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エンタメ

バイクと出会って半世紀。子供の頃、バイクのカタログ集めに夢中になった山形の少年は、学校を卒業すると念願だったホンダに入社。1994年からは二輪広報を担当し、2020年定年退職するまで四半世紀、一貫して広報活動に従事した。バイクブームのあの時代からの裏も表も知り尽くした高山さんの視点でふりかえる、バイク温故知新の四方山話。それが「バイク・承前啓後」。
●Special Thanks 鈴鹿サーキット・東京グラフィックデザイナーズ

●第4回「東京オリンピックの前年に、鈴鹿サーキットで世界大会が開催されたという衝撃」
-1963年の世界ロードレース世界選手権日本GPのプログラムから-

 今年の東京オリンピック・パラリンピックの動向が気になりますが、1964年の東京オリンピックには、海外から多くのスポーツ関係者が来日して、スポーツの祭典が華々しく開催されました。その前年1963年に、開業2年目の鈴鹿サーキットにて、ロードレース世界選手権第1回日本グランプリが開催されました。日本でオートバイの世界選手権が行われたのは、もちろんこの大会が初めてです。国家プロジェクトの東京オリンピックに話題をさらわれた感じですが、当時の日本グランプリの公式プログラムから、鈴鹿サーキットが世界に向けて発信した「二輪大国日本」の姿を追ってみたいと思います。





【鈴鹿サーキット誕生まで】

 三重県鈴鹿市に建設された鈴鹿サーキットは、1962年9月に竣工式が行われました。日本初の高速道路となる名神高速道路の一部が開通する1年前の事でした。建設の趣旨は、「来たるべき高速時代に対応したクルマづくりと、安全な高速走行ができるレース場をつくるのがメーカーの責務である」という、本田技研工業の創業者である本田宗一郎氏の信念に基づくものでした。これを受けて、専務の藤澤武夫氏が世界でもユニークな遊園地を併設した国際格式サーキットのプロジェクトを推進しました。
 藤澤専務の構想には、未来のユーザーである10代の青少年を対象としたモータリゼーション普及の場、モーターサイエンスの研究・教育活動の場としてのレジャーランド施設がありました。そして、オートバイの健全な普及を目指し、スキー場をイメージした「モーターゲレンデ」、「テック構想」は、多摩テックや生駒テック、朝霞テックでも形にしていったのです。
 では、当時の日本とホンダの動きについて時系列に紹介いたします。
・1957年10月 名神高速道路の施行命令  延長190km
・1958年 8月 ホンダ スーパーカブC100を発売
・1959年 6月 ホンダ マン島TTレースに初挑戦 メーカーチーム賞獲得
・1959年 9月 ホンダ 鈴鹿市に21万坪の工場建設用地決定
・1959年 末  本田宗一郎 サーキット建設を意思表明
・1960年 春  サーキットの建設地を鈴鹿市に決定
・1960年 4月 ホンダ鈴鹿製作所発足 スーパーカブの大量生産工場
・1960年 8月 鈴鹿サーキットレーシングコースの原案提出
・1961年 6月 ホンダ マン島TTレースの125cc、250ccクラスで1位から5位まで独占
・1961年 6月 スーパーカブ累計生産台数100万台を突破
・1961年10月 ホンダ ロードレース世界選手権(以下WGP)125cc、250ccクラスでメーカーチャンピオンを獲得
・1961年10月 東京都日野市に多摩テックオープン
・1962年 9月 鈴鹿サーキット 国際レーシングコースが竣工
・1962年11月 鈴鹿サーキットで、第1回全日本選手権ロードレースを開催
・1963年 5月 鈴鹿サーキットで、第1回日本グランプリ自動車レースを開催
・1963年 7月 名神高速道路 栗東-尼崎間71kmが開通 日本初の高速道路
・1963年11月 鈴鹿サーキットで、WGP第1回日本グランプリを開催。
・1964年 1月 ホンダ 四輪レース最高峰のF1に出場宣言
・1964年 8月 ホンダ F1ドイツグランプリでデビュー
・1964年10月 東海道新幹線開業(東京-新大阪間)
・1964年10月 東京オリンピック開催
・1964年10月 茨城県谷田部町の自動車高速試験場が運用開始
・1965年 7月 名神高速道路 全線開通(小牧-西宮間)
・1966年   ホンダ WGPの全クラスでメーカーチャンピオン獲得(50cc、125cc、250cc、350cc、500cc)
・1967年   ホンダ この年を最後にWGPのワークス活動を終了
・1969年 5月 東名高速道路 全線開通(東京-小牧間)
・1969年 8月 ホンダドリームCB750FOUR発売 ハイウエイ時代を先取りした高性能オートバイとして大ヒット

