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第二次世界大戦に敗戦後、1950年代半ばから急速な経済成長を遂げた日本。1960年代になると力を付けた国内二輪メーカーは世界市場、特に巨大なマーケットである北米への輸出を本格化すべく試行を重ねた。今日では押しも押されぬ大排気量メーカーのカワサキだが、北米において初めてシカゴに駐在事務所を開設したのは1965年7月。この年の10月、待望の大排気量車W1が完成、いよいよ北米輸出に本腰を入れ始めた。これは、そんなカワサキの海外展開黎明期に単身渡米したサムライ、種子島 経氏の若き4年間の日の奮闘の物語である。この経験が、後にマッハやZの誕生に大きく関わるのだが、それはまた別の物語である。

※本連載は『モーターサイクルサム アメリカを行く』(種子島 経著 ダイヤモンド・タイムス社刊・1976年6月25日発行)を原文転載しています。今日では不適切とされる語句や表現がありますが、作品が書かれた時代背景を考慮し、オリジナリティを尊重してそのまま掲載します。

ケンカ加藤氏のこと

 京都スキヤキは、ガーデナのウェスタン通りにある。英語だけの生活に食傷気味の時、女たちを日本語でからかうのが主な目的で、よく出かけたものである。
 一夜、妻が送ってくれた浴衣にゴムぞうりを突っかけ、冷や奴かなにかで輸出用防腐剤の味が舌に残る日本酒をやっていると、いきなりえり首をつかみ上げられ、「こっちに来い」とやられた。
 座敷に放り込まれて眺めると、真っ黒に日焼けした頑丈そうな老人が、カンカンに怒っている。
「こらあ、お前それでも日本人か」
 女たちのとりなしなど歯牙にもかけず、目をパチクリやってる私をにらみすえて、
「一体全体、ここをどこと思うとる」
「ここは京都スキヤキ」
「馬鹿もんっ。ここはアメリカじゃ。お前、アメリカの食堂におるんぞ。それを、浴衣がけとはなんごつかい。見てみ、わしらでも、外で飯食う時は、たとえ古うても、アイロンのきいたホワイトシャツ着とるじゃろうが。よそん国い来て、浴衣がけで酒飲むような甘ったれがおるけん、近頃の日本人は馬鹿にされるんじゃ」
 一理ありと見て頭を下げると、途端に老人は上機嫌になった。
「まあ飲め。おい、この刺身食えんぞ。トロ持って来い。こらあ、もっと威勢よう飲まんかい」
 女たちの話では、彼は「ケンカ加藤」とてガーデナ名物男の一人だという。若い頃は米国人相手の豪快なケンカで鳴らしたが、今ではメキシコ人などを使って手広くガーデナー(植木・庭師業)をやっており、それも実際は息子たちにまかせ切って楽隠居の由。それでも、月に一度ぐらいは血が騒ぐのか、こうやって京都スキヤキで飲み散らし、挙句の果てはタクシーを呼ばせて(オヤジ飲むなと見た日は、子供たちがすべての自動車のキーを隠してしまうため、タクシーで移動せざるを得ない。これは米国、特にロサンゼルス界隈では、恐ろしい物入りなのである)ハシゴ酒をやらかす。ケンカ加藤氏は、私の三倍以上のピッチで、飲み、食らい、そして語った。
「農業じゃ食えんけん、新聞配達もやったこつがある。ハーレイという大きなオートバイに乗ってなあ……。ほほう、ハーレイは今でもあるかい」
「戦前の苦労、戦争中の収容所での苦しみは、お前なんかに話してもわかりゃせん。わしも、好きでケンカしたつじゃなか。白人が、わしたちばあんまり馬鹿にしていじめるもんじゃけん、我慢に我慢の末手を出したつばい」
「最近、日本から出て来よる連中は、ありゃなんや。ゼニも持たんくせに、車と服だけはアメリカ人並みに張り込みよる。こげん所でも、自分たちばっかり集まって、東京弁でしゃべくりよる。わしたち移民にはハナもひっかけよらん。どげんつもりかね、一体。
 わしたちが、いじめられながら、永年月かけて築き上げた日本人の信用というもんがあるけん、連中もアメリカで商売になるし、家やアパートも借りらるっとじゃろが。それば、なにかい。わたしたちば、黒んぼんごつ思うとる」
「連中は、どうせ二〜三年で東京に帰るつもりじゃけん、アメリカんこつなんか、勉強する気もなか。そこでわしたち日系人の中でおとなしかやつば雇うて、雑役ばやらしよる。
 そらあ、よか。わしたち一世、二世も、そげん形で日本の会社のお役に立つならばよか。ばってん、連中の、日系人雇い人に対する態度や物の言い方には、随分頭に来とるばい」
「お前もなにか、大学出てサラリーマンやっとる口か。ふーん、その割にはマシな方ばい。年寄りの言うこつば聞くけんな。さあ、席かえて飲み直すぞ。タクシー呼べ」
 私が、「明朝早く約束がある」と断わると、
「そうか、若かうちは仕事が第一」と、素直に一人で出て行った。
 女たちに感謝された。最近はケンカ加藤氏の昔の仲間にはここまで飲みに来る元気がないし、日本人の勤め人諸氏は絶対相手にならないしで、彼氏すこぶるさびしく、女たちの一寸したミスで癇癪を起こすことが多かったのだが、今夕は私のためか、まことにご機嫌だったというわけである。
 後に、事務所のまわりの樹木の手入れを頼みに同氏を訪問したことがある。彼は、畳敷きの部屋で日本民謡のレコードを聞いていたが、
「そげんこまんか仕事ならば」
と、若い二世を紹介してくれた。

