朝の儀式。
南東ヨーロッパの国、アルバニア。地図で指し示す場所も首都がティラーナという町であることも、インターナショナルGSトロフィー2022が行われなければ知らなかったかもしれない。
イベントは2日目の朝を迎えた。夜が明けた。昼間と比べたらひんやりとした空気。参加者達がテントを張った砦の中にある芝生エリアは微妙な傾斜もあり、テントを張った場所によっては、あるいは今だ醒めぬ人生一度のイベントが始まった興奮でぐっすり眠れなかったライダーもいたに違いない。快適な就寝場所のキープ、これは多人数で移動をするインターナショナルGSトロフィーででは必須になる休息のスキルかもしれない。
起床時間近くになると目覚ましの音があちこちのテントから響く。寝袋のファスナーを開き、テントから這い出てきたライダー達。アジア圏、北南米大陸からのエントラントは優に8時間以上の時差があり、昼夜逆転して数日後。まだまだ体的にはツライ部分もあるはずだ。
とはいえ、それも織り込み済み。トイレやシャワールームが男女で分かれるのは当然だが、このテントエリアには特に国別や男女別でエリアを区切ってはいない。ただただ各国で選抜されたライダー達が寝起きを共にすることになるのだ。
身支度をすませキャンプを撤収。ダッフルバッグに詰め、その集積場所へと運ぶ。必要であればトイレに出向いて用を足し、ヘルメットやネックブレイス、ジャケットなどをバイクが停めてある場所に運び、車体に置く。そして昨夜盛り上がった巨大な特設テントでケータリングの朝食を摂る。この日は、キャンプエリア、トイレ、食事テント、そしてバイクのパーキングがそれぞれ離れていたので、移動時間を計算しながら動く必要があった。
メッツラーチャレンジで競う、
体力、知力、チーム力。
2日目のスタートは古城でのスペシャルステージから始まった。今大会にもタイヤを供給しているメッツラータイヤ。新作のカルー4を全車が装着している。そのブランド名を冠したステージが始まる。
バイクのパーキングエリア近くに設けられたスタート地点にチームの3名のライダーがR1250GSを運び並べる。ルールはこうだ。
・3台のうち1台のフロントタイヤから空気を抜く。
・前輪がパンク状態でおよそ50メートル先にあるサービスポイントへと押して運ぶ。
・空気が抜けた前輪を指定された工具キットを使って外し、エリアの隣にあるテントに置かれたコンプレッサーで2barの空気を入れる。
・再びバイクの場所まで持ち帰り、装着し、サービスエリアからゴールラインまでバイクを押して運び、フィニッシュ。
・そこでタイヤ着脱に技術的な間違い、問題はないかをチェック。ABSのセンサーや締め付けトルクがある程度正しいかがスタッフによりチェックされ、問題があればペンルティータイムが加算されるというもの。
ABSのセンサーも取り外す。そしてアクスルシャフトを抜き、前輪を外すためにチームメイトが後輪に座り、フロントを浮かす。空気を入れ、前輪が戻るまでこれを続けるのだ。
スタートからゴールまで石畳の道だ。多少の下り導線とはいえ、フロントの空気圧が抜かれた270㎏のバイクは重たい。チューブレスリムだからビードが落ちることはない。が、それでも先行チームの様子を見ると、ゼロスタートから加速を付けるのに苦労をしている。
チームジャパンの出番だ。空気圧ゼロにしたGSをプッシュするのは体重100㎏を誇る舟橋が担当。持ち前のパワーであっけないほどスルスルと押してゆく。藪田、中澤両名もバイクを押しながらサービスエリアを目指す。滑り出しは好調。
サービスエリアに着くと、用意された工具を使い作業が始まる。こんなこともあろうかと、代表選手達はトレーニングメニューに加え経験もしてきた。しかし、用意された工具はあくまでも携帯工具サイズのもの。インパクトレンチもラチェットレンチなどもない。いつもと違う工具の取り扱いにも戸惑いながら、着々と作業をする。
舟橋中心に作業を進め、空気を充填。再び前輪をバイクに装着後、ゴールラインへ。締め付けトルクの感触はいつもの工具ではないから解らない。緩いよりはと舟橋はキッチリとボルト類を締めていた。それでもいつもはトルクレンチで締めるだけに、こんなものだと思う、という値に狂いはなかったようだ。首尾良くこのゲームを終え、13世紀の城砦の史跡から下り、その日の移動が始まった。
やっぱり移動区間がハード
初日、私達を先導したマーシャルは、「今日より明日、明日より明後日と段階を追ってルートを走るスキルレベルは上がってゆく」と話していた。初日でアルバニアの「洗礼」を受けたこともあり走行時、誰もが緊張感を持ちつつも淡々とこなし、次第にライディングに軽さも出てきたようだ。それでも荒れた路面では暴れるバイクをいなすことに精一杯、という場面も見受けられる。
