました。
イーハトーブは、発売後約1年で、年間販売計画台数4,800台の2倍にあたる9,000台を売上ました。研究所も本社の営業部門も予想を大きく上回るものでした。研究所では、イーハトーブ発売直後の好感触から次期トライアルマシンの企画がスタートしたのです。
【TLR200プロトタイプのPRに参画】
1982年の秋に研究所から相談を持ち掛けられました。開発中のトライアルマシンのポテンシャルをPRするために、モーターレク本部契約の服部聖輝講師にトライアル全日本選手権の最終戦に出場させたいというものでした。服部講師は、ヨーロッパのトライアル事情を日本に伝える役割として、世界選手権に出場していました。本人の了解のもと、次期トライアルマシンのデビューが水面下で動き出しました。
そして、1982年11月7日に山形県の栗子国際スキー場で開催されたトライアル全日本選手権日本GPに服部選手とTLR200のプロトタイプが電撃出場したのです。当然、マシンの排気量や車名など詳細は明らかにされていません。
この年の9月にHRCが設立され、契約ライダーの山本昌也選手はすでにシリーズチャンピオンを決めています。観衆の興味は、チャンピオン山本選手にヨーロッパ帰りの服部選手がどのように挑むのか。ホンダが用意したプロトタイプの実力はいかに。私も詳しいことを知らされていません。服部選手のライディングは、実にスムーズで足を着いたときは失敗ではなく事前に計画していたようなライディングでした。
結果は、HRCのRS250Tを駆る山本選手が優勝。服部選手は慣れないプロトタイプで堂々の2位入賞です。本人は優勝を狙っていたと思いますが、ナンバー装着の市販車ベースのマシンでの2位ですから研究所スタッフは大いに自信が持てたと思います。研究所がもくろんだプロトタイプのPRは成功したのです。
【エディ・ルジャーン選手の来日とスタジアムトライアル】
日本GP終了後、服部講師が原宿本社にヨーロッパのトライアル事情を報告に訪れました。ヨーロッパでは、人工セクションを設営したインドアトライアル大会が人気がある事などを聞きました。その時に信じられない話を聞いたのです。
「高山さん、バイクでもいけないようなセクションを、子供たちが自転車でクリアしている。そんな大会があるんだよ」
想像しても浮かばない光景です。その時は聞き流したのですが、私が自転車トライアルの普及に関わるとは思いもよりませんでした。
この頃、モーターレク本部ではホンダのトライアルマシンで初めて世界チャンピオンを獲得したエディ・ルジャーン選手を招聘して、イベントを企画していました。この年1982年は、日本で初めてスーパークロスが後楽園球場で開催され、衝撃を与えました。モータースポーツ界に黒船来襲とも言われたほどです。トライアルイベントも、観客が集まりやすい市街地で行わないと理解者は増えない。という環境になっていくのは容易に考えられました。その動きは、風雲急を告げるように突然決まりました。
「高山君、スーパークロスのように都心でトライアルが見られるイベントを企画しなさい。エディ・ルジャーンの来日交渉は進めているから、日本の選手を集める事、そしてヨーロッパのようなインドアトライアルにしなさい。新しいイベントをする時は、新しい人材が必要。第一広告社の岩城さんは、今までのレースイベントとは違うアイデアを出してくれるはず」とモーターレク本部長の指示があり、岩城氏が会場の候補地選定やスポンサーの獲得、ポスターや入場券の制作と販売方法などのソフト面を。私が人工セクションの設計と設営、選手の招聘や費用計画などを担当することになりました。
約2か月間で全ての事をやり遂げる一大計画がスタートしました。会場は、東京晴海の国際貿易センターを確保しました。当時の日本では数少ない屋内展示場で、東京モーターショーの会場としても広く知られていました。この会場を管轄している消防署に出向いて、実施計画書を提出。現場での打合せも行って、行政の許可もいただきました。そしてポスター案が出来上がってきました。国際貿易センターのドーム型の屋根をルジャーン選手が走っているイラストでした。
そんな中、警視庁のとある部署から「イベントの概要を説明して欲しい」との要請があり、企画書を持参して伺いました。警視庁としては、大きなバイクイベントを開催すると暴走族が集合する危険があるとの見解でした。トライアルは、全国白バイ大会の正式競技としても採用されていますので、そんなことはあり得ません。しかしながらモーターレク本部長の判断は、「大会までには1か月しかない。警察行政と交渉しても時間が過ぎるだけ。晴海の会場はあきらめて、別の会場にするしかない」というものでした。本部長は、すぐにどこかに電話をした後に「高山君。多摩テックにすぐに行ってください。多摩テックが引き受けてくれることになった。だが、セクションとか観客席などは現地で相談しなさい」
その日から、私の出勤先は原宿本社ではなく、日野市の多摩テックになりました。
1982年はあわただしく過ぎようとしていた年末、「大阪支店から強い要請があり、年明けにバイアルスパーク生駒でルジャーンのデモ走行イベントをやることになった。そしてルジャーンのテクニックを収録したビデオ撮影もやるから、手伝いに行ってきなさい」という指示。多摩テックのスタジアムトライアルの一週間前というタイトなスケジュールでした。関西地区の人たちは、”日本のトライアルのメッカは関西”という自負がありましたので、世界チャンピオンを最初に見るのは関西でなければ気が済まなかったのです。
1983年1月、新幹線でルジャーンファミリーと一緒に奈良県のバイアルスパークに向かいました。イベントの前に、HONDA SOUNDというビデオマガジンの特別号になるルジャーン選手のテクニックを撮影。そして翌日に「新春スペシャルトライアル」と題したルジャーン選手のデモンストレーションイベントに参画しました。すべて大阪支店が準備してくれましたので、私は見ているだけです。解説は、近藤博志氏が担当。全日本チャンピオンの山本選手をはじめ服部選手など国際A級のトライアルライダーも駆けつけました。
生駒で衝撃的なエディ・ルジャーン選手のテクニックを見たあと、私たちは1週間後に迫ったスタジアムトライアルに備え、多摩テックで最後の仕上げに取り掛かりました。入場券はまあまあの売れ行きと聞いていますが、果たして天気が味方してくれるのか、セクションの難度は高すぎないかなど、悩みは尽きません。
次回は、日本で初めて開催したスタジアムトライアルからTLR200やヤマハのスコティッシュの登場で第2次トライアルブームと呼ばれた1980年代を紹介させていただきます。