京都スキヤキの女たち

 京都スキヤキの女たちには、日本でGIと結婚して出て来た人が多かった。例によって女に飢え切っている私は、
「アイウオ順に口説いたら」などとけしかけられ、朝ちゃんから始めた。
「家に遊びにおいで」と誘われて、ホイホイ出かけたのはいいが、可愛い混血坊主にすっかりなつかれてしまい、こうなっては色も恋もあり得ないのである。この手の利口な女は、米国人のダンナをガッチリ握り、チップを手堅くため、機を見て独立してしまうもので、現にこの朝ちゃんなども、さる板前を引き抜いて、サッサと寿司屋を開いた。
 花ちゃんとの話はもっと傑作だ。
 家に行ったところ、ダンナが熱狂的なモーターサイクルレース・メカニックで、六五〇CC W1に関する質問をリストアップの上、手ぐすね引いており、素手で応答しかねた私は、パーツブックとショップマニュアルを取りに帰る騒ぎ。なんのことはない、日曜日一日、ダンナに遊ばれて終わった。
 花ちゃんも独立して食堂を出したが、どうもそっちの才能には乏しかったのであろう、先日、ロサンゼルス空港の食堂でウエートレスをやってる彼女に再会、びっくりしたものである。
「自分で店をやるのはこりたし、昔のガーデナ仲間に使われるのはいやだし」というので、こんなことになっているのであろう。「長女はもうロングビーチ大学に行っとるねん。自動車買うたらんならんし、大変や」と、それでも誇らし気であった。
 彼女らは、戦後のドサクサの中、日本と米国とでかなりの経験をしながら、現在の生活を築いて来たわけであり、なまじっかな男なんて比較にもならない土性骨の太さがあって、まことに面白い友人たちである。
 反面、ダンナに捨てられ、調子のいいことばかり言い続けてきた日本へはいまさら帰れず、かといって店を出すような甲斐性もなく、まともな男にはもう相手にしてもらえず、というような絶望的な女性群も数多い。
 彼女らは、ジゴロ的男どもに、稼ぎためたチップを貢ぐことを生き甲斐にしようとしているのだが、老後の社会保障が乏しい米国で、しかもそのほとんどが日本国籍のまま、どう老い朽ちていくのであろうか。