重たいバイクで荒れた路面を通過する時、シンプルに転がすように走らせ、路面からのキックバックなどと戦っては不利だ。いわゆるトレールバイク的なオフ車より剛性バランスが高いアドベンチャーバイク。パワーもトルクもある。「バイクが暴れたら開けてゆけ!」という伝承もあるが、それは概ねマイナス方向に作用することが多い。
開ける前に、開けなくても良い速度を維持し、バランスが崩れない(暴れない)速度を見極め、その場を通過する。一番体力も使わずに難所をやり過ごす方法だ。
慣性を殺さず、しかしオーバーペースに注意を払い、ギャップを避けるラインを選び、路面とタイヤのトレッド面が無駄に滑ることのないようアクセルを開け必要な分だけ駆動を伝える。
実にシンプル。しかし、ライダーなら誰でも経験をしていると思うが緊張したり興奮したりするとこうした簡単なコトが頭から離れ、容易にバイクを暴れさせてしまう。平常心と言えば簡単だが、ドジをしたとき、冷静を装ってはみても、内心の焦りは隠せず、何倍も失敗をすることがある。オフロードライディングはメンタルを揺さぶる落とし穴の宝庫。だから奥が深い。
後ろからチームの走りを見ていると、時折そうした状況に嵌まりつつあることが解る。言うは易し、である。後ろから見ていればそうした場所を回避することもできる。それでも休憩の際に「リラックス!」という趣旨のコトをライダー達に伝えた。それでも次第に走りを道に合わせアジャストし始める姿に、さすが日本代表としてこの場に居るだけのことはあるな、と思った。
二つ目のステージは5秒間隔スタート。
そしてランチ前のタイミングでこの日、二つ目のスペシャルステージが設定された場所に到着した。それは牧草地のような場所で開催された。スタート地点がもっとも高い場所にあり、そこから斜面に設けられたパイロンルートを右に左にターンしながら下り、大きなS字を描くように走り、再びスタート地点に戻る。スタートはイグニッションオン、エンジンオフの状態から3台が5秒間隔で走り出し、全員が戻るまでストップウォッチは止まらないというもの。また、足着き、転倒、パイロンタッチ等はペナルティータイムが加算されるのだ。
ルール説明が終わるとスタートを迎える。下見をする時間も猶予も与えない。それが今回の方針のようだ。そもそもインターナショナルGSトロフィーは人生に一度、しかも一発勝負の繰り返し。下見して練習して戦略をたてて、という悠長なゲームではない。だれもがイコールコンディションでスタートを切る。だから他国の選手も全体を見渡せる場所から眺める、ということは認められていない。
プレス参加の僕はチームジャパンがスタートを切る前にコース内のほど良い場所で眺めることにした。するとどうだ。スタートから見切れた下り導線に狭いS字状に走るルートが設定されている。五秒間隔でスタートするのはここで揺さぶるためだったのか!
5秒間隔でスタートだと車間距離が短い。直後のターンは比較的緩めに設定されていて、ライダー達はアクセルを思わず開けたくなる。先頭のライダーがその場所を下りにかかってから初めてそのライン気がつく。それはあらかじめ進入するラインにゆとりを持たせないと奥がきつくなるもの。気がついた時には遅い。もちろん、選手達はヘルメットに装着したヘッドセットで会話は可能。しかしアッ! と思った直後、2番手ライダーが、そして3番手ライダーがそこへと通りかかる。回れるならそのまま。しかし、回れないとしたら、パイロンタッチか、足着きをしてでも回すのか、瞬時にライダーは判断をしなければならない。
もちろん、バランスを崩し転倒でもしたら、起こす時間に転倒ペナルティーの時間が加算される。ライディングの精度はもちろんそうした判断の連続が求められる。どの国を見ても開けっぷりで勝負をしていない。着実に進むスタイルが主流だ。
つまり頭脳戦なのだ。5秒間隔の裏側にそうしたことがあるかも、と逆に車間距離をあけ、有視界を確保しつつ先行を走らせてからその情報を得て走るクレバーさも重要になる。その間、数秒の遅れよりペナルティーでもらう加算タイムのほうが大きいし、どのみち、3名がフィニッシュラインを通らないといけないチーム戦。
チームジャパンは、舟橋からスタートし、あっという間に藪田、中澤の両選手が続く。最初はワイドターンだが、その先にコーステープで仕切られた狭められた右90度を抜けると、左90度の位置にパイロンが。その先、3メートルほど下ると今度はさらに90度左にパイロンが。タイトな設定で、その先はアクラポビッチのナバーをジグザグに走る。最初のパートでバランス勝負でメンタルを揺さぶり、アクセルが開けやすい場所も決して平坦ではなくスリップダウンのリスクを含むような草地でライダーの目を惑わす。
難しいその設定を3名が乗り切るのに90秒と掛からない。ゲームはこうして終了。藪田が2度足着きをしたがそれ以外は順調だったように僕の位置からは見えた。
中澤、転倒!
