●第6回「東京オリンピックの年に、世界王者3メーカーが鈴鹿サーキットで激突」-1964年のロードレース世界選手権日本GPのプログラムから-
1964年10月10日、快晴の下で東京オリンピックの開会式が盛大に行われました。
2週間にわたって繰り広げられた世界の強豪たちとの熱い戦いは、10月24日の閉会式まで続きました。東京オリンピックの興奮が冷めやらぬ1週間後の11月1日、鈴鹿サーキットではロードレース世界選手権第2回日本グランプリが開催されました。
前年の1963年、鈴鹿サーキット開業2年目に開催された記念すべき第1回日本グランプリとは参加メーカーの勢力図に大きな変化が見られました。
※「1963年WGP日本グランプリのプログラムから」の記事は、こちらをご覧ください。
1963年は、常勝ホンダの一角をスズキが崩し、125ccクラスでスズキ初のメーカーチャンピオンを獲得しました。そして1964年には、ヤマハが250ccクラスでメーカー&ライダーチャンピオンを初獲得。凱旋レースとして最終戦の鈴鹿に乗り込んできたのです。
1960年代初頭に於ける日本メーカーの凄まじい努力は、世界グランプリ初挑戦から短期間でチャンピオンを獲得したことで証明されています。ホンダは1959年にマン島TTレースに初挑戦。3年目の1961年には、125ccと250ccクラスでメーカーチャンピオンを獲得。スズキは、初挑戦から4年目の1963年に125ccでメーカーチャンピオンを獲得。そしてヤマハも、初挑戦から4年目の1964年に250ccクラスでダブルチャンピオンを獲得したのです。
ホンダにとっては、ホームコースである鈴鹿サーキットで負けるわけにはいきません。ホンダは、スズキとヤマハの2ストロークエンジンの台頭に対抗するために、4ストロークエンジンの性能向上に取り組み続けていました。これまでは、世界の強豪メーカーに少しでも追いつき追い越そうと奮闘努力していましたが、今や同胞の日本メーカーが最大のライバルとなったのです。
では、1964年のWGP第2回日本グランプリの公式プログラムから主要ページを紹介いたします。
※個人所有につき、汚れや不鮮明な部分があることをご了承ください。
決勝レースの上位3名は次のとおりです。(本田技研工業の社内資料より)
50ccクラス
優勝 R・ブライアンズ選手 ホンダ
2位 L・タベリ選手 ホンダ
3位 谷口尚己選手 ホンダ
125ccクラス
優勝 E・デグナー選手 スズキ
2位 L・タベリ選手 ホンダ
3位 片山義美選手 スズキ
250ccクラス
優勝 J・レッドマン選手 ホンダ
2位 粕谷勇選手 ホンダ
3位 長谷川弘選手 ヤマハ
350ccクラス
優勝 J・レッドマン選手 ホンダ
2位 M・ヘイルウッド選手 MZ
3位 粕谷勇選手 ホンダ
1964年は、東京オリンピックに続き、鈴鹿サーキットでも日本人選手が大活躍するシーンが見られました。
WGP日本グランプリは、1965年までの3年間は鈴鹿サーキットで開催。1966年、1967年の2年間は、富士スピードウェイで開催されました。その後20年の時を経て、1987年に日本グランプリが鈴鹿サーキットに帰ってきました。世界最高峰のロードレースを再び日本で見られるようになり、TV中継などでファンの拡大につながりました。そして、2004年からはツインリンクもてぎが引き継ぐ形で今日まで途切れなく開催されています(2020年は、新型コロナウイルスの影響で中止)。
日本のモータースポーツの育成はもとより、地球レベルでモータースポーツの発展に寄与してきた偉大な鈴鹿サーキットの足跡を辿りますと、プログラムには記載されていない多くのスタッフの努力と創意工夫が連綿と受け継がれていることが分かります。
2022年は、鈴鹿サーキットが誕生してから60周年になります。
これからも、いちファンとして勝手に応援していきたいと思います。
1955年山形県庄内地方生まれ。1974年本田技研工業入社。狭山工場で四輪車組立に従事した後、本社のモーターレクリエーション推進本部ではトライアルの普及活動などに携わる。1994年から2020年の退職まで二輪車広報活動に従事。中でもスーパーカブやモータースポーツの歴史をPRする業務は25年間に及ぶ。二輪業界でお世話になった人は数知れず。現在は趣味の高山農園で汗を流し、文筆活動もいそしむ晴耕雨読の日々。愛車はホーネット250とスーパーカブ110、リードのホンダ党。
[第5回|第6回|第7回]
[晴耕雨読・高山さんの「バイク・承前啓後」目次へ]