フラミンゴ(flamingo)はアフリカ、南ヨーロッパ、中南米の塩湖や干潟に生息する。塩湖やアルカリ性の湖といった特殊な環境に適応しており、数千羽から百万羽程度の巨大な群れを形成する。フラミンゴという名前はラテン語で炎を意味するflammaに由来しているとされる。
1980年代後半から1990年代初頭、ロードレースが華やかな輝きを放っていた時代を若井伸之は生きた。180cmと長身で手足が長く痩せていた。その身体を折りたたむようにGP125ccマシンに密着させ、激しいコーナリングを見せ、イン側の肘や膝を擦った。その姿が優雅なフラミンゴのようだった。
今も、スペイン・へレスサーキットの1コーナーアウト側に、若井の死を悼み、フラミンゴの像がたっている。
■文:佐藤洋美 ■写真:赤松 孝 ■写真提供:若井十月
1990年を境に、若井はトップライダーの仲間入りを果たす
1990年全日本ロードレース選手権の最終戦は、茨城県筑波サーキットで開催された。若井伸之にとっては初めてロードレース観戦した地であり、レースを学んだ場所だった。国際A級125ccクラス、ランキングトップは坂田和人で87ポイント(P)、ランキング2位に若井が68Pで付け、その差は18Pと大きく、若井の逆転チャンピオンを予想することは難しかった。
若井はレース前、タイトルの可能性についての取材に答えた。
「チャンピオンの可能性を残して最終戦を迎えることが出来るとは思っていなかった。でも、最終戦がタイトル決定戦で、サンちゃんと俺に、そのチャンスがある。その位置に自分がいるというのは、これまで、がんばってきたことが無駄ではなかったということだと素直に嬉しい。スタッフに感謝している。サンちゃんがノーポイントになってなんて考えるのは嫌だ。それでチャンピオンになれたとしても、“たなぼた”でしょう。納得なんて出来るわけない。俺は精一杯に走ってサンちゃんとのポイント差をどれくらい埋めることが出来るかを目指すよ。やるだけやる。出来ることは、それだけ」
坂田は、初めてのタイトル決定戦に緊張感を漂わせていた。
「若井が、そんな殊勝なこと言うなんてないね。思ってないよ。来るよ。絶対、奴は勝ちに来ると思うし、絶対、狙っているよ。チャンスがあるんだから。俺も、受けて立たなきゃね。チャンピオンになれない自分は、想像したくないけど、レースだからね。やって見ないとわからないから……」
ランキングトップをひた走り、誰もが今年のチャンピオンは坂田だと考えているのに、タイトルが決まらなかったと考える坂田へのプレッシャーは、とてつもなく大きいものだった。坂田は、初めてレースを経験するノービスライダーのように、落ち着きがなく心もとない表情を浮かべていた。
ランキングトップは坂田で優勝2回、2位1回と上位フィニッシュでポイントを稼ぎ、ランキング2位の若井は連続2位2回、優勝1回で坂田を追い詰めた。最終戦MFJ-GPはボーナスポイント(P)として3Pがつくため、優勝者には23Pが与えられる。若井がタイトルを得るためには若井が優勝し、坂田が15位以下にならなければならない。現実問題として坂田が15位以下は考えられない。若井の逆転タイトルは難しいものだった。さらに最終戦には世界GPを戦い終えた畝本 久、高田孝慈、和田欣也が参戦、海外帰りの力を示そうとしていた。筑波はコースの改修工事が行われて新コースでの戦いだったことも、チャンピオン決定戦への緊迫感を高める要因になっていた。
様々な思惑が絡みあい、いいようのない緊張感の中でレースウィークが始まり激しいタイムアタック合戦が繰り広げられた。高田はクラッシュしてマシンを大破させてしまい、決勝進出を断念する。順調にセットアップを詰める若井は淡々とコースを攻め、狙い澄ましたようにレコードを記録しポールポジション(PP)を獲得する。
