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レース・イベント

■文:佐藤洋美 ■写真:赤松 孝 ■写真提供:若井十月


フラミンゴ(flamingo)はアフリカ、南ヨーロッパ、中南米の塩湖や干潟に生息する。塩湖やアルカリ性の湖といった特殊な環境に適応しており、数千羽から百万羽程度の巨大な群れを形成する。フラミンゴという名前はラテン語で炎を意味するflammaに由来しているとされる。

1980年代後半から1990年代初頭、ロードレースが華やかな輝きを放っていた時代を若井伸之は生きた。180cmと長身で手足が長く痩せていた。その身体を折りたたむようにGP125ccマシンに密着させ、激しいコーナリングを見せ、イン側の肘や膝を擦った。その姿が優雅なフラミンゴのようだった。

今も、スペイン・へレスサーキットの1コーナーアウト側に、若井の死を悼み、フラミンゴの像がたっている。

優美で気高く魅力があり、見るものを引き込む姿はまるでフラミンゴ

 1989年1月7日、昭和天皇が崩御し、皇太子が新天皇に即位、元号が「平成」と改元された。バブル経済の末期とは言え、世界屈指の豊かな国となった日本は表面的な生活と文化は欧米的に進歩し、日本全体がその時代に浮かれ酔っていた。東京証券取引市場一部の平均株価が年末に3万8915円の市場最高値をつけ、不動産価格も1990年まで高騰を続ける。

 時代の変わり目と渦の中で、1989年若井は国際A級に昇格し、全日本ロードレース選手権GP125に挑む。チームの先輩の森山 巧と肩を並べたのだ。森山は若井にだけは、先輩のプライドとして「絶対に負けない」と誓う。初対決となった全日本ロードの開幕戦は、ふたりで良く通った筑波サーキットだった。
 
 だが、森山は目の前で転倒した車輌を避けようとして5速全開のフルスロットルのままコンクリートに激突し両足を骨折した。このケガで、森山は引退を決める。

 若井は、頼れる先輩がレースから離れてしまい、全日本ロードを戦う先輩ライダーであり、第一人者である島 正人を頼るようになる。島にとってはGP125で走るライダーは、後輩だろうが新人だろうが、全員がライバルだ。よくピットに顔を出す若井のことも最初は煙たく思い、暴言を吐くこともあった。

「よくイジメていたね。それでも懲りずに、家に遊びに来たりするからね。こいつ根性あるな」と次第に島のお気に入りの後輩ライダーになっていく。

 島は真剣に若井に意見した。その辛辣な言葉は感受性豊かな若井の心に突きささり泣いてしまうこともあったが、その言葉を真摯に受け止め、成長を止めなかった。

 メカニックの新国 努の支えもあり、伸之はトップ争いに絡むようになる。新国は「成績が上がるのと比例して顔つきが変わって行った」と伸之の成長を肌で感じていた。

若井伸之

 GP125は小排気量クラスで、小柄なライダーが得意とするクラスだ。レーシングマシンを操るということは空気抵抗との戦いでもあり、空力アップと軽量化は絶対的要素だ。伸之は痩せてはいるが、高身長でGP125では絶対的なハンデを背負っていた。マシンの上で、コンパクトに身体を沈めることに苦心する。タンクの後につけるパッドの形状にこだわり、何度も試行錯誤を繰り返した。

 自身のスタイルを追及する伸之は、長い手足を折り畳むようにしてマシンと一体となり、コーナリングでは足が突き出る。その姿はまるでフラミンゴのようだと称されるのだ。優美で気高く魅力があり、見るものを引き込んだ。

 マシンセッティングで伸之がこだわったのはエンジンフィーリングだった。自身の求めるものを探すためには、的確なインプレッションが必要になる。新国は常に伸之の求めるものを探し出す作業に追われた。エンジンセッティングが決まると、足周りのセッティングの調整をした。サスペンションの沈み込みのフィーリングは伸之の感覚に頼り進めた。だが路面の状況、天候、ライバルたちの動きによって、そこには多様な選択が生まれる。最適な選択を探すために伸之は情報を集めた。友人の多い伸之はパドックでも人気者だった。走行を終えるとパドックを回り、タイムが出ているライダー、出ていないライダーと話をした。伸之は、得た情報を独り占めにはしない。情報を広く交換することで、ライダー仲間から信頼を得て行く。

 情報収集を終えると新国とミーティングを重ね、自身のベストなセッティングを導き出した。伸之は新国に絶大なる信頼をおいており、大方のことは新国の判断に任せていた。だが、走行後に思うようなフィーリングを得られなかったときには悩み、時間をかけて変更を決めた。だが、レースの難しさはここにあり、変更したことが吉と出ることもあり、凶と出ることもあるのだ。良かれと思っても、路面温度や天気で思惑通りにはいかない。最後は出たとこ勝負、ライダーの技量が勝敗を分ける。

 全日本第14戦は宮城県西仙台ハイランドで開催された。ここで、伸之は予選3番手を記録して初のフロントローに並んだ。決勝ではトップ争いをするも転倒してしまい再スタートして8位に終わっている。

「西仙台では優勝目前で転倒してしまった苦い思いが残る。どうして勝てなかったのか、どうして転倒してしまったのか……。もっと、もっと、もっと真剣に、強い思いで勝ちたいと思わないと勝てないんじゃないかと思うようになった。この時から、真剣にレースに向き合いたいと思い始めたような気がする」

 勝てなかった悔しさが、伸之の闘争心を駆り立てることになる。

 この若井の走りを見ていたライダーがいた。ジュニアクラスで連勝を続ける坂田和人だ。「勝ちしか眼中にないって走りだなぁ~」と伸之の走りを目で追っていた。坂田はピットに戻る伸之に「残念だったね」と声をかけた。伸之は、自分の走りを見ていてくれたことが嬉しく「しょうがないよ」と笑顔を見せた。

