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若井伸之の生涯

フラミンゴ(flamingo)はアフリカ、南ヨーロッパ、中南米の塩湖や干潟に生息する。塩湖やアルカリ性の湖といった特殊な環境に適応しており、数千羽から百万羽程度の巨大な群れを形成する。フラミンゴという名前はラテン語で炎を意味するflammaに由来しているとされる。

1980年代後半から1990年代初頭、ロードレースが華やかな輝きを放っていた時代を若井伸之は生きた。180cmと長身で手足が長く痩せていた。その身体を折りたたむようにGP125ccマシンに密着させ、激しいコーナリングを見せ、イン側の肘や膝を擦った。その姿が優雅なフラミンゴのようだった。

今も、スペイン・へレスサーキットの1コーナーアウト側に、若井の死を悼み、フラミンゴの像がたっている。

■文:佐藤洋美 ■写真:竹内秀信、Kanna Wakai

第5戦イタリアGP・ムジェロ

 1992年ロードレース世界選手権(WGP)を巡るライダーたちは、第5戦イタリア、ムジェロ・サーキットへと移動した。ムジェロは美しい谷間にレイアウトされ、大小さまざまなコーナーがある。なだからに起伏しているコースのメインストレートではGP500ccマシンならトップスピードは300km/hを超える。

 若井伸之は、そのストレートで他車に引っかかって、コンクリートに激突する大クラッシュを経験する。幸い大きなケガとはならなかったが、モニターに映し出された転倒シーンを見て、ブルーノ・カサノバがパンツ一丁で若井のピットへと駆けつけ「若井は大丈夫か?」と聞いた。

 ムジェロでポールポジション(PP)を獲得したのは母国GPに燃えるエンツィオ・ジャノーラ、2番手には最終セッション間際にベストタイムを2秒も上げた坂田和人が浮上した。上田昇は9番手、若井は転倒の影響もあり10番手にも届かず17番手からの追い上げとなる。

 決勝のホールショットはダーク・ラウディス、坂田はスタートで遅れて8番手でオープニングラップを通過、だが3ラップ目にはマシントラブルでリタイアしてしまう。

 ジャノーラは後退し、追い上げてきたホルヘ・マルチネスとファウスト・グレッシーニのトップ争いに上田が追いつく。だがグレッシーニがトラブルでペースダウン、そしてブルーノ・カサノバが接近し、マルチネスとの首位争いを繰り広げた。3番手にジャノーラ、その後方で上田とラウディスが4位争いを展開。マルチネスがコースオフし、それを避けきれなかったカサノバもコースアウトで転倒、トップに立ったのはジャノーラで2位にラウディス、3位上田となった。若井は10位まで浮上した。

 GP1はミック・ドゥーハンの連勝がストップし、ケビン・シュワンツが勝ち、GP2はルカ・カダローラが勝利する。

ムジェロ
ムジェロにて。Kanna撮影。

第6戦ヨーロッパGP・カタルニア

 WGP第6戦ヨーロッパGPはスペイン・カタルニアで行われた。ヘレスと同様にF1開催を目的として施工され、この年が初開催だった。近代的なサーキットで観客設備が充実しており、一定の半径を持つ長いコーナーがあるのが特徴で、高速スピードを競いブレーキングの妙技も楽しめるトリッキーなコースとなった。突っ込み勝負より、脱出速度を上げる走りとセットアップが求められる。
 だが、四輪レースの影響もあり路面はバンピーで、さらに埃っぽい土地柄で、強風が吹くと路面に埃や砂が出るためグリップの低下を招く。抜群のシャーシバランスとリズミカルなライディングが要求された。

 強風が吹いた予選1回目、坂田は転倒、右足踵にクラックが入るケガを負い、その後のスケジュールをキャンセルせざるを得なくなった。エンツィオ・ジャノーラが絶好調でポールポジションを獲得し、決勝でもホールショットを奪いレースをリードした。チームメイトのガブリエル・デビアを待ち2台で後続を引き離し、手で合図を送りながらポジションを入れ替えスパートして1、2フィニッシュを飾った。3位にグレッシーニが入りイタリア人が表彰台を独占した。上田は8位、若井9位でチェッカーを受けた。

 GP2決勝ではレース序盤、清水雅浩とウィルコ・ズィーレンベルグが接触転倒。ズィーレンベルグは鎖骨と足を負傷してしまう。そのピンチヒッターとして若井に白羽の矢が立つ。レース終了後にテック3のチームオーナーで監督のエルヴェ・ポンシャラルは若井の元を訪ねた。

 ポンシャラルは若井の才能を高く評価するひとりで、前年末のヨーロッパイベントで若井を起用している。ポンシャラルは親日家で、遠い異国の地から情熱だけを頼りに世界GPに挑戦する日本人たちを気にかけてくれていた。