対する坂田はフリー走行では好調だったのだが、予選1回目にエンジントラブルが起き、タイムアップ出来なかった。予選2回目にスペアマシンにノーマルエンジンを搭載しアタックするが、ピーキーなエンジンを好む坂田が、フラットなエンジンに変わってしまったことで、トップスピードの伸びを補うために、通常よりアクセルを早めに開け、派手なハイサイドで転倒してしまう。それでも、2番手タイムを叩き出した。
坂田は「緊張しているわけじゃないけど、自分の走りが出来ないんじゃないかと思うと不安。これまで、チャンピオンを獲るって言い続けて、自分にプレッシャーをかけて、ここまで来たのに、これで獲れなかったからバカみたいだ」と不安を抱え込んでいた。
坂田は過去のレースで失敗してしまったことを思い出してもいた。トップ走行中にペースアップし過ぎた坂田に「ペースダウン」のサインが出て「エッ、ペースダウンって……」ってサインを見た途端に思考停止して、手足が思うように動かなくなって転倒してしまった苦い思い出が過ぎる。
今年から弟の明彦がメカニックとして坂田をサポートしてくれていた。決勝に向けて徹夜で整備する明彦のそばで新しいカウルにステッカーを貼っていた坂田も午前2時にはハイエースの寝床に潜り込むが、眠れない夜を過ごし午前5時には起き出して準備を始めた。
千葉の自宅から通っていた若井はPP獲得が、よほど嬉しかったのか、家族に「俺、ポールだからさ、ひょっとするとひょっとするかも」と報告している。現実的には逆転は難しいとしても、坂田の言うように、若井は諦めてはいなかった。レースは何が起こるかわからない。そして、タイトル以上に、ホームコースである筑波での勝利を狙っていた。
若井は「サンちゃんは、A級1年目、自分は2年目のプライドもある。タイトルは無理でも頑張ろうとしていた」と気合充分だったと振り返っている。
そして、ここには初めて家族が応援に来たのだ。レースを猛反対していた父・一も、この時は心から応援し、観客席から身を乗り出すようにして息子の勇姿を見つめた。
全日本ロードレース選手権を戦う500ccクラス、250ccクラス、TT‐F1クラス、TT-F3クラス、そして125ccクラスとすべてのクラスのチャンピオン決定戦だった。10月28日、晩秋の晴天に恵まれた筑波サーキットには、午前中の清々しい空気に太陽の光りが注ぎ、目に映る全てが光を反射するように輝いていた。4万人近い熱心なファンが詰めかけ、すべのてスタンド、コーナーは人で埋まっていた。
後半にきて調子を上げていた若井は闘志を掻き立てPPグリッドに着く。「なるようになる」と開き直った坂田が2番手。3番手山川洋佐、4番手に小野真央がフロントローに並んだ。5番手にはGP帰りの畝本久、6番手に先輩島正人がグリッドに着いた。
緊張感を破るようにシグナルグリーンと同時にスタートで飛び出した坂田、それを追う山川、畝本、若井が続く。4台が重なるように1コーナーに突入して行った。序盤から飛ばす坂田、それを追うのは山川で2台が抜け出す。トップ争いを繰り広げるが、中盤には坂田が山川を振り切って独走体制へと持ち込む。畝本を交わした若井は山川に襲いかかる。逃げる坂田との勝負に持ち込みたいが山川も粘る。若井は山川を抜きあぐね、その隙に2位争いの山川と若井とのビハインドを広げた。
坂田は独走態勢を築き優勝を飾り、若井は最後の最後に山川を捉え2位に浮上しチェッカーを受けた。坂田は初の栄冠に輝き、若井はランキング2位となった。
「優勝で締めくくりたかった」
若井は悔しさをにじませた。だが、チャンピオンを獲得し重圧から解放され笑顔の坂田に近寄り「おめでとう」と右手を差出している。
坂田はノービス、ジュニア、国際A級と3年連続チャンピオンを獲得する偉業を達成した。チャンピオントレーナーが用意され、ピットボードにはチャンピオンの文字が躍った。マシンのゼッケンが1に張り替えられていた。何も知らされていなかった坂田は「俺がチャンピオンになるって、みんな信じていたってこと?」と感激で胸をいっぱいにしていた。
