やあみんな。今日も元気に8割減しているかな? さて、「MotoGPはいらんかね revisited」第2回はアルゼンチンGP篇である。南米アルゼンチン、テルマス・デ・リオ・オンドのレースは、2014年から開催されている。アルゼンチンGPそのものは、1961年~63年、82年、87年、94~95年、98~99年まで開催されていたので、MotoGP時代のアルゼンチンGPは、正確にいうならば〈再開〉、といったほうがいいのだろう。ただし、2ストローク時代のアルゼンチンGP開催地はブエノスアイレス郊外にあるオスカル・ガルベス・サーキットで、現在のテルマス・デ・リオ・オンド・サーキットとは異なる場所である。
で、このサーキットがあるテルマス・デ・リオ・オンドなのだが、これが恐ろしく遠い。
日本からグランプリが行われる各地へ赴く場合、南米大陸がおそらく最も時間のかかる場所であることはまちがいない(過去には南アフリカのウェルコムという、これまた恐ろしく遠い場所もあったのだけれども)。北米経由のルート(地球の自転と逆行する方向で太平洋を横断してから南下)と欧州経由のルート(地球の自転方向へ移動してから大西洋を縦断)を比べると所要時間に大差がない、という事実をみても、それは明らかだろう。
南米大陸では、2004年までブラジルでレースが開催されていた。1987年~89年は、ブラジリア近郊のゴイアニア、92年はサンパウロ近くのインテルラゴス、そして95~97/99~2004年がリオ・デ・ジャネイロ郊外のジャカレパグアが開催地となった。
当時を知る人から話を聞くと、ゴイアニアやインテルラゴスもいいかげん遠かったようだが、少なくともジャカレパグアに関する限りは、実際の日本からの移動距離の大きさに比して、極度に疲労感を感じるほどの辛さではなかったように記憶している(忘れてしまっただけかもしれないけれども)。その理由はおそらく、旅程が単純だったからだろう。
約12時間の長距離フライトを2本耐えてリオ・デ・ジャネイロ国際空港へ到着さえしてしまえば、あとはホテルへ移動するだけ、という単純な旅程で、あとはいつもの週末のように毎日、宿とサーキットを往復するだけ、というスケジュールである。
ただし、リオGPに関しては別の意味で面倒くさいことがあった。リオ・デ・ジャネイロの治安があまりよろしくないという理由から、MotoGPを運営するDORNAは関係者の宿泊するホテルを巡回するシャトルバスを手配しており、この運行時間に合わせて現場での仕事を切り上げなければならなかったのだ。ジャカレパグア・サーキットはリオの街から小一時間ほどの場所にあり、自分の自由な時間に仕事を切り上げて自前のレンタカーで撤収するというわけにはいかなかったので、それがどうにも窮屈だった。
とはいえ自分自身の皮膚感覚でいえば、リオの街は事前に言われていたほど危険な印象もなく、毎朝、夜が明けるとコパカバーナビーチをジョギングしてからサーキットへ出かける、という日々で、どちらかといえば愉しい印象の多い開催地だった。某チーム関係者が恐喝に遭ったというような噂も、あるにはあったけれども。そして、この時期に公開されたフェルナンド・メイレレスの『シティ・オブ・ゴッド』を観ると、やはりとんでもなく危険な一帯がこの地域にあったことは間違いなさそうだけれども。
レースについていえば、このサーキットでは印象的なリザルトが多かった。
2002年には、バレンティーノ・ロッシがここでMotoGP初、自身は2年連続となるチャンピオンを獲得した。たしか、土曜までの好天と一転して決勝レースは大雨になったと記憶している。自分はこれまで、選手の国籍や所属チーム・メーカーなどで分け隔てをすることなく取材を進めてきたつもりだったが、このレースでのロッシのチャンピオン獲得を阻止できていたはずの日本人選手たちが次々と雨の中で転倒していくのを目の当たりにしたとき、それを見て悔しく感じている自分を発見し、とても意外な気がした。イタリアのジャーナリストたちがロッシの王座獲得に大喜びしていただけに、よけいにそう感じたのかもしれない。そんなこともあって、このレースは自分にとって、スポーツとナショナリズムについてさらに深く考える大きなきっかけになった一戦で、その意味でも非常に印象深く記憶している。
2003年には、MotoGP参戦初年度の玉田誠が3位表彰台を獲得した。これは、玉田自身にとっても、当時彼が履いていたブリヂストンにとっても初めての表彰台だった。翌2004年には、7月4日に行われた決勝レースで玉田が優勝を飾っている。ブリヂストンと玉田双方の初勝利、というじつに感動的な快挙だった。この決勝レースでの玉田は、ほんとうに速かったし、安定した強さを発揮した。そして、この年を最後に、南米のレースは10年ほど空白期間があくことになる。
ネルソン・ピケ・サーキットとも呼ばれていたジャカレパグアは、2016年のリオ・デ・ジャネイロ・オリンピックの競技会場として改装されたため、すでにサーキットとしての姿は残っていない。いつだったか、施設の配電盤のブレーカーが落ちて停電した際には臨時照明として投光器がプレスルームに持ち込まれ、その放熱で部屋の中がものすごく暑くなった、なんて出来事も、いまとなっては懐かしい思い出である。
