第二次世界大戦に敗戦後、1950年代半ばから急速な経済成長を遂げた日本。1960年代になると力を付けた国内二輪メーカーは世界市場、特に巨大なマーケットである北米への輸出を本格化すべく試行を重ねた。今日では押しも押されぬ大排気量メーカーのカワサキだが、北米において初めてシカゴに駐在事務所を開設したのは1965年7月。この年の10月、待望の大排気量車W1が完成、いよいよ北米輸出に本腰を入れ始めた。これは、そんなカワサキの海外展開黎明期に単身渡米したサムライ、種子島 経氏の若き4年間の日の奮闘の物語である。この経験が、後にマッハやZの誕生に大きく関わるのだが、それはまた後の物語である。
※本連載は『モーターサイクルサム アメリカを行く』(種子島 経著 ダイヤモンド・タイムス社刊・1976年6月25日発行)を原文転載しています。今日では不適切とされる語句や表現がありますが、作品が書かれた時代背景を考慮し、オリジナリティを尊重してそのまま掲載します。
四つの候補地
設立を計画している合弁の新会社イースタンカワサキモーターサイクルは貧乏なので、建物は借りるしかなく、しかも、そのリース期間は、短くなければならなかった。
ニューイングランドからテキサスまで、海沿いに二十四州カバーする中心地として、私は四つの地域をリストアップしていた。ニューヨーク市、ニュージャージー州ニューアーク地域、同州チェリーヒル地域、それにバージニア州ノーフォーク地域……の四つである。リストアップに当たっては、各地の経済情勢、日本との船便、トラック便などを勘案したのだが、詳細は省略する。
ニューヨーク市ではアランの学友、ニューアークではロサンゼルスの不動産業者の仲間、ホンダ、ヤマハ、スズキが仲よく東部ブランチを構えるチェリーヒルではスキップの紹介になる不動産業者、そしてノーフォークでは銀行───が、それぞれ段取りをつけて待っていた。小さくとも、カリフォルニアの一隅で仕事を始めたことに伴うビジネスリレーションが、各地に、かようなつながりを作り上げたのであり、これなしには、二十四州内の建物さがしなどできることではなかった。
ニューヨーク市では、一日に三つの建物を見て、いち早く諦めた。それらは、いずれも場末の倉庫で、修理工場を持つこともできず、カワサキの看板を掲げてセールスオフィスを置くには、全く不向きであった。賃金水準の高さや、ニューヨーク港での荷扱いの荒さということも、現地で見ると大きな阻害要因であった。
ニューアーク地域では、ルート①・⑨という幹線道路に面した新築の建物が気に入った。難点はわれわれの予算よりは若干高いことと、持主がリース期間二十年以上を主張していることであった。
チェリーヒルで当方の要求に近いのは、一軒だけであった。新築中で、「事務所は、借り主のご希望通りに作ります」という条件であったが、問題は、敷地がいささか小さいことと、例によってリース期間であった。また、米国東部に来てまでホンダ、ヤマハ、スズキと同じ町で鼻つき合わして暮らすのも、もうひとつ気が進まなかった。
バージニア州ノーフォークのは傑作であった。税関などの港湾施設が雑居している一画の古い倉庫を、好きなだけ仕切って貸し、事務所も建ててあげようというのである。
スペースがいくらでも取れること、リース期間は一年でもいいことは、メリットであった。反面、入門のたびごとに港湾施設の門番のチェックを受けねばならぬということは、販売店など多くの人々に来てもらわねばならないわれわれの店として、不適当といわざるを得なかった。建物も古すぎ、いかに二〜三年の仮住まいとはいえ、ブランドイメージ上、よろしくなかった。
もっとも、銀行の説明では、「リース期間三年以下ということで、ほかの要件を満たせる建物は、ほかになかったんだ」ということで、米国有数の経済成長圏にあって、新しい建物がドンドン出来ているこの地域では、確かにそうであったろう。
もうひとつ、バージニアが禁酒州というのも気に食わなかった。現在の南部諸州の禁酒というのは、実質的にはザル法であって、メンバー制クラブや自宅ではいくらでも飲めるのだが、それでも万事不自由だらけの生活にあって、飲むことにまで若干でも制約を受けるのは面白くなかった。
銀行の徹底したサービス精神
