1月から2月頃におもにアジアで猛威をふるっていた新型コロナウィルスは、3月に入って欧州から北米へと蔓延の中心地を移し、いまでは世界的規模の脅威と化している。MotoGPのカレンダーもタイGPが10月に、アメリカズGPとアルゼンチンGPはそれぞれ11月へと延期になった。さらに、3月26日にはスペインGPの開催延期(日程は未定)も発表され、いったいいつシーズンをスタートできるのか、状況は日に日に混迷の度合いを増している。
レースが行われず新しい話題が少ないことも手伝ってか、開幕戦が終わってしばらくの時期、MotoGP公式サイトが提供する映像ニュースは、カタールGPのMoto2クラスで劇的な初勝利を挙げた長島哲太に関する話題が多かった。私的な印象としても、長島の優勝について、このミスター・バイク(記事はこちらから)をはじめとして各所で書かせてもらった原稿はSNSなどの反応が非常に良く、たくさんの方々に読んでいただけたようだ。
長島の優勝に日本のファンが感慨を抱くのは、まあ当然といってもいいだろう。だが、日本人ファンだけではなく、あのレースは世界じゅうの多くの人々の感情も強く大きく揺さぶったようだ。それは初優勝の選手に対する温かいエール、というだけではなく、あの優勝が持つ意味と、その背後にある劇的なドラマを皆がしっかりと理解しているからこその賞賛であったことはまちがいないだろう。
あるいはあのレースでポールポジションを獲得したジョー・ロバーツがもしも優勝していたなら、それはそれで感動的な幕引きではあっただろう。彼が高いポテンシャルを備えたライダーであることは玄人筋にはすでに知られていたことだし、コーチ役として現場に入っていたジョン・ホプキンスの指導の効果もあって、最後まで表彰台を争う好結果を獲得したことも印象的だった。ロバーツは2年前にNTS陣営からエントリーしていたライダーで、その年には鈴鹿8耐にも参戦を果たした。そんなこんなで、日本のファンにもある程度は名前が知られている選手だ。だが、彼が優勝していたとしても、それはおそらく「将来性のある選手が記念すべき初勝利を達成したね。よかったよかった。おめでとう」以上のものではなかっただろう。優勝することで時間を隔てた大きな環がひとつにつながる劇的な展開、という点で、長島の優勝には遠く及ばない。
長島の初勝利にあれだけ多くの人が心を震わせたのは、Moto2クラス初レースでの富沢祥也の初優勝、という2010年に敷かれた伏線を10年越しで回収した意図せざるストーリーがあったからだ。10年を隔てた富沢の勝利と長島の勝利がオーバーラップして、あれだけのドラマができあがった、というわけだ。
長島と富沢が幼い頃から仲が良く、長島はふたつ年上の富沢の背中を追いかけるようにレースの世界を駆けあがってきたことは、日本のファンにはよく知られた話だ。ふたりのこの関係性は、公式サイトの英語実況放送等を通じて世界のレースファンにもひろく伝えられている。余談になるが、DORNA公式サイトの実況放送は、フリープラクティス・決勝レースともに、ニュースの即時性はもちろん、選手やチームの各種情報など、目配りの広さと内容の深さは群を抜いている。興味のある方は一度視聴してみることをぜひともオススメしたい。
余談ついでに、ふたつ違いの富沢と長島の関係性がよくわかるエピソードを、長島自身の口からひとつ紹介してもらおう。
「オレは女兄弟に囲まれて育ったので男兄弟がいなかったけど、そこに祥也がいた。一緒にゲームをしたり、服をもらったりしていたんですけど、だからといって憧れたり、『あ、すげえなあ』と思ったことは一回もないんですよ。でも、いろいろ連れ回してくれて、どこへ行っても『ちゃんと挨拶しろよ』と教えられた。祥也はあのキャラだから、知り合いがすごく多いんです。オレが全日本にあがったときでも、祥也はパドックじゅうのみんなが知り合いだけど、自分は祥也しか知ってる人がいないからずっと後ろについて歩いてて、それでいろんな人を紹介してもらって知り合いが増えていった。祥也は誰でもすぐ仲良くなって呼び捨てにするくらいの関係になるんだけど、オレもそれをまねすると『おまえはダメだよ』と怒られたり(笑)。兄貴兄貴しているわけでもないし、かといっておたがい呼び捨てにすることにも全然違和感はない。ポケバイ時代から一緒だから、年齢は違うけど同じクラスの友だち、みたいなかんじだったんですかね」