さらに、祝福する125の仲間たちに引きずられるように、最終コーナー寄りにある池に放り込まれ、手荒い祝福を受ける。ただでは落ちない坂田は、放り投げた仲間も池に引きずり込む。若井も、その餌食となった。
若井はチャンピオン獲得とはならなかったが、ランキング2位を得て、このシーズンを境にトップライダーの仲間入りを果たす。
「密かにタイトルを狙っていたシーズンなのに、筑波、菅生での転倒、鈴鹿のトラブルとポイントを落とすレースをしてしまった。それでも、西仙台で優勝出来た。去年よりは確実に進歩している。レースは自分自身の緊張感や集中力の持って行き方で結果が大きく左右されるスポーツだと思う。そして、それが僕が感じるレースの魅力。自分はどちらかと言えば、テクニックより気合一発のタイプで転倒も多い。もっと集中力を高めることが出来たら勝てるんじゃないかと思っているんだ。だから、今の課題は集中力を身に着けること。それが出来たら、今まで以上のレースが出来ると信じている。それに気がつくことが出来ただけでも収穫。僕にとっては、チャンピオンになれなくても、これまでで最高のシーズンだ」
夢物語ではなかった「世界」への道
若井は「チャンピオンを獲得できたのなら、GP参戦を考えたい……。と漠然としたGPへの思いがあった。だが、この時はまだ夢のままだった。若井は、来季のことを相談しにチーム監督の池澤一男を訪ねた。
小柄なライダーが有利な125ccクラスより、高身長の若井は来季はクラスを変えて、250ccクラスかTT-F1クラスにスイッチする可能性はあるのかと聞いた。
だが、返ってきた答えは……。
「オマエ、世界に行けば?」
「……」
「お前の夢はなに?」
「いつかは世界GPの250を走りたいと……思っている」
若井はこの時、目の前が一瞬にして明るくなるような感覚を覚える。いつかの夢ではなく、世界GPがリアルな目標へと変わった瞬間だった。「夢はつかみに行くものだ」と……。
全日本を走り続けてもワークスライダーにならなければ、世界へのチャンスは開かれない。たとえワークス入り出来たとしても、世界参戦が確約されているわけではない。それなら、自ら世界の扉を叩くしかないのだ。
世界GPは、1949年に始まったロードレースの最高峰の戦いだ。1959年、ホンダがマン島TTレースに挑戦し団体優勝を飾った。1961年、西ドイツGP250ccクラスで高橋国光が優勝し、125ccクラスと250ccクラスで世界タイトルを獲得した。だが、最高峰クラスとなる500ccクラスではMVアグスタの独壇場だった。1962年~1965年まではマイク・ヘイルウッド(イギリス)、1966年~1972年はジャコモ・アゴスチーニ(イタリア)、1973年と1974年はフィル・リード(イギリス)がタイトルをチャンピオンとなりMVアグスタが君臨していた。
1975年には、ヤマハに移籍したアゴスチーニがチャンピオンになり、1976年と1977年はスズキでバリー・シーンがV2。また、1977年には片山敬済(ヤマハ)が350ccクラスでチャンピオンを獲得している。1978年~1980年の500ccクラスでヤマハのケニー・ロバーツがタイトルを得て、1981年にはスズキでマルコ・ルッキネリ(イタリア)、1982年もスズキのフランコ・ウンチーニ(イタリア)が頂点に立つ。
1983年にはケニーとホンダのフレディ・スペンサーが激突、フレディが21歳で史上最年少チャンピオンとなる。世紀の戦い、神々の戦いと称された戦いを最後にケニーが引退したことも、この戦いを印象付けた。
