古希(70歳)を迎えた記念に「世界の屋根」と称される、標高5,000mを超えるヒマラヤの秘境をツーリングするため、レポーターはインドの北部ラダック地方にやってきた。インドチベットを代表するレーという街を基点に、ラマユル 、ヌブラ・バレー、パンゴン湖といった秘境中の秘境をロイヤルエンフィールド ・ヒマラヤンで巡ったツーリングは、過酷さと大きな感動を与えてくれた。
峠を越えて
前回ご報告した日帰りツーリングでは、身体の高度順応のため標高3,500mのレーから、ほぼ同じ標高3,510mのラマユルの間を走ったのだが、日本でのツーリングでは大した疲労も感じない距離(片道114km)であっても、ヒマラヤでの疲労の感じ方は全く違い、標高が高いという環境の厳しさを実感させられる一日だった。その翌日にヌブラ渓谷に向かうため、今回のツーリングのハイライトの一つカルドゥン・ラ峠を越えたのだが、ここがまた難所であることも前回のレポートで紹介した通り。レーの街から峠の頂上まで標高差1,859mのつづら折れの道路を一気に登坂するのだから、過酷以外の表現はあてはまらないだろう。
しかし、さらに試練が待ち受けていたのはカルドゥン・ラ峠からヌブラ渓谷への下りで、当然だが登ってきた道程と同様の高低差を下らなければならないことだった。先にも紹介したが、ラダック地方の主だった道路の大半が軍用道路であり、目的地(軍用施設間)までのルートを最短で結ぶように作られている道路がほとんどだ。したがって目前にそびえる山であろうが、えぐられた谷であろうが建設できると判断された最短のルートで道路が敷設されているといっても過言ではない。したがって道路環境はと言えば、登坂傾斜は流石に兵站運送用の軍用トラックが走ることを想定して作られているが、それでも急斜度の部分も結構あり、バイクでもきついような所や、乗用車がすれ違いのできないような場所すらあるのだから、過酷な運転が強いられる。過酷さにおいては、ヌブラ渓谷への下りはレーからの上りとは少し異なり、谷沿いに延々と下っていくといった感じで、ヌブラ渓谷が見えてくるまでの道のりの長く感じること、半端ない。途中の「North Pullu」(ノース・プル)での昼食休憩を取らなかったら、精神的にダウンしていたのではと思えるほど疲労感に苛まれた。
急峻な下りに神経を集中させ、目的地への到着の思いを励みに運転するのだが、途中で心が何度も折れそうになった。やっとの思いでヌブラ渓谷を流れる「Shyok River」(ショク川)が見えた時、ショク川の河原と我々が走ってきた道路とのさらなる高低差に唖然とした。これでもかとの思いで下ってきたにも関わらず、川原まではさらに下らなければならない崖が目前に現れるのだから、その落胆はかなりのものであったことを想像してほしい。ヒマラヤの奥の深さ、スケールの大きさを思い知らされ、自然の大きさを改めて実感せざるを得ない瞬間であった。
圧倒されっぱなしのヒマラヤの大自然の中、ヌブラ渓谷へのツーリングは、その自然の中に身を置くことも目的だったが、渓谷にある「Diskit」(ディスキット)という古代の行政の中心地であった村に14世紀に建立されたとする「Diskit Gompa」(ディスキット・ゴンパ=修道院)という、ヌブラ渓谷で最大かつ最古と言われるチベット仏教の有名な修道院があり、そこを尋ねることも目的の一つだった。