 坂田は1988年、スーパーノービスと呼ばれた青木3兄弟の長男・宣篤に競り勝ち、つくば選手権チャンピオンを獲得、1989年にジュニア125で3勝を挙げ、9戦中7回表彰台に上ってチャンピオンに輝いた逸材だった。

 その後、伸之のライバルとなり、友人となる坂田との出会いだった。

若井

 そしてもう一人、切磋琢磨する友人となる上田 昇とも、この年に出会う。上田は、レースに憧れ進学した仙台の大学を2年で中退し、アルバイトに明け暮れ1年間で200万円を貯めた苦労人だった。この食うや食わずのアルバイト時代で「くされ根性を養った」と上田は言う。上田は、鈴鹿の通称GPアパート(GPに憧れるライダーたちが暮らし安くて汚い長屋のような部屋)の一員となり、ノービスライダーとして孤軍奮闘していた。序盤戦は苦戦するも最終戦の鈴鹿でも優勝を飾り勢いに乗っていた。

 鈴鹿の練習走行で、コース上に長い手足を駆使してマシンを操る若井を見つけると追いかけ勝負をかけた。上田は若井をパス、抜いた瞬間、上田のマシンはガス欠をしてスローダウンしてしまう。真後ろにいた若井は追突しそうになるが、なんとか回避しふたりは無事だった。

 ガソリンの残量を確認するのは基本中の基本、それを怠り、先輩ライダーに迷惑をかけてしまった上田は意気消沈して若井のピットを訪れた。そこには、恐怖に顔を引きつらせ真っ青な顔をした若井がいて、頭を下げた上田は早々にピットを後にしている。

 この年、若井は総合ランキング15位となる。結果以上の光る走りが数社のタイヤメーカーの目に留まり契約の話が舞い込むが、若井は迷いなく、履き続けていたダンロップを選ぶ。

 ダンロップモータースポーツ部の竹内美喜男は「こちらより条件のいいとこがあったようで、そちらを選んでもいい」と声をかけたが、若井の意志は変わらなかったと言う。義理固い若井とダンロップの関係は、その後も変わらずに続き、若井はダンロップの顔になって行った。

アッシーもメッシーも貢君も3Kも無縁な世界

 中国では「天安門事件」が起き、民主化要求運動の学生に対して政府人民解放軍が武力での制圧行動を始め、300人以上の学生が射殺された。年末にはアメリカとソ連の冷戦が終結する。「ボーダーレス」が叫ばれ、冷戦構造の雪融けで国家と国家が急速に融和し、国家間だけではなくあらゆる分野で境界があいまいになる。

 1990年には戦後45年間の東西の分断を経て、ドイツが統一された。湾岸戦争で米ソが対イラク経済制裁する。日本では1980年代後半からの異常な好景気が1990年代に入るとともに崩壊して行く。

 だが、まだ、バブル経済の余韻に浸り、女性はボディコンシャスな服を身につけ、タクシー代わりの男子をアッシーくんと呼び、ご飯をご馳走してくれる男の子をメッシー君、プレゼントをくれる男性は貢くんと呼んだ。世の男性の多くは、女の子に振り向いてもらうために高級車にのり、高学歴、高身長、高収入(3K)を目指した。行動力と生活力を持ったおやじギャルも出現する。

 1990年、レースにどっぷりと浸かる生活をしている若井にとって、アッシーもメッシーも貢君も、3Kも無縁な世界だった。だがボーダーレスの空気は、世界への距離を近くした。

 勝利に目覚めた若井は「チャンピオンを狙う。目標は100ポイント。計算すると全部表彰台に登ると計画を立てる。

若井

 上田は特別昇格でA級へのステップアップを決めた。坂田も前年度ジュニア125チャンピオンの勲章を得てA級の舞台へと上がる。原田はヤマハワークスから250参戦、トップライダーとして認知される。

 上田は、チームメイトの岡本利行と伸之の仲が良かったことで話をするようになる。岡本を交え食事をした時に「A級は甘くないから頑張りたまえ」と若井は先輩風を吹かせている。

 ロードレース世界選手権(WGP)日本ラウンドに参戦するための国内選手出場権獲得選抜会が行われた。若井はこれに挑み予選7位、決勝6位を獲得し参戦権を得る。WGP開幕戦は鈴鹿サーキットで開催された。ポールポジションは和田欣也が獲得し脚光を浴びる。2番手にJ・マルチネス(スペイン)、3番手に高田孝慈、4番手にD・ラウデゥス(西ドイツ)となり、この4人がフロントローに並んだ。若井は17番手を得てグリッドに付く。

 若井にとって初めてのWGP参戦は、決して華々しいデビューとはならなかったが、A級2年目のプライベートライダーが必死に掴んだ参戦の切符だった。「勝とうとか、目立ってやろう」との野心を打ち砕く厳しい戦いだった。楽天家の若井でも、さすがに世界の壁を感じた。だが、それを楽しむのが若井の良さでもある。初めてのWGPに無我夢中で挑み刺激を受ける。

 決勝はマルチネスが転倒するなどの波乱もありH・スパーン(オランダ)が勝利。2位にS・プレイン(西ドイツ)、3位に高田が付け表彰台に上った。若井は13番手でチェッカーを受けた。誰も気にも留めてくれないような順位だったが、若井の中でWGPが夢の舞台から、現実の舞台へと変わった特別のレースでもあった。

 若井の心の中で、小さな火が点ったのだ。「いつか、ここで戦うライダーになるのだ」と……。

(続く)

若井

(文:佐藤洋美、写真:赤松 孝、写真提供:若井十月)

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2023/06/30掲載