ステージ2の会場が見えるレストランでランチを取った。今日の移動工程の半分は終わったし、予定されているスペシャルステージも2本目が終わり、あとはキャンプ地へと移動するだけ。少し安堵の気分になり全体がリラックスしているのが解った。肩から力が抜けるのと同時に気分は開放的な感じになっていた。
午後、ルートは高原地帯に入った。道は相変わらずギャップが連続していた。湿った土に石が埋まっているルートに入ると、全体にペースが落ちた。慎重に通過するためだ。40km/h程度だろうか。午前はこの日一緒にスタートをしたフランスチームが日本チームの前を走り、午後は日本チームが先行することになった。ランチ後の時間でもあり、どこか落ち着いて満ち足りた時間のようにも思えた。しかし、濡れた石は時にフロントタイヤをはじき、緊張させる場面もある。
それは一瞬の出来事だった。ペースはゆったりしたものの、ギャップの連続で前を走る中澤のバイクが前後輪とも空中に浮いた。そしてフロントからギャップに着地した瞬間、フロントタイヤが埋まった石にはじかれ、中澤は転倒。低速だったため、バイクから落下した中澤の衝撃は肩一点に掛かってその場で転がりもせずに停まった。
うずくまる中澤。バイクを起こし、中澤に声を掛け、道の脇に移動し、座る場所を確保した。自分も体験があるが、この速度でバンっと転び、その場で停まる。たいした速度ではないが、その衝撃が肩から入った時、鎖骨を折ったことがある。中澤もまさにそれだった。
9月の本番にむけ練習を重ねていた6月、中澤は林道で同様の転倒をして鎖骨を骨折していた。プレートを入れ繋ぐ手術をし、9月の本番を迎えた。今度はその逆の肩を骨折したのだ。
中澤の悔しさは波動のように伝わってきた。やっちゃいました。そう言いながらふがいなさと悔しさが充満してゆく中澤。正直、言葉も掛けられない。
その後、マーシャル達により、素早い救護活動が始まる。同道していたチームにも消防士のライダーがいて「痛みはどうだ? 意識が薄れていないか?」という救護の基本が問われた。ただただ、残念だ、と言っている。そう伝えると、そうだろうな……。誰もが共感していた。
「よし、あとは我々が引き受けた。キミ達はキャンプ地へと走るんだ」──別動のマーシャルが我々を励ますように送り出した。高原から山を下ると、このイベントに帯同しているレスキューヘリが道の脇にある牧草地に飛来した。ああ、中澤はヘリで運ばれるのか……。誰もが思い、実際そうだった。彼はその後、首都ティラーナの病院で数日をすごすことになった。
中澤は不運にもリタイアした。そしてチームジャパンは、3名から2名に。同時に、3名で走るステージではタイム計測などで比較にならない。そのため、大会の競技委員を務めるマーシャルからキミタチは参加を続けることはできるが、残念ながら賞典外になることが告げられた。これがチームコンペティションであるインターナショナルGSトロフィーのルールだ。過去にも同様の事案があり、怪我で離脱したライダーに代わってプレスが参加したこともあった。今回、プレス参加をしている僕は、日本での代表選手選考会の仕事をしていたり、BMWモトラッドのオフィシャルインストラクターでもあり、これまたルール上、競技に参加することはできないのだ。
旅を続けるためには怪我をしない。バイクを壊さない──軸足をそこに置いているのだ。アルバニアの道は他にもいくつかのドラマをもたらした。プレスも同じ道を同じバイクで走り、同じように寝食をともにして旅をするGSトロフィー。選手以外にプレスでも怪我で離脱した人もいる。アドベンチャーツアーにはしばしば起きるドラマだし、珍しくはないのだ。
空虚のあとの快挙。
その日の夜、湖のほとりがキャンプ地だった。夕食後、その日の成績が発表される。ステージ2までは3名で走ったので、初日同様、トップ10圏内をキープ。順調だったし目論見通りだった。女性チーム、男性チームの順で発表されるが、多いに盛り上がる。あちこちのチームから、怪我はどうだ? 大丈夫か? と言葉をもらう。ありがたい。こっちまで涙がでそうだった。
この夜、もう一つのステージが行われた。ペーパーテストである。BMWモトラッドの歴史、歴代モデルのメカニズムにまつわるもの、そしてトロフィーバイクであるR1250GSの最大出力は? などというものが10問が出題された。もちろん、英文で。この日、結果発表はなかったが、このテストは2名、3名関係なくカウントされ、チームジャパンは1位を取った! どんよりした空気は少し晴れた気分だった。
まだ2日目が終わったばかり。それでも旅は続いてゆく。(続く)
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