愛日家の元GIたち

 一夜、京都スキヤキのバーで飲んでいると、スズキのTシャツを着た大男が隣に坐った。女たちとは顔馴染みらしく、片言の日本語の冗談をとばし合っている。
 打ちとけてみると、GIとして日本各地に五年駐在、日本のオジョーサンとしか結婚せぬ決心で、三十歳の現在まで独身という御仁、その名をビルという。
「オジョーサンはここにもいくらでもいるではないか」
 飲物、食物を持って右往左往している連中を示すと、「あれはオジョーサンじゃない。オレは知ってるんだ」とニヤリ。
 土曜日の夜でもあり、誘われるままに彼の家に向かった。
 ペロセッティ五〇〇CC単気筒という古典的モーターサイクルをすっ飛ばす後から、酔っ払い運転で従うこと三十分。ビルの家は、リドンドビーチの海を見下ろすいい場所にあったが、家そのものはオンボロもいいところだった。
 ベロのエンジン音に、三人の男が出てきた。
 第一の男は、「ボク、ジョーンです。よくいらっしゃいました」と、流暢な日本語であいさつし、私の度肝を抜いた。
 第二の男は、つい最近オレゴン州から引っ越して来たそうで、「オレゴンでは、よくダートレース(凸凹砂地のレース)で走ったが、カワサキはなかなか速かったぜ」と話しかけてきた。
 第三の男は、極めて無口で、黙って手を握っただけだった。
 彼らはGI仲間である。共通の話題は、日本とモーターサイクルである。ただし日本製モーターサイクルを持っているのはジョーンだけで、ほかはいずれも古典的欧州車の難物を、部品に苦労しながら楽しんでおり、ビルなどは「ホンダ、ヤマハはモーターサイクルではない。あれは子供用のバイクだ」と明言していた。
 六十歳近いビルのオヤジさんも参加して、庭でバーベキューとビールのパーティが始まった。日本の話、モーターサイクルの話、女の話……。彼らはいずれも日本で中流以上と思われる家庭に出入りしており、パンパンや兵隊相手のバーだけではない面を知った上で、日本を愛しているのだった。
 ビルなど、日本滞在中、休暇をためにためて二ヵ月まとめてもらい、ヤマハの二五○CCで本州を隅から隅まで走り回っており、ボロボロの日本地図でその行動軌跡を説明してくれた。
「次は九州と四国、その次は北海道をやる気だったんだが、ヤツら、帰国命令を出しやがって」
 ジョーンは日本語学校に二年間通って、日常会話にはまず不自由なかった。
 オレゴン州の大将は、帰国後三年以上にもなるのに、いまだに日本のガールフレンドと手紙の交換を続けている。
 無口な男は禅にこり、その探究に一身を捧げたい意向である。
 彼らは、日本と日本人が好きでたまらない。独身主義者たる禅宗男を除いては、日本女性以外との結婚は考えず、結婚して日本で暮らすのが夢である。
 出征前の彼らは、貧しい少年であった。帰国後も、工員などでピーピーしている。だが、日本では、衣食住すべてタダの上に、日本の生活水準からすれば法外な小遣い銭を与えられ、使いまくって、それでチヤホヤされていたのであり、彼らの日本恋しさの一面は、この点にもあるのであろう。
 しかしながら、今度行くとすれば飛行機代からして自前であり、オジョーサン獲得のためには、相当の生活水準を維持せねばならず、彼らとしても慎重にならざるを得ないのである。その日のために、彼らは一生懸命貯金しようとしている。
 京都スキヤキのような、日本の社用族が幅をきかすところでは、精々キリンビール一本だけでねばって、女をからかう。日本食は、その辺の飯屋で、カレーライスや月見うどんをやるのである。
 それでも彼らが、日本までの飛行機代と、日本で定職につくまで相当期間を支える生活費とを貯め込むのは、なかなかむずかしそうだった。米国では高校卒の工員に過ぎない彼らが日本で就きうる「定職」も、オジョーサンとの兼ね合い上、問題であろう。
 かくて、彼らの日本への夢は難問含みであり、遂に夢で終わる可能性大なのだが、いずれにせよ、日本占領という事態が、米国のあちこちにかなりの数のこの種愛日家を作り出したことは事実である。