 WGP参戦2年目となり若井、坂田、上田の絆は固いものになっていたが最初から仲が良いわけではなかった。上田は飛ぶ鳥を落とす勢いでGPに参戦を開始し、体制的にも若井や坂田より恵まれていた。坂田は口には出さなかったが、上田に負けたくないと強い気持ちを持っていた。だから、1991年シーズン序盤はパドックで会っても口をきいたことがなかった。

 だがGPのインターバル、夏休みに3人はフランスのラバンデュで過ごすことになる。間に立ったのは若井だった。

 ポンシャラルの目に若井の走りが目に留まったのはイタリア、ミサノテストだった。トップライダーたちと共に精力的なテストを繰り返していた若井の長い手足を折りたたむように走る独特のライディングフォームが目を引いた。ここからポンシャラルと若井の付き合いが始まる。「ポンちゃん」と日本人から愛称で呼ばれるほどに日本人たちと親密になるポンシャラルのチームの本拠地がフランスの地中海沿いのニースに近いラバンデュにあった。

 ポンシャラルは「そこで、夏休みを過ごさないか」と若井を誘ってくれたのだ。若井は坂田と上田にも声をかけた。夏休みだからといって帰国する金銭的な余裕もない坂田や上田には魅力的な話だった。スタッフたちと連れ立って日本人村の住人たちはラバンデュを目指した。

 ラバンデュには綺麗な海と美味しいレストランがあった。何より、自然に触れることが出来るのは、彼らにとって最高の休日だった。凪いだ海からの優しい風が3人を素直にしてくれた。

 若井は「俺らは同じような境遇なんだし、仲良く相談してやっていこうぜ」と提案した。その誘いに坂田も上田もうなずいた。事実、才能も速さもあるとはいえ、GPの厳しさに打ちのめされ、3人とも背に腹は代えられないところにいた。若井や坂田は、準備不足やテスト不足、知らないサーキット、慣れない環境で自分たちの力を発揮することが出来なかった。上田も日本GP前の入念なテストで積み上げた貯金もなくなっていた。ヨーロッパラウンドにきて、ライバルたちのマシンが熟成されていくのに……だ。彼らのマシンは、現状維持するのさえ難しいところにさしかかっていた。振り返る過去のデータもなく、一発勝負でトライ&エラーをいたずらに繰り返していた。その見えない厚い壁を打破するためには、力を終結するしかなかった。

 坂田は振り返る。

「2年前から若井のことは知ってはいたが、上田との間を取り持ってくれた。転倒続きの自分に上田の元気と運を吸収させたかったのだと思う。この年の厳しさは壮絶だった。慣れない海外生活、思うようにならないレース。たくさんのストレスにさらされていた自分たちが、この生活を乗り切ることが出来たのは上田、若井との間に出来た信頼の絆だった。それまで、そんな力があることを俺は知らなかった。自分以外のライダーはライバルだと思って来た。それ以上の付き合いを教えてくれたのは若井だった」

 上田も言う。

「若井君は喜怒哀楽が激しく、すごいオープンな性格で、この性格に僕も影響された。普通レーシングライダーはセッティングなどに関して秘密主義。それなのに、若井君は走り方やセッティングをいろいろと教えてくれた。だから、若井君、坂田君と3人で力を合わせて各地のサーキットを攻略していくことができた。すごく楽しくて充実したシーズンを過ごすことが出来たのは若井君のおかげ」

 この夏を境に3人は一緒にコースを歩くようになる。

「ここは何速、ここから2速で引っ張って、こっちをロングでつなぐ」と坂田が言えば
「いや、そうすると次のアプローチがきつくなる」と上田。
「OK、もう一度、シミュレーションしてみよう」と若井が調整役だ。

 3人は、もう一度振り出しに戻って考え直す。コースを歩き疲れると、誰かのモーターホームに集まり、コース図を見ながら話し続けた。それは時に真夜中になることも多く、そこからメカニックに伝える。ミッションを組み替え、ギア比を検討しエンジンをバラす。終わるのは夜中の2時や3時になることも多かった。

 予選が始まるとスリップを使いあう。何度か繰り返すうちに「あ、うん」の呼吸が出来上がってくる。その時どきで、エンジンが走っているライダーが先導する。コースレイアウトに合わせて3人は乱舞するようにスリップを使い合いタイムを伸ばした。タイミングをはかり手で合図する。グリッドは、ひとつでも前がいいに決まっている。そんなふうに相手の走りを観察することで、自分のウイークポイントや、武器に気がつくことも多かった。絶対にひとりで走っていたら、この荒波のようなGPの大海を泳ぎきることなんて出来なかった。
 
 そうやって磨いた若井の走りが再びポンシャラルの気持ちを動かしたのだ。

「若井、坂田、上田は元気があり才能あるライダーたちだと注目していた。その中でも若井はライディングセンス、セッティング能力が非常に高いと感じていた。将来、大きく伸びるライダーだと見ていたんだ。1991年のオフシーズンにはカタルニアで開催されたプレステージに参戦してもらった。候補ライダーは何十人もいたが、今回も若井に走って欲しかった」