かくして、ノーフォーク地域も諦めたのだが、ここでは副産物が多かった。
第一には、米国の銀行の徹底したサービス精神に接したことである。若い副社長がつきっきりで面倒をみてくれ、当方が「会いたい」と言えば、乙仲、倉庫会社、弁護士、市の役人など、どんどん電話して、アポイントメントを取ってくれた。もちろん手数料などは取らず、ちょっと油断すると食事代まで全部払ってくれる有様だった。そっくり返って人を見下ろす日本の銀行とは、えらい違いであった。
「カワサキのような企業が来てくれれば、ノーフォークのためになる。銀行としては、口座を設けてくれること、輸出信用状を扱わせてくれること、金を借りてくれること、などをもちろん期待はしているが、ともかく来てくれればうれしいのだ」と大らかなものであった。
第一日目に、「この建物では駄目だ。ここに来る可能性は、まずない」と述べたにもかかわらず親切さは変わらず、最後の日に、「残念ではあるが」と、はっきりぶちこわした時にも、「ビジネスは永い。これを機縁に、ノーフォークを忘れないでくれ」と、にこやかなものであった。
第二の副産物は、銀行の紹介で、ホンダの完成車を専門に扱っている倉庫業者と知り合ったことである。彼は、この時点から数年後に、カワサキの車も扱うようになり、カワサキとノーフォークとの「機縁」は、確かに続いている。
さらに付言するならば、一九七○年初頭、工場出荷後、ある機種に欠陥のあることが判明、海上輸送中のその機種すべてをノーフォークとロングビーチの倉庫に集結し、極秘裏に工場から三十名のサービスマンを派遣して、手直しを済ませた上で、販売店に出荷したことがある。この時、ノーフォークにしてみれば、こんな大量の日本人を迎えたのは未曾有のことで、珍しがるし歓迎したがるし、一方当方は、なるべく目立たぬよう作業を済まさねばならぬしというわけで、痛しかゆしの騒ぎになったとのことだ。
第三は、バージニア州の景観である。チェサピーク湾をまたぐ長い橋からの眺めは素晴らしく、何度も車を飛ばした。二月末の山野は、新緑とふくらみ切ったつぼみに満ちあふれ、車の窓のすぐそばまで木々が腕を伸ばしていた。
それはともかく、ロケーションとしてはニューアーク地域がベスト、建物はそのルート①・⑨の新品がベストと決めて、あとはリース期間を値切り倒すことに専念すべく、東に向かって帰った。
逞しい中国民族
ルート①・⑨の建物のすぐ近くのホリデイ・モーテルに転がりこみ、持主との交渉を始めた。持主のキャンター氏は、この辺一帯では知られたスゴ腕のユダヤ人不動産業者であったが、こちらは恐いもの知らずでぶつかり、家賃の若干の値上げを条件に、実質的な五年リースをかち取ることに成功した。差し当たっては金がなく、土地、建物を買うなど出来もしないが、将来、事業の見通しがつき、金ができたら、万事ドンと行きたい私たちにとって、長期リースで縛られるなど、愚の骨頂であった。事実、カリフォルニアでもこの東部でも、後にリース期間が切れるのを待ち構えて、自前の不動産を取得した。
こんな日のある晩、ホリデイ・モーテルの食堂で一人淋しく食べていると、顔見知りのウエートレスが、東洋人の少年を連れてきた。
「この子の年齢やなんか聞いてほしいんだけど」
「どうしたんだい」
「この子、一週間前から、台所の下働きやってるの。名前は、みんなで相談して『トム』と決めたんだけど、一言も英語をしゃべらないので困ってるのよ。ううん、仕事のことは、手まねでなんとかわかるんだけどね」
彼女ら平均以下の米国人の考えでは、日本とフィリピンは隣り同士、中国語とインド語は方言の違い、てなことになっているから、よくこんな仕儀に相成る。退屈しのぎに漢字での筆談を試みた結果、ホンコンから一ヵ月前来たこと、ニューヨークの親類を頼って行き、彼らがここを世話してくれたこと、十七歳であること、などがなんとかわかった。
英語は一言もわからない。親類が、ニューヨークのチャイナタウンなどのようにもっととっつきやすい所ではなく、マンハッタンから一時間以上離れ、中国人が少ないこの地域のホリデイ・モーテルに彼を放り込んだ理由など、私の漢字筆談力ではとてもわからない。いずれにせよ、トム少年、別におじけづくこともなくニコニコしており、中国民族の逞しさに、改めて脱帽したものだった。
