MotoGPシーズンのヨーロッパラウンドは、いつもスペイン南端のアンダルシア地方にあるヘレスサーキットから始まる。近年のカレンダーでは、開幕戦カタールの後に南北アメリカを縦断し、ヘレスを皮切りにいよいよ欧州転戦がスタートする、という流れが恒例になっている。しかし、カタールが開幕戦に定着する前は、ここヘレスがシーズンオープナーとなっていた時期もあるし、さらにその前の、世紀が切り替わる前後数年は、日本(鈴鹿)と南アフリカを経てヘレス、というスケジュールだったこともある。いずれにせよ、ヘレスから欧州ラウンドの幕が開くというスケジュールは、1980年代から今に至るまで連綿と続く慣例として定着をしている。
そのスペインGPの開催時期はおおむねいつも、日本のゴールデンウィークと重なる4月末から5月上旬。南欧独特の強い日射しとも相俟って、Tシャツ一枚でふつうに過ごせてしまうほど季候が良く、夜9時半頃まで陽が沈まないのでとにかくいつまでも明るい、という印象が強い。
そしてこのヘレスサーキットだが、ご存じのとおりやたらと観客数が多い。ちなみにいま、手許の資料を見てみると2005年の観客動員数は三日間で23万7232人。シーズン全戦のなかでも屈指の集客力を誇る会場で、コース後半区間の右右右と旋回するスタジアムセクションを囲む山肌のエリアが観客で埋めつくされた風景は、二輪ロードレースファンならおそらく一度くらいは写真やテレビ映像などでご覧になったことがあるだろう。「まるで岩のりみたいに人がびっしり張りついている」とじつにうまい形容をしたのは、たしか八代俊二さんだったか。
初めてグランプリへ参戦する日本人選手や、初めて欧州のパドックで仕事をする日本人レース関係者も、ここヘレスで本場欧州の盛り上がりを目の当たりにして度肝を抜かれることが多いようだ。たとえ情報や知識として知ってはいても、じっさいに人とバイクの多さや熱狂的な盛り上がりを自分自身で目の当たりにしてみると、それまで想像していたレベルの軽く2.5倍くらいは上回っている現実の姿に、唖然とするとかしないとか。たしかに自分が初めてヘレスへ行ったときのことを振り返っても、すべてが新鮮で、過呼吸になりそうなほど驚きの連続だったような記憶がある。
さらに、このヘレスという場所の日本からの遠さがまた、独特の旅情を掻きたてる。
日本―スペイン間の直行便は1998年で途絶えてしまったために、日本からヘレスサーキットへ向かう場合、まずは欧州のどこかのハブ空港へ飛んで、そこからマドリーもしくはバルセロナを目指すことになる。そして、国内便でサーキット最寄りのヘレス(もしくはセビーリャなど)空港へ飛ぶ、という経路になるため、少なくとも3便を乗り継ぐ必要がある。欧州全サーキットのなかでもここは日本人にとってもっとも遠く感じる開催地、といっていいだろう。現在では、イベリア航空の成田―マドリー便が復活したため、このフライトを利用すれば従来よりも移動時間をかなり大幅に短縮できるようになったようなのだが。
ヘレス・デ・ラ・フロンテラは、スペイン最南端アンダルシア地方のカディス県にある人口20万ほどの小さな街で、フラメンコと馬術、シェリー酒などが名物として知られている。レースウィークには大勢のレースファンが押し寄せて、この町民人口に匹敵するほどの総動員数を数えるのだから、どれほどの喧噪に包まれるのかは推して知るべし。
サーキットはヘレス中心街から東方向へ車で10~15分ほど走った街はずれに位置し、目の前を走る自動車専用道路も10年少々ほど前に大がかりな改修工事を施され、サーキットエントランスへのスムーズな出入りが可能になった。だが、2000年代中頃までは、会場入り口あたりをウロウロする大人数の観客がひきもきらず、そのために車が立ち往生して金曜や土曜の夕刻はサーキットの駐車場から目の前の道路に出るまで2時間かかる、なんてことも珍しくはなかった。
金曜日や土曜日ですらそうなのだから、決勝日朝ともなると渋滞はさらに尋常ではない。チーム関係者たちは道路が動かなくなることを想定して、夜明け前に現場へ到着できるよう、5時半前後にホテルを出発する、なんてことはけっして誇張でもなんでもなかった。