 ディディエ・ド・ラディゲスや昨年までスズキのワークスライダーとして250を走っていたマーチン・ウィマーが名乗りを上げたにもかかわらずポンシャラルは若井を選んだのだ。

1992年バルセロナ
1992年バルセロナ。ポンちゃん、オファー前。みんなそれを言いだすのをドキドキして待ってるところ。

 誘いを受けた若井は所属チームのモトバムのオーナー監督、池沢一男に国際電話をかける。支援してもらっているスポンサーに了解をとるには急すぎる参戦だった。

 シリーズ戦を戦っている以上「GP3に専念してほしい」というのが答えだった。モトバムはホンダの老舗チームであり、ポンシャラルチームがスズキ車両を使っていることもネックだった。池沢は「NO」の返事をしている。だが、若井は引き下がらなかった。そんなことは若井にも分かっていた。

「GP3もきっちりと結果を残す走りをする。決して影響が出ないように頑張る。わがままなお願いをしていることは充分に承知している。でも、このチャンスを掴みたい。他のライダーにもっていかれるのは嫌だ」

 若井の懇願に、最終的には池沢が根負けした。

 各関係者に連絡を入れツナギの発注やらバタバタと準備が進んだ。GP2参戦が決まりチームはフランスでのテストを1日作ってくれた。若井はフランスの地方サーキットで初めてのワークスマシン、スズキRGV-Γに跨った。感触を確かめるだけの時間しかなかったが、サーキット入りする前にスタッフとの顔合わせが出来、ポジションを確認できたことは大きかった。

 「若井GP2参戦」のニュースは瞬く間に世界中を駆け回り日本のメディアでも大きく取り上げられることになった。全日本ロードレース選手権でもWGPと同じラッキーストライクスズキが始動していたこともあり関心度が高まった。

 GP2はWGP最高峰クラスであるGP1の候補ライダーが参戦、各国のスペシャリストが集う。ワークスチームがしのぎを削りプライドをかけて勝利を狙う激戦区だ。そこで走るチャンスを若井は掴んだのだ。

第7戦ドイツGP・ホッケンハイム

 ドイツの西側にあるホッケンハイムは大きな森の中にあるサーキットで独特のレイアウトを持つ。6.79kmのコースは二つのシケインを持つ長いストレートが伸び、インフィールドをグランドスタンドが取り囲む。超高速コースとして知られ、マシン、ライダーへの負担が大きく緊張感が高まるコースだ。

 プレスルームにはラッキーストライクスズキからの若井参戦のリリースが置かれ、各国のジャーナリストの手に渡った。写真は急遽の参戦だったのでGP1でラッキーストライクのスポンサーカラーで走るケビン・シュワンツのツナギを借りて撮影したものだった。

 レースウィークにはツナギが届いた。1回目のフリー走行、若井はGP3の走行をこなしGP2に備えた。真新しいラッキーストライクカラーのツナギを着込んだ。ガレージの奥にいた若井はカメラマンの要請に応えマシンの横に立ち写真におさまった。若井を撮影しようと幾重にもなったカメラマンたちは若井の照れくさそうな笑顔を捉えた。いつまでも止まないシャッター音は走行開始時間が迫りようやく止った。

 コースに飛び出す若井の姿をTVモニターが捉えた。若井はレギュラーライダーたちと堂々と渡り合い順調に走行をこなす。最終的には11番手、チームメイトのエリ・トロンテギは17番手となる。

 若井はGP3の走行と合わせると4時間走り続けた。それでも疲れた様子を見せることなく注目選手として各国のTVインタビューに答え、メディアの取材に応じた。

「マシンの動きがまだ掴みきれていない。インフィールドでの切り返しのタイミングや高速コースのシケインでのブレーキングポイントを探っている。でも、操ることは楽しいし、早く自分のもにしたくてたまらない」

 土曜日の午前のフリー走行で、若井はタイムアップするが11番手と変わらず。トロンテギは6番手へとジャンプアップした。最終予選では若井は最後の最後に渾身の走りを見せ7番手へと浮上する。トロンテギは9番手となり、最終グリッドが決定した。

 ポールポジションはマックス・ビアッジで2分6秒635。2番手のロリス・レッジアーニが6秒台。3番手ヘルムート・ブラドル、4番手ピエール・フランチェスコ・キリ、5番手ルカ・カダローラが7秒台。6番手ロリス・カピロッシ、7番手若井、8番手カルロス・ラバード、9番手トロンテギが8秒台。清水雅広は10番手となる。若井はレギュラーライダーに割って入るタイムを記録した。

 予選終了後に注目選手が招かれ開かれる記者会見にシュワンツ、チャンドラー、トロンテギらと一緒に若井が並んだ。若井は予選の感想を聞かれ「乗るたびにマシンの特性が分かってくるので、もう少し乗り込みたい」と答えている。

 GP3は12番手で予選を終えた。

(続く)

(文:佐藤洋美 写真:竹内秀信、Kanna Wakai)

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2024/09/20掲載