 とても大雑把な紹介ですが、鈴鹿サーキットは用地決定から約2年半でレーシングコースがを完成させました。建設は超高速で行われたことが分かります。建設中は、名神高速道路の関係者も視察に見えたそうです。時速300キロを超える想定のコースですから、技術面で大きな興味があったものと思われます。
 鈴鹿サーキットの建設費用は、オートバイメーカーの本田技研工業による負担です。ホンダは、まだ自動車の生産に至っていなかった時代です。一私企業が、これほど大規模なサーキットを時代に先駆けて建設できた要因の一つとして、スーパーカブの大ヒットが挙げられます。スーパーカブは、本田宗一郎氏と藤澤武夫氏のアイデアが生み出し、日本はもとより海外でも大きな支持を得たことにより、1961年にはホンダのオートバイ生産台数は世界一になりました。私のような凡人の考えでは、スーパーカブで生み出した利益は、次の商品開発などに使ってより盤石なオートバイメーカーとしての地位を固めると思うのですが、惜しみも無くサーキット建設に投下しました。利益を生み出すのは容易な事ではありません。しかしながら、将来の日本のオートバイや四輪車の性能向上を果たし、工業立国日本を目指すためには、サーキットが重要な役割を果たしていくことを、予見していたわけです。

 前置きが長くなりましたが、1963年11月に開催された、WGP第1回日本グランプリの公式プログラムから主要ページを紹介いたします。 

※個人所有につき、汚れや不鮮明な部分があることをご了承ください。

WGP第1回日本グランプリの公式プログラム
表紙は、エントリーしているメーカーのタンクマークで構成。国際色豊かです。

入場チケットの表面
入場チケットの表面。
入場チケットの裏面
入場チケットの裏面には、観戦の注意事項やコースのレイアウトを記載しています。

大会組織図
大会組織図。大会会長は、本田宗一郎氏が務めています。

目次
目次です。70ページを超えるボリュームです。

タイムスケジュール
タイムスケジュール。50cc、125cc、250cc、350ccの4クラスの決勝が行われました。

会場案内図
会場案内図。コースレイアウトは、現在と大きく変わっていません。

ライダー紹介
ライダー紹介。往年の名ライダーの勇姿です。
モーターサイクル・スポーツの魅力を、初めて見る人にも分かりやすく解説
モーターサイクル・スポーツの魅力を、初めて見る人にも分かりやすく解説しています。

鈴鹿サーキットの営業案内
鈴鹿サーキットの営業案内です。すでに、遊園地が稼働しているのが分かります。

自分の愛車でサーキットを体験走行
自分の愛車でサーキットを体験走行できるプログラムです。二輪車のスポーツ走行も
紹介されています。右下には、スタートしたばかりのホンダレンタカーの紹介もあります。スポーツカーのS500が用意されていました。

多彩なプログラム
団体やファミリー向け、モーター運動会など多彩なプログラムが用意されています。
モーターサイクル・スポーツの魅力を、初めて見る人にも分かりやすく解説
“科学が生んだお伽の国”の数々の遊戯物。モンキーオートバイは、すでに多摩テックで運用されていました。この自動車遊園地のコンセプトは、お客様が自ら操作して楽しむところにあります。S500を小さくしたスポーツ50は、今見てもワクワクします。現在の鈴鹿サーキットでも、モートピアと名付けられ多彩なアトラクションを楽しむことができます。

ホンダの広告
ホンダの広告です。ナイセストピープルキャンペーンのポスターをあしらって、二輪車の楽しさをアピールしています。
モーターサイクル・スポーツの魅力を、初めて見る人にも分かりやすく解説
スズキの広告。同年にWGPの50cc、125ccクラスでメーカーチャンピオンを獲得したことをアピールした内容です。スズキは、1960年に初めてWGPに挑戦。3年後には、早くも2クラスで世界制覇したのです。
ヤマハの広告
ヤマハの広告。同年のマン島TTレース250ccクラスで2位を獲得した、伊藤史朗選手のライディングシーンを全面に使い、勢いを感じさせます。ヤマハは、1961年にWGPに初挑戦。3年後の1964年には、早くも250ccクラスでライダー、メーカーチャンピオンを獲得しました。

大会の一シーン
これは、この大会の一シーンです。当時のメインスタンドが大観衆で埋め尽くされています。

 決勝レースの優勝者は、次のとおりです。

50ccクラス L.タベリ選手 ホンダ
125ccクラス F.ペリス選手 スズキ
250ccクラス J.レッドマン選手 ホンダ
        
 最高ラップは、ヤマハの伊藤史朗選手がたたき出し、惜しくも2位となりましたが、世界トップライダーとのし烈な戦いに日本のファンは大興奮でした。

350ccクラス J.レッドマン選手 ホンダ

 初めての世界選手権を実行するのは、大変な苦労があったと思います。選手団の受け入れ、出場マシンの車検に始まり練習走行から決勝までのレース運営。そして大観衆の誘導やサービスなど、多岐にわたります。これらの努力が世界に認められ、鈴鹿サーキットが世界でも優れたサーキットとして愛される由縁なのだと思います。
 
 2022年は、鈴鹿サーキットが誕生してから60周年になります。気が早いようですが、今から勝手に応援してまいりたいと思います。

 


高山正之
高山正之(たかやま まさゆき)
1955年山形県庄内地方生まれ。1974年本田技研工業入社。狭山工場で四輪車組立に従事した後、本社のモーターレクリエーション推進本部ではトライアルの普及活動などに携わる。1994年から2020年の退職まで二輪車広報活動に従事。中でもスーパーカブやモータースポーツの歴史をPRする業務は25年間に及ぶ。二輪業界でお世話になった人は数知れず。現在は趣味の高山農園で汗を流し、文筆活動もいそしむ晴耕雨読の日々。愛車はホーネット250とスーパーカブ110、リードのホンダ党。


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2021/03/23掲載