ショク川の河原まで降りてくると、それまで眼下に滔々と流れていた流れが消えて、ヌブラ渓谷は一転して砂漠に姿を変えていた。川幅も広く、相当な流量のあった川が忽然と消えたのだ。砂漠の河原に点々と現れるオアシスのような緑に寄り添う形でディスキットの村はある。ヌブラ川に合流する前のショク川の河原に沿って道路が敷設されているのだが、舗装された路面には轍の後が消えゆくぐらいの砂が積もっていて、砂上を走ると車体を左右に持っていかれるので気を緩めることはできない。ディスキットの村を見下ろせる丘の上に黄金に輝く巨大な「仏像」(マイトレヤ・ブッダ像)が見えてくると、そこが修道院だ。ヌブラ渓谷を挟む険しい山の急斜面にへばりつくように建てられているディスキット・ゴンパは神秘的なチベット仏教をさらに神秘のベールで包んでいるように見える。
ヒマラヤの険しい山塊の奥地にひっそりと佇む谷間のオアシス、ヌブラ渓谷とディスキットの村は巷間言われる「秘境中の秘境チベット」の言葉通り、チベットの秘境と呼ぶにふさわしい場所であった。
ヒマラヤ山中の砂漠
ヌブラ渓谷はレーから116km程の距離で日帰りの訪問も可能だけれど、そのルートの過酷なことは報告の通りで、ましてやヒマラヤの景観を楽しみながらのツーリングをしたいのであれば一泊での訪問をオススメする。当然、我々はディスキットの隣の村「Hunder」(ハンダー)に宿泊してレーに戻るスケジュールとした。このような余裕のあるスケジュールにしたことは帰国してから思い返すと「正解」だったと改めて実感した。と、言うのもハンダーに宿泊し、前日に来た道「カルドゥン・ラ」をゆっくりと余裕をもって引き返したおかげで、ヌブラ渓谷の砂漠の景色をゆっくりと楽しめたことや、前日通ってきたルートで見落とした風景を十分楽しむことができたと感じたからだ。運転中に風景を楽しむことはツーリングの醍醐味だが、交通環境の違う海外での運転には十分な注意が必要であることは賢明な読者には釈迦に説法だと思うが、ヒマラヤではさらに道路事情の過酷さによって自身の生命に関わる危険が加わるという意識が必要だ。
「Hunder Sand Dunes」(ハンダー砂漠)はカラコルム山脈「シアチェン氷河」を源とするヌブラ川とパキスタンの「ギルギット・バルティスタン州」へと下るショク川が運んできた砂塵で埋め尽くされた河原が砂漠になったもので、砂の中には大きな岩の塊も混じっていて、まるでSF映画の中に出てくるワンシーンのような不思議な光景が広がっていた。
カルドゥン・ラへ戻る道は、来た時より短く感じられたが急峻な登りが延々と続く過酷な道であることに変わりはなかった。救いだったのは、来た時は曇り空だった空は快晴となり、紺碧の空に映える少ない緑の斜面にヤクの群がのんびりと餌を喰んでいる姿が妙に穏やかで、不安な気持ちを落ちつかせてくれたことだ。
次なる峠「チャン・ラ」との戦い
ヌブラ渓谷からレーに戻った日、ホテルに直行せず、出発時に給油したガソリンスタンドでヌブラ渓谷の往復で消費した燃料を補給し、バイクを借りたレンタル店(Tashi)へと直行した。レンタル時にメンテナンスの交渉をした際、各々ツーリング終了時毎にバイクのメンテナンスチェックを行う契約にしてあったので、ヌブラ・バレーから帰ったタイミングで点検整備をしてもらうためだ。途中特に不具合はなかったのだけれど、自分のバイクはレンタル時に気になっていたブレーキをチェックしてもらい、リアブレーキのパッド交換とドライブチェーンの給油を行ってもらった。各人、気になる点をチェックしてもらいホテルへと戻った。こうしたフォローをしてもらえるのは不安要素の多い見知らぬ地でのツーリングにはとても安心できる良いサービスだ。サポートがない個人ツーリンングでは特に注意してレンタル店に確認要求しておきたいポイントだ。
