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名車図鑑

バイクと出会って半世紀。子供の頃、バイクのカタログ集めに夢中になった山形の少年は、学校を卒業すると念願だったホンダに入社。1994年からは二輪広報を担当し、2020年定年退職するまで四半世紀、一貫して広報活動に従事した。バイクブームのあの時代からの裏も表も知り尽くした高山さんの視点でふりかえる、バイク温故知新の四方山話。それが「バイク・承前啓後(しょうぜんけいご)」。

●第6回「東京オリンピックの年に、世界王者3メーカーが鈴鹿サーキットで激突」-1964年のロードレース世界選手権日本GPのプログラムから-

 1964年10月10日、快晴の下で東京オリンピックの開会式が盛大に行われました。
 2週間にわたって繰り広げられた世界の強豪たちとの熱い戦いは、10月24日の閉会式まで続きました。東京オリンピックの興奮が冷めやらぬ1週間後の11月1日、鈴鹿サーキットではロードレース世界選手権第2回日本グランプリが開催されました。
 前年の1963年、鈴鹿サーキット開業2年目に開催された記念すべき第1回日本グランプリとは参加メーカーの勢力図に大きな変化が見られました。

※「1963年WGP日本グランプリのプログラムから」の記事は、こちらをご覧ください。





 1963年は、常勝ホンダの一角をスズキが崩し、125ccクラスでスズキ初のメーカーチャンピオンを獲得しました。そして1964年には、ヤマハが250ccクラスでメーカー&ライダーチャンピオンを初獲得。凱旋レースとして最終戦の鈴鹿に乗り込んできたのです。
 1960年代初頭に於ける日本メーカーの凄まじい努力は、世界グランプリ初挑戦から短期間でチャンピオンを獲得したことで証明されています。ホンダは1959年にマン島TTレースに初挑戦。3年目の1961年には、125ccと250ccクラスでメーカーチャンピオンを獲得。スズキは、初挑戦から4年目の1963年に125ccでメーカーチャンピオンを獲得。そしてヤマハも、初挑戦から4年目の1964年に250ccクラスでダブルチャンピオンを獲得したのです。
 ホンダにとっては、ホームコースである鈴鹿サーキットで負けるわけにはいきません。ホンダは、スズキとヤマハの2ストロークエンジンの台頭に対抗するために、4ストロークエンジンの性能向上に取り組み続けていました。これまでは、世界の強豪メーカーに少しでも追いつき追い越そうと奮闘努力していましたが、今や同胞の日本メーカーが最大のライバルとなったのです。
 では、1964年のWGP第2回日本グランプリの公式プログラムから主要ページを紹介いたします。

※個人所有につき、汚れや不鮮明な部分があることをご了承ください。

表紙
表紙は、国際色豊かにグランプリライダー11名が登場。日本の代表は伊藤史朗選手です。
大会組織図
大会組織図 大会会長は、ヤマハ発動機社長の川上源一氏が務めています。前年の大会会長は、本田技研工業社長の本田宗一郎氏でした。

タイムスケジュール
タイムスケジュール 前年と同様に、50cc、125cc、250cc、350ccの4クラスの決勝が行われました。
会場案内図
会場案内図 前年と大きく違うのは、スポーツホテルが新たに加えられました。

エントリーリスト 50cc、125ccクラス
エントリーリスト 50cc、125ccクラス
50ccは、すでにチャンピオンを決定したスズキのヒュー・アンダーソン選手ら15名、125ccは、ホンダでチャンピオンを決めている、ルイジ・タベリ選手ら17名。

エントリーリスト 250cc、350ccクラス
エントリーリスト 250cc、350ccクラス
250ccには、ヤマハに初の世界チャンピオンをもたらしたフィル・リード選手ら13名、350ccには、ホンダで3年連続チャンピオンのジム・レッドマン選手ら11名。

ライダー紹介
ライダー紹介
ライダー紹介

ライダー紹介
ライダー紹介
ライダー紹介
ライダー紹介 往年の名ライダーの勇姿です。
シーズン前のマレーシアでのレースで負傷したヤマハのエース、伊藤史朗選手が再起をかけエントリーしています。残念ながら満足のいく結果にはなりませんでした。

エントリーリスト 250cc、350ccクラス
マシン紹介 イタリアのベネリは、250ccと350ccに4ストロークマシンで参戦。ホンダ: 50cc 4ストロークDOHC 2気筒の2RC114。125cc、4ストロークDOHC 4気筒のRC146。250cc 4ストロークDOHC 6気筒のRC165。350cc 4ストロークDOHC 4気筒のRC172。