その富沢は、中排気量クラスのレースが2ストローク250ccから4ストローク600ccのMoto2に切り替わった初めてのレースになった2010年開幕戦で、3列目9番グリッドからスタートした。6周目にはトップに立ち、以後はじわじわと確実に後続との差を広げていくのだが、レースが10周を切った頃から、メディアセンターではDORNAのスタッフが妙にざわつきだした。そして、残り5~6周くらいになると、あるスタッフがこちらへやってきて、「ラスト2周くらいになったら、ちょっといっしょに来てくれる?」と訊ねてきた。「なんで?」と問い返すと、「祥也が優勝したらテレビのインタビューとかプレスカンファレンスとかで通訳してもらう人が必要になるから」なのだという。
「いやいや、祥也はいつもチームのスタッフと問題なくコミュニケーションを取っているから、英語のインタビューくらいふつうにやりとりできると思うよ」と返答をした。
すっかり忘れてしまっていたそんなできごとを、長島のウィニングラップをメディアセンターのモニターで見ていたときにふと思いだした。
10年前のレースでは誰も富沢の優勝を事前に予想をしていなかっただろうことは、その一件からもよくわかる。2020年の決勝レースでも、おそらくほとんどの人が長島を優勝本命選手とは見なしていなかったはずだ。
長島自身、「自分でもスタート前には勝てると思ってなかったですもん」といって笑う。
だが、金曜のFP1から彼のセッションを観察していれば、決勝レースを想定して積み上げたきた水準が誰よりも高かったことは、はっきりと見てとれた。土曜の予選で失敗して14番手になったときは、正直なところ「……、またやっちゃったかなあ……」という気も若干しないではなかったが、決勝日のウォームアップでトップタイムを記録したところを見ると「を、やはり決勝はいい勝負をできそうかな」という期待は充分に持たせた。
長島によると、そもそもプレシーズンテストの段階から、チームはレースラップのレベルアップに照準を据えてきたのだという。
たとえば、「テレメトリースタッフが、去年の自分のラップタイムを全部PCに入力して、1周あたりトップからどれくらい離れているか、ラップごとのタイムの落ち幅がどれくらいあるのかをデータに落とし込んでいて、それを見せてもらった」のだとか。
「ヘレステストのときでも、一回あたり8周や10周走行してピットへ戻ってきたときに、そのときのベストラップと一番遅いときの落ち幅がどれくらいあるのか、アベレージはベストタイムに対して何パーセント落ちで走っているのか、といった具体的な数字を全部出されて、『落ち幅をもっと小さくしなければダメだ』と示され、その落ち幅を小さくするためにはどうすればいいのかということにチームと取り組んできました。そこまで可視化されたのは初めてだったので、いままでのやり方が甘かったと思い知らされたし、勝つための準備や勝つために何をしなければいけないかをよく知っているチームだな、と思いました」
レース直後の原稿にも書いたことを繰り返すが、勝つことにはそれに応じた背景事情がある、というわけだ。
そしてもうひとつ、今回の長島の優勝に多くの人が共感を抱いたのは、彼がエリートライダーの出身ではないことも大きな理由だ。世間の人々から見ればある意味で〈等身大〉の挫折や苦労を経験してきたことが、人々が長島に対して感情移入をする大きな理由におそらくなっているのだろう。
長島が最初に経験したMoto2クラスのレースは2013年。負傷したマイク・ディ・メッリオの代役として、ツインリンクもてぎの日本GPに参戦したのが最初の機会だ。そしてこのチームから翌2014年にフル参戦を遂げるわけだが、その経緯も当初に予定されていた選手が諸事情で参戦不可となった結果、長島がその穴を埋める形で候補になった、という紆余曲折の背景事情がある。そのシーズンも、夏に右脚を骨折して以後のレースを棒に振り、翌年はCEVへ戦いの場を移さざるを得なかった。そこで2年の戦いを経て、2017年にはMoto2へ復帰を果たしたが、以後も毎シーズン、所属チームを移り変わってきたことは、長島の参戦環境がけっして安定したものではなかったことをよく示している。