その後、4強と呼ばれるライダーたちが現れる。1984年、1986年、1988年、1989年はヤマハとホンダでエディ・ローソン(アメリカ)、1987年にはホンダのワイン・ガードナー(オーストラリア)、1990年はヤマハのウェイン・レイニー(アメリカ)がタイトルを得る。ここにスズキのケビン・シュワンツ(アメリカ)が加わり、熱戦を繰り広げていた。日本車が活躍する世界GPの熱戦の余波は日本にも届いており、遠い欧州で繰り広げられる戦いに、憧れを掻き立てられるファンが確実に増えていた。
日本で世界GPが開催されたのは1963年鈴鹿サーキットが最初で、その後も開催場所を変えて1967年まで続いたが途絶えた。復活したのが1987年だった。雨の日本GP鈴鹿で250ccクラスにスポット参戦した全日本ライダーの小林大(ホンダ)が優勝を飾る。遠かった世界GPが、一気に身近になった。
1988年から、プライベートライダーの畝本や、高田が先駆者として世界GP参戦を果たしていた。1989年の日本GP鈴鹿で畝本は2位となり、世界ランキングも4位へと浮上している。プライベーターでも、世界へ行けるという確信が、この時代にはあった。全日本を戦うプライベートチームも、世界へと目を向け始めていた。
チーム監督の池澤が世界を口にしたのは、夢物語ではなかった。
若井は語っていた。
「好きなライダーはフレディ・スペンサー(1983年GP500チャンピオン。1985年GP500とGP250 ダブルチャンピオン)。やっぱり、天才だと思う。今にしてみれば、あのライディングは当たり前かもしれないけど、当時は斬新だったと思う。基本に忠実で確実なライダーより、スペンサーやランディ・マモラのように強い個性を持ったライダーが好きだ。強いアピール力を持ったライダーになりたい」
若井は、早速GP参戦に向けて動き出そうとした。だがその前に、どうしてもはっきりしなければならないことがあった。若井は坂田を呼び出した。千葉県松戸にあるファミリーレストラン“デニーズ”で坂田と向き合った。
「俺、世界GPに行こうと思う。レースをしている以上、上を目指すのは当たり前だろう。チャンピオンにもなってないのに、GPなんて、って思うかもしれないけど、今、もう行きたいと思った気持ちは止まらない」
そう思いを伝えた。
「お前さ、何、熱くなってんの? そんなに行きたいなら行けばいいよ」
「で、お前は行かないの?」
「俺?……俺は……」
世界GP参戦の条件は、全日本チャンピオンを獲得するか、世界GPでポイントを取っていることが条件だった。若井は全日本ランキング2位、チャンピオンの坂田が世界GPに行く権利を放棄すれば、若井にその権利が舞い込む。坂田に伝えず世界GPの準備を進めることも出来たのに、若井の中の正義が、友情が、それを許さなかった。
「お前は行かないの?」と言ってしまったことを、若井はもてあますように坂田を見つめていた。グラスの中の氷が溶け、熱かったコーヒーは冷え切っていた。
坂田は全日本チャンピオンになったが、来季のことなんて考えていなかった。レースを始めたのも「全日本チャンピオンになる、世界チャンピオンになるんだ」なんて、高い志を持っていたわけではなかった。走れば速く、負ければ悔しいから、がむしゃらに走っていたら、ノービスチャンピオン、ジュニアチャンピオンになり、全日本チャンピオンになったというだけのことだった。
世界では、イラク軍がクウェートに侵攻する事態となり、不穏な時代の空気が支配していた。東西を隔てていた壁が壊され、ドイツが統一し欧州の地図が動いた。
日本ではアニメ「ちびまる子ちゃん」の放送が始まり、最高視聴率39.9%を記録、主題歌のB.Bクィーンズの「おどるポンポコリン」が大ヒットしていた。
国内総生産(GDP)は、前年比プラス5.6%と、まだ成長すると信じる経済状況があった。
(続く)
(文:佐藤洋美、写真:赤松 孝、写真提供:若井十月)