マシン紹介
マシン紹介 MZの2ストロークマシンは、スズキとヤマハの2ストロークマシンに遅れをとったシーズンでした。英国のノートンは、350ccに4ストローク単気筒マシンで挑みます。

マシン紹介
マシン紹介 スズキ 50cc、125ccともに2ストロークで後方排気システムを採用。ヤマハ 125cc、250ccともに2ストローク。250ccのRD56は、完成された感のあるチャンピオンマシンです。

ライディングフォーム
主なライダーのライディングフォームを紹介しています。グランプリライダーそれぞれに違いがあります。この当時に膝を尽き出すスタイルがあったことが分かります。

コース攻略方法
サーキットならではのコース攻略方法を解説しています。モーターサイクル・スポーツの魅力を、初めて見る人にも分かりやすく解説しています。

営業案内
鈴鹿サーキットの営業案内。S600のレンタカーやスポーツ・キャンプ場の完成などで魅力を広げていることが分かります。

ホンダの広告
ホンダの広告
ホンダの広告 新製品CS90は、クラストップの最高時速100km/hをPR。「ホンダレンタカー」は、この年に登場したスポーツカーS600でビジネスを展開。スポーツカーだけのラインアップは驚くばかり。

スズキの広告
スズキの広告「世界のスズキ」「若者のスズキ」のキャッチコピーで伸び行く企業をPRしています。

スズキの広告
ヤマハの広告 東京オリンピックで80台の二輪車(ジュニアYG1)を提供した実績と、250ccで世界チャンピオンを獲得した2大ニュースをPRしています。大きく扱われているのは、80ccのジュニアYG1のようです。

得点表
1964年シーズンの得点表。当時は、有効ポイント制でした。最終戦の日本GPまでに全クラスのライダーチャンピオンが決定していました。350ccクラスのJ・レッドマン選手は、日本GPでも優勝し8戦8勝というパーフェクトなシーズンでした。

 決勝レースの上位3名は次のとおりです。(本田技研工業の社内資料より)
50ccクラス 
優勝 R・ブライアンズ選手 ホンダ
2位 L・タベリ選手 ホンダ
3位 谷口尚己選手 ホンダ 
 
125ccクラス  
優勝 E・デグナー選手 スズキ
2位  L・タベリ選手 ホンダ
3位  片山義美選手 スズキ

250ccクラス  
優勝 J・レッドマン選手 ホンダ
2位 粕谷勇選手 ホンダ
3位 長谷川弘選手 ヤマハ

350ccクラス
優勝 J・レッドマン選手 ホンダ
2位 M・ヘイルウッド選手 MZ
3位 粕谷勇選手 ホンダ

 1964年は、東京オリンピックに続き、鈴鹿サーキットでも日本人選手が大活躍するシーンが見られました。
 WGP日本グランプリは、1965年までの3年間は鈴鹿サーキットで開催。1966年、1967年の2年間は、富士スピードウェイで開催されました。その後20年の時を経て、1987年に日本グランプリが鈴鹿サーキットに帰ってきました。世界最高峰のロードレースを再び日本で見られるようになり、TV中継などでファンの拡大につながりました。そして、2004年からはツインリンクもてぎが引き継ぐ形で今日まで途切れなく開催されています(2020年は、新型コロナウイルスの影響で中止)。

 日本のモータースポーツの育成はもとより、地球レベルでモータースポーツの発展に寄与してきた偉大な鈴鹿サーキットの足跡を辿りますと、プログラムには記載されていない多くのスタッフの努力と創意工夫が連綿と受け継がれていることが分かります。
 2022年は、鈴鹿サーキットが誕生してから60周年になります。
 これからも、いちファンとして勝手に応援していきたいと思います。


高山正之
高山正之(たかやま まさゆき)
1955年山形県庄内地方生まれ。1974年本田技研工業入社。狭山工場で四輪車組立に従事した後、本社のモーターレクリエーション推進本部ではトライアルの普及活動などに携わる。1994年から2020年の退職まで二輪車広報活動に従事。中でもスーパーカブやモータースポーツの歴史をPRする業務は25年間に及ぶ。二輪業界でお世話になった人は数知れず。現在は趣味の高山農園で汗を流し、文筆活動もいそしむ晴耕雨読の日々。愛車はホーネット250とスーパーカブ110、リードのホンダ党。


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2021/05/03掲載