翌日(レー6日目)は世界一高所にある塩湖として有名な「パンゴン湖」へと向かって出発した。毎度朝はグダグダで、目が覚めたところで出発時間を決め、適当なスケジュールで走り始めるといういい加減な行動に変わりない。レーからパンゴン湖までは175kmとヌブラ・バレーまでに比べさらに距離がある。勿論、越えなければならない峠「チャン・ラ」もある。当然のごとく舗装路と未舗装路が入り混じる過酷なルートに変わりはない。事前に得ていた情報では、今年の異常気象がもたらした雨量が例年になく多いということで、途中にある「洗い越し」(道路上を川が流れている場所)の水位が高く注意が必要とのことだった。そこで、当初はヌブラ・バレーからパンゴン湖に直接アプローチできるショク川沿いのルートを走る計画を立てたが、リスク回避ということでチャン・ラ峠ルートに変更したのだけれど、それでも過酷さは十分だった。
レーからレー・マナリ・ハイウエイ(ハイウエイとは名ばかり)を南下し、「Karu」(カルー)という町で「Pangong Lake Roard」(パンゴン湖道路)に入り、しばらくは快適な舗装路を走るのだけれど、通行許可証のチェックポストを過ぎてしばらくすると、カルドゥン・ラより道幅は広いが未舗装のダートが始まり、ぐんぐんと高度を上げていく。エンフィールドのエンジンも心なしか吹けが鈍くなったように感じると、人間のパワーも落ち喉の乾きが最悪の状況になっていた。出発前にペットボトルのミネラル水を仕入れていたので、こまめな水分補給で体力維持はできていたが、「ヒマラヤ恐るべし」今回の計画を立てた時の心構えが「ヒマラヤをナメていた」と気が付いた。それでも完全な高山病にはならなかったことに感謝しつつ、峠の頂上を目指してアクセルを開け続けた。
チャン・ラ峠頂上の酸素が薄い状況はバイクを動かすだけでわかる。記念写真もままならぬうちにパンゴン湖に向けて出発することにした。チャン・ラ峠からパンゴン湖への下りは、クリーム色のマーブル模様に輝く峰々の間を縫って降りてゆく。時には谷間の河原に作られた砂利道を走り、流れのある川渡りをしなければならない場面にも遭遇した。ヌブラ渓谷と同様に、気力も体力も消えかけそうになった時、稜線の切れかかったところにパンゴン湖の青い湖面が見えて来た。
もう一つの世界一「パンゴン湖」
稜線の合間から見えてきたパンゴン湖のブルーは、砂漠の中のオアシスのように、美しいだけでなく命をつなぐ天国のような光景に見える。パンゴン湖はヒマラヤ山脈の山中、標高4,250mに位置し、世界で一番高い場所にある塩の湖だ。富士山よりも高い位置にあり、塩湖としては世界で最も高い所にあるため、塩湖にもかかわらず結氷し、冬には1mものぶ厚い氷に覆われるそうだ。また、インドでは歴代興行収入一位の人気映画『きっと、うまくいく』(Three Idiots)のロケ地としても有名で、僻地であるにも関わらず観光客に大人気の場所でもある。レーからタクシーをチャーターして訪れる観光客が後を絶たないそうだ。
さらに、この地域は古くから中印国境紛争の係争地(両国の実効支配線)に近く、武力衝突の火種になりやすい地域としても注視されているが、その美しさは見た者の心を奪わずにいられない。争いごととは無縁であるはずの自然をそっとしておいてほしいと祈るばかりだった。山中に静かに佇むパンゴン湖には、広大な湖のところどころの湖畔に小さな村が存在するが、素朴な佇まいの村々は、よそからやってきた都会人の喧騒を一飲みにしてしまうほどの静寂に包まれていた。
その小さな村の一つ「Man Village」(マン村)にある、この地方でポピュラーな宿泊形態(日本の民宿に似ている)のホームステイに我々は投宿した。現地で生活をしている家族の家に泊めてもらい、食事とベッドなどの面倒を見てもらうのだけれど、地元民ならではのホスピタリティと地元料理の暖かさが疲れた身体に染み渡った。そして近くにある「Hanle Village」(ハンレ村)という村には、これまた世界で一番の高所に建てられた「インド国立天文台」(標高4,500m)があり、星降る夜空を満喫するにはうってつけの場所なのだ。