そして、6時を過ぎて東の空に薄く明かりが射しはじめると、サーキットじゅうのスピーカーからピンク・フロイドの”Shine on You Crazy Diamond”のイントロがたゆたうように流れはじめる。朝の光は徐々に明るさをまし、それにつれてどこからか聞こえてくる密やかな声が少しずつざわめきに転じ、やがてサーキット一帯が朝焼けに包まれるころになると、山肌の観客席がびっしりと人で埋まっている。この独特の明け方の風景が強烈な印象を与えるためか、欧州のレース関係者には、ヘレスの決勝日といえばフロイドのこの曲を連想する、という人が意外なほど多い。
現在では道路のアクセスが大幅に改善されて人と車の動線が混乱することもなくなり、かつてのような渋滞はもはや見られなくなった。それでも、”Shine on You Crazy Diamond”は、いまも決勝日の明け方に必ずコースを囲むスピーカーから流れているという。
さて、レースに話題を転じよう。
2002年はMotoGP元年のシーズンだが、ゴールラインを跨ぐ格好で上空に建設されているあの円形展望施設が竣工したのは、じつはこの年だった。ピットレーンビルディングの1コーナー側にできたこの建造物を初めて見たときは、「なんとも奇天烈なものができたもんだな……」と感心したのだが、いまとなっては当たり前の見慣れた風景になってしまい、むしろこれがなかった時代のメインストレート風景はなにか物足りないような印象すらあるのだから、人間の記憶とはまったく勝手なものだ。
そしてこの年の最高峰クラス決勝は、今に至るも個人的ベストレースのひとつとして強く印象に残っている。
2002年のカレンダーは、開幕戦が雨の日本GP鈴鹿サーキット。ここでバレンティーノ・ロッシが優勝し、ライダーのきらめくような才能とホンダRC211Vの圧倒的な信頼性を満天下に披露した。
第2戦は南ア・ウェルコムサーキットで、ここでもホンダRC211Vが圧倒的な強さを見せつけた。ただし、優勝したのはロッシではなく、チームメイトの宇川徹だった。その宇川に優勝インタビューをお願いし、翌戦第3戦ヘレスで金曜だったか土曜だったかにタップリとレプソル・ホンダ・チームのホスピタリティで話を聞かせてもらったのだが、弾けるような宇川の笑顔がじつに印象的だった。一方、ナンバーワンを自負するロッシにとって宇川に負けた悔しさは隠しようもなく、パドックでは両者の間に微妙な緊張感が漂っていたようにも記憶している。
そして日曜に行われた第3戦の決勝ではロッシが宇川の前でゴールし、シーズン2勝目を挙げたわけだが、このレースで個人的に最も印象に残っているのは、じつは彼ら両選手ではない。2002年第3戦スペインGPの主役は、優勝したロッシでも3位で終えた宇川徹でもなく、第2位でチェッカーフラッグを受けた加藤大治郞だった、というのが個人的な見立てだ。
前年に250ccクラスのタイトルを獲得し、このシーズンから最高峰クラスへステップアップしてきた加藤は、4ストローク990ccのRC211Vではなく、2ストローク500ccのNSR500で参戦した。RC211Vに対するNSR500の不利は隠しようもなく、開幕戦鈴鹿では周回遅れ、第2戦南アでも大きく差を開かれた末のゴールだった。
第3戦でも、加藤の駆るNSR500は見るからに不利だった。最終コーナーから立ち上がる短い加速区間でもRC211Vに大きく離され、それを進入や旋回で細かく細かく詰めていく。
レース序盤から中盤までは、宇川がリードした。ラスト10周が近づいたあたりで、ロッシがあっさりと前に出て独走態勢を作りはじめる。そして、最後の数周で加藤は宇川をパスし、ロッシに迫っていった。全体的な展開としてはロッシが最後までペースをコントロールしたレースで、世界的な人気の絶頂をさらなる高みへ向かって駆け上っていたスーパースターの優勝に、満場の観客は大喜びでバレコールに沸いた一戦だった。しかし、そのロッシが駆る4ストローク990ccマシンの1.190秒背後でチェッカーを受け、同じく4ストローク990ccマシンの3位宇川には1.255秒差を開いてゴールした2ストローク500ccマシンの加藤が見せたこのときの走りは、レースの主役と呼ぶに相応しい、まさに彼の抽んでた能力が存分に発揮されたレースだったと思う。
翌2003年のスペインGPは、数週間前に夭逝した加藤を、関係者やファンの区別なく多くの人々が悼む週末になった。