この20年ほどを振り返ると、中排気量クラスにフル参戦する日本人選手は、二輪メーカーのバックアップ等に支えられながらチャンスを掴んでいった選手が多かった。青山博一や高橋裕紀、青山周平たちは、ホンダのスカラシップ制度を獲得して世界へ挑戦するチャンスを手にしていったのは有名な話だ。
もちろん彼らとて、けっしてラクをして世界への切符を手にしたわけではない。また、世界に繋がるはしごを渡してもらったとしても、そこで結果を出すことができなければ、彼らの実力には〈そういうもの〉という烙印を否応なく押されてしまう。たとえば中上貴晶はMotoGPアカデミーという育成プログラムを経由して小排気量クラスへ参戦を果たしたものの、実力を評価されずにシートを喪い、一度は日本へ戻って全日本ロードレースで結果を出したことで、再度Moto2クラスへの挑戦が可能になった。
その意味では、〈リザルト〉〈結果〉という数字やデータはどの選手に対しても平等といっていいだろう。ただし、皆と同じその舞台に立つまでの「機会の平等」という面では、長島は上記の選手たちと比べてもかなり不利な状況にあったのは事実だ。個人スポンサーをかき集めて参戦費用や各種経費をすべて自前で工面しなければならない彼の環境は、詳細はともかくとしても、レースファンもその苦労をなんとなく感じ取ることができていたのではないだろうか。だからこそ、その努力が報われたあの優勝劇に、多くの人が心を揺さぶられたのだろう。プロフェッショナルスポーツを他の競技で喩えるのは本来なら無粋極まりないのだが、あえてわかりやすい比喩を用いるなら、世界グランプリに羽ばたいて成功を収めた多くの選手が〈ドラ1〉や悪くても〈ドラ2〉という恵まれた境遇であったのに対して、長島哲太は、〈ドラフト外〉というかなりの後方からグランプリ参戦を実現させて優勝を掴み取った、というわけだ。
そして今回の勝利で長島が得た「勝てるという自信」だが、これは今後のレースに向けてなによりも大きな武器になる。「いままでなら、『レースで勝つ』と言っても、何言ってんだこいつ、と思われたと思うんですよ。でも、これでようやく土俵に立てた気がする」という言葉にも、それは明らかだ。
「去年まででも、アベレージがいいウィークもあったし、安定しているウィークもあった。けど、決勝になると問題が出ることが多くて、自信を喪いかけていた。『メンタルなのかな、何なのかな……』と悩んでいて、予選までいくら良くても安心できなくて、常に不安を抱えながらレースをしていました。でも、次からはフリープラクティスや予選から流れを組み立てて、自分の順位をある程度把握できるようになれば、レースでもチャンピオンシップを考えて『今日は優勝はムリかもしれないけども、2位や3位は目指せる。あるいは、4位や5位でもいいかもしれない』と見極めて走ることもできるようになる。いままでなら無理をして転んでいたことも、これからは落ち着いて走れる。前が逃げても、自分のアベレージがよければ追いつける自信もある」
これらのことばの端々にも、長島が掴んだ自信がよく窺える。
「次がヘレスだったら面白いんですけどね。祥也も2戦目がヘレスで、ポールを獲って、最後まで優勝争いをして2位でしたからね。だから、オレも次がヘレスなら、ポールを獲って勝たなきゃ」
あいにく、長島の期待に反して次のレースはヘレス開催ではなくなってしまった。とはいえ、勝つ、ということばを口にできるようになったライダーは、そうではないライダーとの間にすでに大きな距離を開いている。あとは、シーズンの趨勢を自分の側へ引き寄せることができるかどうかだ。〈流れ〉や〈勢い〉〈運〉ということばでよく言い表されるものは、誰かから与えられるものではおそらくない。きっと、自分の力で作り出していくものなのだろう。
【西村 章】
web Sportivaやmotorsport.com日本版、さらにはSLICK、motomatters.comなど海外誌にもMotoGP関連記事を寄稿する他、書籍やDVD字幕などの訳も手掛けるジャーナリスト。「第17回 小学館ノンフィクション大賞優秀賞」「2011年ミズノスポーツライター賞」受賞。先日、書き下ろしノンフィクション『再起せよースズキMotoGPの一七五二日』https://www.sun-a.com/magazine/detail.php?pid=11280」 が刊行された。
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