レーの街
パンゴン湖から、行きと同じルートでレーへと帰ってきた我々は、最後の日はレーの街を観光することにした。当初、最終日はツーリングでのアクシデント、またはスケジュール変更を想定して、予備日として予定は何も入れないことにしていた。したがって最終日(レー8日目)はバイクをレンタル店に返却するだけの予定だったのだが、1週間ほど過ごしてみるとレーの街は東への移動は登り、西への移動は下りと、街中を移動するには非常に偏った労力を必要とすることに気がつき、レー観光は返却前にバイク移動で行うべしと悟ったのである。午前中からシャンティー・ストゥーパ、レーの旧王宮(レーパレス)を周り昼食を挟んでメインマーケットで土産物の物色と、バイクがあったおかげで効率よく観光ができた。
中でもシャンティ・ストゥーパはレーの街の東北部、レーパレスから町の中心部を挟んで反対側に位置する山を登ったところに建つ白い仏塔で、日本の妙法寺の僧侶である中村行明氏が世界平和を祈念し、1991年に建立した近代的な寺院・仏塔だ。一般の観光客も街中からでもタクシーで来訪するぐらいの高さだから徒歩での来院は大変である。実際、我々が見学をしている最中に、ベンチで意識のない状況で腰掛けているアジア系の若者(後で韓国人と判明)に遭遇し、大騒ぎになったぐらいで高山病の恐ろしさを再度見せつけられた思いだった。
レーパレスは、これがまた町の中心部の南東側の断崖に建てられた要塞のような建物で、やはりアプローチにはエンジン付きの乗り物が無いとリスキーなポイントだった。レーパレスはその名の通りラダック地方を治めていた王様の城だが、その生い立ちの説明書きを読む気力がなくご報告できないことをお詫びする。しかし、王宮の上層階テラスから見た緑の中のレーの街と周りの山々の景色はフンザ村にも勝る桃源郷だと確信した。
ツーリングを終えて
日本からの往復フライトを入れて約10日間のスケジュールで決行した古希記念ツーリングも無事終了することができた。何を持って無事というかは読者のご判断にお任せするが、とにかく日本には帰ってくることができた。計画当初に思い描いていたツーリングと相違があったかどうかと問われれば、正直なところ相当の違いがあったと言わざるを得ない。
一つには、ヒマラヤという大自然のスケールの大きさ、完璧とは言いがたいかもしれないが、人間の手が付けられていない景観の美しさや素晴らしさが想像以上だったことだ。
そして、それとは真逆の、危険との隣り合わせ、取りも直さず高所リスクの厳しさだ。それは年齢的な問題が関係したかと問われれば微妙だが、明らかに「もう少し若いうちに来るべきだった」と何度も思ったことは事実だ。
ルートの険しさも、実際に走ってみて思うことは、今後、観光地化も進んでいくだろうし地元の生活環境の改善と共にインフラ整備は進むに違いないと思うが、「ヒマラヤを甘く見る」ことはやはり危険だと判断せざるを得ない場所が幾つもあった。
危険との隣り合わせの大自然こそが魅力ではあるのだけれど、その魅力を体験できたという結果は、無事に計画を遂行できた結果であり、同行してくれた三氏や手助け頂いた上甲氏、レンタルバイク店のボス、ホテルのマネージャーなど沢山の方々のご協力のおかげと準備があってのことと、今更ながら感謝に堪えない。
(レポート・写真:泉田陸男)
※お詫びと訂正:本レポート前編で、地名を「カルドゥング・ラ峠」と表記しておりましたが、「カルドゥン・ラ峠」が一般的との指摘がありましたので、お詫びとともに訂正します。