土曜午後の予選を終えた夕刻、プレスルームで原稿を書きながらふと窓の外に目をやると、”KATO”と手書きで大書された大きな旗が目に留まった。旗が掲げられているのは、最終コーナー手前の右右右と続くスタジアムセクションの観戦スタンド上部あたり。旗の回りには、数名の人影がたむろしていた。
どんな人たちがこの旗を作ったのだろうと思い、原稿を書く手を止めて観戦スタンドまで行ってみた。
プレスルームを出て観戦エリア入り口までぐるりと回り込むように歩いてゆき、スタンド席の上まで登ってみると、テラス風の最上部エリアにいたのは、20代とおぼしき若者たちと、その身内であろう少年少女たち10名ほどだった。
マラガから来たんだ、とリーダー風の浅黒い肌をした若者が言った。
近所の友だちや家族数十人で観戦に来ていると話し、
「加藤はオレたちみんなのヒーローだったんだ。だから、スペインGPで皆の気持ちを表そうと思って、急遽、ありものの素材を寄せ集めて旗を作って持ってきたんだ」
あまり上手にできなかったんだけどよ、とそのリーダーは照れたように笑った。
彼らはいまも、ヘレスへスペインGPを観戦に来ているだろうか。
2000年代前半から中盤にかけて、ヘレスは開幕前公式IRTAテストの開催地でもあった。2月中旬頃にバルセロナ郊外のカタルーニャサーキットで全クラス各三日間(小中排気量は同一日程、その後にMotoGPクラス)のテストを行い、ヘレスへ移動して引き続き同様のスケジュールで各クラス実施する、というものだった。このテストは2000年代後半に世界がリーマンショックに襲われるまで続いたのだが、そんなこともあってこの時期は年に何度もヘレスへ通っていたような記憶がある。
このヘレス公式テストでは、関口太郎が2005年に右脚を骨折して現地の病院へ入院。翌2006年は開幕戦がこのヘレスだったのだが、関口は金曜のセッションで転倒してふたたび昨年と同じ病院へ入院する、というできごともあった。この日の夕刻に関口が搬送された病院へ見舞いに行ったのだが、たしか19時過ぎくらいにサーキットを出ようとしたところ出口が大渋滞していて車がまったく動かず、街はずれの病院へたどり着くまで2時間近くかったような記憶がある。
この2006年開幕戦スペインGPは、ダニ・ペドロサの最高峰クラスデビュー戦ということもあって、大入りの大盛況だった。この時期のペドロサは、2003年に125cc、2004年と2005年は250ccを連覇して3年連続世界タイトルを獲得した超逸材の20歳。その神童が、いよいよ地元スペインの企業レプソルがメインスポンサーをつとめるホンダファクトリーからステップアップしてくるというのだから、これで盛り上がるなというほうが無理な相談である。
レースはドゥカティのロリス・カピロッシが優勝し、ペドロサは最高峰デビュー戦を2位で飾った。レースを終えて「次のレースではもっと速く走れると思います」と述べた自信の強さには驚かされたが、じっさいにこの宣言どおり、ペドロサは一ヶ月半後の第4戦中国GPで初優勝を達成してしまうのであった。
ペドロサが地元ヘレスで初優勝を飾ったのは、そこから少しくだった2008年。この年は、当時犬猿の仲だったホルヘ・ロレンソがヤマハファクトリーチームから最高峰クラスへステップアップしてきたシーズンでもあった。この年のスペインGPは、当時の国王フアン・カルロス1世が来臨した天覧レースだったのだが、表彰式で国王が優勝したペドロサと3位のロレンソの右手をそれぞれとって、握手をさせた。この一件は当時おおいに話題になり、翌日の新聞でも一面で取り上げられていたように記憶している。スペインでMotoGPはそれくらい人気があることの証でもあるだろう。
ロレンソとヘレス、といえば、2010年のレースで優勝した際に池へ飛び込んだパフォーマンスは強烈だった……というかビックリした……というか笑った。あれからもう10年も経ったのかと思うと、何やら不思議な気もする。そんなに古い出来事だったような記憶はなかったのだが、つまりそれだけ自分が年をとってしまったということなのだろう。
翌2011年のスペインGPもロレンソが優勝した。このときはヘレスに珍しくウェット宣言でスタートしたレースで、濡れた路面がどんどん乾いていく難しいコンディション下での勝負になった。