さて、現在のアルゼンチンGP開催地、テルマス・デ・リオ・オンドである。冒頭に述べたとおり、これがとにかくおそろしく遠い。日本から当地へ赴く場合、北米もしくは欧州のどこかの中継地へ着くまでが、まず12時間。その後、何時間かの待ち時間を経て乗り継ぎ、ブエノスアイレス国際空港までほぼ同様の時間を要する。これだけですでに日本の自宅を出てから30時間以上が経っている。次に、ブエノスアイレス国際空港(エセイサ)から国内便のハブ空港(アエロパルケ)まで移動しなければならない。イメージ的には、成田空港から羽田へ、あるいは関空から伊丹へ移動するような時間と距離感だろうか。
アエロパルケ空港からテルマス・デ・リオ・オンドまでの距離は約1200km。テルマス・デ・リオ・オンドの街はずれにも空港があるにはあるのだが、チャーター便等に使用される程度の小さな空港で、言ってみれば調布飛行場や八尾空港のような規模なので、一般的にはテルマス・デ・リオ・オンドの北方100kmにあるトゥクマンという街にある空港を利用することになる。あんたがたトゥクマン……、いや、なんでもないです。
つまり……、
日本→(国際線12時間)→北米/欧州→(国際線12時間)→エセイサ→(タクシー等で1時間)→アエロパルケ→(国内線1時間)→トゥクマン→(レンタカー1時間半)→テルマス・デ・リオ・オンド
という長い長い旅程を経てようやくサーキット最寄りの街に到着する、というわけだ。書いているだけでもう充分にくたびれる。
しかし、南米唯一の開催地だけあって現地の盛り上がりはとにかく熱狂的で、つくづく来て良かったと感じさせる独特の賑わいを見せる。レース期間中は、南米各地から押し寄せたファンで街全体が総出のお祭り騒ぎになり、夜中になってもバイクの爆音がホテルの部屋の中まで轟いてくる。
レースも、他にないほど強い印象を残すものがいくつかある。
たとえば、2016年のMoto3クラスでは、世界選手権参戦2戦目のカイルール・イダム・パウィが不安定なウェット路面で圧倒的な安定感と速さを見せ、独走の初優勝を果たした。パウィ自身もビックリするくらいの劇的な初優勝だったが、マレーシア、そして東南アジア全体にとってグランプリ初優勝という記念すべき出来事だった。このときは、同じマレーシア出身のアダム・ノロディンも終始3番手を走行しており、マレーシア人ダブルポディウムというものすごい快挙を達成するかとも見えたのだが、残念ながら最終ラップに転倒し、惜しくも表彰台を逃してしまった。
MotoGPクラスのレースでは、2015年の予選で復帰初年度のスズキでアレイシ・エスパルガロが2番グリッドを獲得して「えッ!?」と思わせる出来事もあったのだが、なんといっても強烈なのは2018年のMotoGPクラス決勝レースだろう。
スタート時には、ポールポジションのジャック・ミラーに対して残りの選手たち全員が5列後方に並ぶという、意図せざる〈ソーシャルディスタンシング〉が発生。レース中には、後方から追い上げてきたマルケスがロッシに接触して転倒させるアクシデントが起こった。優勝したのはカル・クラッチローなのだが、あまりにもたくさんの出来事が次々に発生したこの決勝レースで、いったい何が起こっていたのか、というその詳細については、当時の拙稿をご参照いただきたい。今回ざっと読み返してみたのだが、我がことながらよく取材しているなあとヘンに感心した。
とにかく、このときの決勝が前代未聞のレースだったことはまちがいない。いまでもよく憶えているのは、レース後のロッシが、感情のリミッターを越えた人にときおり見られる妙にリラックスした様子だったことと、それに対してマルケスが取材にやってくるまでのチーム関係者の雰囲気や、ようやく本人が囲み取材の場にやってきたときのその場の空気には、かなりピリピリと張り詰めたものが感じられた、ということだ。
それで思い出したのだが、このとき、マルケス以外にもホンダ関係者の話を聞きたいと思っていると、HRCゼネラルマネージャーの桒田さんが硬い表情で足早にオフィスへ入っていく姿を見かけた。張り詰めた雰囲気で近寄りがたい気もしたのだが、チームの広報担当者に「2~3分でいいから話を聞けない?」と訊ねると、即座に「ダメ」とひとことであっさり却下された。それでもまだしばらくオフィスの外でうろうろしていると、今度は顔見知りのHRCスタッフが中から出てきた。「ご多忙なところ申し訳ないんですが、桒田さんに2~3分程度、話を伺いたいんですけど……」と白々しく話しかけると、「あー、そうなんですか。いやー、いま、中にいないんですよ。僕らも捜してるんですけどねー」というので、「あれ、さっき中に入っていったように見えたんですけど」と重ねて訊ねたところ、「いや、いないんすよ」との返答だったので、なるほど、これは今日はもう無理ということなんだな、と諦めたのだった。たしかこの日は、夜11時過ぎくらいまでメディアセンターに居残って仕事をしていたような気がする。
そしてレースを終えた翌日からエールフランスがストライキを決行したため、ブエノスアイレスに2泊する足止めを食らうことになり、パリ経由で日本へ戻ってきたときはたしか金曜か土曜になっていた。ここまで極端な経験はあまり繰り返したくはないけれども、ともあれ、そんなダイナミックな国際間移動をできる日が一刻も早く戻ってくることを願いつつ、今回はひとまずこれまで。
【西村 章】
web Sportivaやmotorsport.com日本版、さらにはSLICK、motomatters.comなど海外誌にもMotoGP関連記事を寄稿する他、書籍やDVD字幕などの訳も手掛けるジャーナリスト。「第17回 小学館ノンフィクション大賞優秀賞」「2011年ミズノスポーツライター賞」受賞。書き下ろしノンフィクション「再起せよースズキMotoGPの一七五二日」は絶賛発売中。