ロサンゼルス=モーターサイクル屋人生

 ベーカースフィールド、フレズノの北カリフォルニアに続き、南カリフォルニアの販売店回りを始めた。
 最初にロサンゼルス空港近くにある西部代理店のディーラーの一つである「ビル・クラウス」を訪問したのだが、店の前を三回も四回も通り過ぎた後、やっと飛び込んだ。
 北カリフォルニアでの惨めな経験から、こんな立派な店でカワサキを売ってるはずがないと思ったのである。
 飛び込んでみれば、そこは確かに「ビル・クラウス」で、ホンダで埋め尽くされた店の片隅には、カワサキのF1一七五CCが二台置いてあった。
 ビルは自動車レーサー上がりで、もともとは四輪をやりたかったのだが、四輪をやるには資金不足なので、ホンダを売っているという。陳列フロア、部品庫、修理工場など、まことに立派であり、ベーカースフィールドの店など、足元にも及ばない。掛けている金の単位が違う感じである。もっとも、これがロサンゼルス界隈での一流販売店のレベルであることをすぐ知るようになるのだが……。
 ビルのコメントは極めてはっきりしており、また後でわかったのだが、これはいわゆる一流販売店の代表的意見なのであった。
「カワサキのマシンはよろしい。店の連中と、部品一点一点に至るまでバラしてみたし、乗ってもみたが、立派なもんだ。この面での競争力は一応ある。ただしヤマハ、スズキに対する商品特性をはっきりしなければ、大きく伸びることはできないが………………。
 ところで問題は西部代理店だ。ホンダとはくらべものにもならない。技術、部品、広告宣伝などの面でわれわれのような一流販売店を指導することなんかできはしない。
 私のビジネススケールは西部代理店の五〜六倍あるし、私以上の規模の店がこの辺だけで十店はある。それがホンダやヤマハを本当に売ってるんだ。われわれは自分の五分の一、六分の一の代理店にはとてもつかないね。カワサキにやる気があるんなら、ホンダのように工場が出て来ることだよ。ホンダのように販売店をバックアップし、そして特徴あるクルマを出してくれるのなら、よろこんで売らしてもらおう。モーターサイクルは昨年、今年こそ不景気だが、なあに今言ったやり方で出て来るんなら、まだまだ割り込めるさ」

 ロス周辺には販売店が密集しており、一日に三軒も四軒も回れた。
 北カリフォルニアのようなつまらん店もあったが、概して店にも部品庫、修理工場にも十分金を掛けて、モーターサイクルショッブとしての体をなしており、「われわれこそ米国モーターサイクル業界の中心だ。売る方はまかしとけ」といった誇りと自信がうかがわれた。
「ロングビーチ・トライアンフ」のノームは、
「モーターサイクルのよさはトライアンフボンネビル六五○CCに尽きる。あの味を生かして速いクルマを作れ」と言ってくれた。彼のこの忠告は、後に五○○CC三気筒のマッハⅢを企画する際、大いに利用させてもらうことになる。
 彼の店では、奥さんが帳面つけをやり、長男が販売、次男が部品のそれぞれ見習いをやっていた。
「ボクたちはモーターサイクルの中で育った。モーターサイクルを食い、モーターサイクルを呼吸して育った。ボクたちはモーターサイクルが大好きだ。モーターサイクル屋以外の人生は考えられない」というのが、高校を出たばかりの次男坊の言葉であり、両親と兄とは、それをニコニコ聞いていた。
 私は、「この市場は伸びるぞ」と強く感じた。
 かつて日本国内の代理店、販売店を回った時、そのオヤジさん連中が異句同音に述懐していたのは、「とうとう四輪に乗り替えるにも失敗したし、ま、私はモーター屋で終わってもしょうがないと思ってんですよ。だけど子供はモーター屋にはしたくない。彼らにもその気はないしね。だから、無理してもみんな大学にやってるんです」だった。
 私が国内市場を見限った大きな理由の一つはこの言葉であり、同じ発想において、「米国市場はいけるぞ」と思ったのであった。(続く)

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著者紹介
種子島経(たねがしま おさむ)
昭和10(1935)年福岡に生まれる。33年東京大学教育学部卒業。昭和35(1960)年同大学法学部卒業、同年川崎航空機工業(現川崎重工)入社、今日に至る。その間39年よりモーターサイクルに関係し、国内営業、輸出を担当した後、昭和41年〜44(1966〜1969)年米国駐在。帰国後はモーターサイクルの製品企画、販売企画等を担当。昭和48(1973)年に発売を開始したZ1に大きく関わった。

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2025/03/19掲載