独走で優勝したロレンソは、このときも昨年同様に池に飛び込むパフォーマンスを行ったのだが、飛び込むというよりもその直前に足を滑らせてしまっていたので、水の中へ落ちた、といったほうがむしろ正確な描写かもしれない。
このときはほかにも、最高峰クラス2年目の青山博一がMotoGP自己ベストとなる4位でゴールを果たしている。
さらにこのレースでは、前半8周目の1コーナーでドゥカティ移籍初年度のロッシが転倒し、ホンダ移籍初年度のストーナーをまきぞえにするというアクシデントもあった。ロッシは再スタートしたものの、ストーナーはそこでリタイア。レース後にロッシはストーナーのピットへ謝罪に訪れたのだが、その際にヘルメットも脱がず語りかけてきた様子が不愉快だったのか、ストーナーは表情こそ笑顔を見せながらも「Obviously, your ambition outweighed your talent.(自分の実力じゃできもしないことを、ムリにやろうとするからだよ)」と、かなりキツい言葉を返した。申し訳ない、とさらに手を合わせるロッシにストーナーは、「ああ、全然いいよ」と笑顔のまま上腕を叩き、クルリと踵を返してピット裏へ去っていった。このときの彼らの緊迫したやりとりは、いまも公式サイトのレース映像で確認することができる。
2012年以降も、ヘレスでは毎年、見応えのある戦いが繰り広げられてきた。だが、ここに紹介してきたような鮮烈な印象のレースは、どちらかといえば近年では少なかった気がする。もちろん、最終コーナーの攻防でマシンが接触して片方がコースアウトする……、という展開は昔から何度も繰り返されてきた光景で、最近も何度かそんな出来事はあったと記憶している。
今年は、当初のスペインGPが予定されていた5月3日にバーチャルGPが開催された。それはそれで、まあ、それなりに面白い企画だったのだけれども、ホンモノのヘレスの〈三密〉パドックへ戻れる日が一刻も早く来ることを願いながら、今回はひとまずこれまで。ではまた次回。
[5月7日追記]
5月6日付けのヘレス地元新聞“Diario de Jerez”によると、ヘレスサーキットで7月19日と26日に2週連続レースを行う方向で調整が進んでいるという。当該記事では、レースは以前から検討されている無観客方式での開催で、アンダルシアの自治体当局者とヘレス市長、そしてDORNA Sports CEOの三者間で欧州時間7日に協議と合意が交わされる見込みだと報告している。
3月から厳格なロックダウン状態が続いていた欧州では、地域によって少しずつ行動制限が緩やかになり、経済活動も段階的に再開させていく方向で動きはじめている。レース再開に向けた当事者間の協議は、これらの前向きな状況が背景にあるのだろう。とはいえ、じっさいにレースを実施するためには、現在の感染蔓延がこのまま終息に向かい、イベント開催予定時期にはかなりのレベルで安定した社会活動を取り戻せていることが合意成立の前提条件になるのであろうことは容易に推測できる。その意味では、このニュースがけっして安易に楽観視できるものではないことは充分に留意しておくべきだが、ともあれ、このような情報が出てくることは、レースの再開に向けて状況は半歩か1/4歩くらいは前進している、といえるのかもしれない。
だが、現在の世界の感染状況は、まだとても気を緩める状況にはないこともまた、事実である。というわけで、引き続き各種事態の推移を注意深く見守りながら、次のフランスGP篇でお目にかかるといたしましょう。そしてもしよろしければ拙著『再起せよ スズキMotoGPの一七五二日』も、機会があればお手にとっていただければ幸甚であります。では、また。
【西村 章】
web Sportivaやmotorsport.com日本版、さらにはSLICK、motomatters.comなど海外誌にもMotoGP関連記事を寄稿する他、書籍やDVD字幕などの訳も手掛けるジャーナリスト。「第17回 小学館ノンフィクション大賞優秀賞」「2011年ミズノスポーツライター賞」受賞。書き下ろしノンフィクション「再起せよースズキMotoGPの一七五二日」は絶賛発売中。
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