関所破り
三月に入ると間もなくデイトナである。カワサキは、急遽開発したA1Rを二五○CCクラスに参加させており、しかも当時の私たちとしては精一杯の奮発で、一流ライダーのディック・マンを乗せていたから、私としてはぜひとも見に行きたいところだったが、東部戦線のゴタゴタから手が離せなかった。
レース当日、新聞のテレビ・ラジオ欄を隅から隅までさがしたが、野球、フットボール、バスケットボールの実況放送はいくらでもあるのに、デイトナ百マイルはどこにもなく、「モーターサイクル屋だけが大騒ぎするけれども、米国の一般大衆とはまだまだ縁遠いんだなあ」と痛感させられた。今ではデイトナをはじめ主要モーターサイクルレースは、全米にラジオで放送される。後にオランダなどの欧州諸国のテレビ・スポーツニュースで、モーターサイクルレースの結果が、いろいろなスポーツや自動車レースと並んで放送されるのを見て、感激したこともある。だが、一九六七年三月現在の米国での私は、レースをやっとるのに、どうなっとるのかわからんという残酷な仕打ちにムシャクシャしながら、デイトナからの電話を待つのみであった。
電話は夕刻、ボスからきた。
「惨敗だ。そう甘いもんじゃないわい。ディックは、うちのマシンのことを『ピッグ』言いよった。改めて一から出直しだな、これは。───
ところで、明日午後、ケネディ空港に着くが、迎えに来れるかい」
ボスと会うのも、カナダ入り以来二ヵ月ぶりに日本語でしこたま話しができるのも、うれしかった。私は、その日のうちに、ケネディ空港までの道順を地図で確認した。
翌日、①・⑨ルートから高速道路に乗り替え、しばらく行くと料金徴収所が見えてきた。徐行しながらポケットをさぐって、私はしまったと思った。ガソリンを満タンにした時の釣銭十セントしかないのである。身につけていないのみならず、モーテルに帰っても無一文であった。生来の無精に加えて、バタバタしているため、出張旅費の精算をいっこうにやっておらず、このため領収書だけはシコタマあるが、現金は極めて乏しくなっていたのである。
高速道路のこととて、バックもUターンもできないし、ボスはケネディ空港に着こうとしているのだ。私は意を決してゲートに入り、「今は持ち合わせぬが、帰りには必ず払うから」ともちかけると、これが「オーケー」と拍子抜けする簡単さ。続く二つの関所も、同じ要領で、いとも円満に踏み破った。
ボスは、「どうだい、今夜はマンハッタンで、久しぶりの日本飯といくか」と提案したが、事情を訴えて、「国際信義上も、この借金だけは、今日のうちに、片づけておかねば」と主張、同じ道をたどって三つの関所での支払いを済ませ、ホリデイ・モーテルのうまくもない晩飯を食ったものだった。
翌日ボスは、ただちにルート①・⑨の建物のリースを決めた。当方の弁護士が、アランのハーバード時代の学友であった関係上、リース契約の調印は、ニューヨーク市のハーバード・クラブで行なわれた。問題のリース期間については、キャンター氏、五年まで譲歩したのだが、どうしても譲ろうとしないのは、「イースタンカワサキモーターサイクルなんて会社は、資本金十万ドルの吹けば飛ぶようなボロ会社だ。リース料不払いでゴタゴタしないための保証が欲しい」という一点。「日本のカワサキの保証書を入れようじゃないか」という当方の申し出に対しても、「日本まで訴訟打ちに行くひまはないよ。かといってカワサキのニューヨークやロサンゼルスの事務所は、ただの事務所で、これにも保証能力はない」と、簡単にけられてしまった。
つまるところ、キャンター氏は、「イースタンカワサキの出資者であり、ニューヨークを拠点に大きなビジネスをやっている米国法人たるB商社の保証書を入れてくれるか、それともリース料一年分二万六千ドルを保証金として積んでほしい」という条件を最終的に持ちかけた。
なけなしの金を二万六千ドルも凍結するわけにいかないので、B商社に頼むと、「そんなことでしたら、ぜひとも協力させていただきます。ただ、支払保証は本社の常務会事項になっていますので、一応は手続きを経ませんと……」
「手続きは必要としても、保証していただけることは、間違いありませんな」
「それはもう、おたくとの関係からしましても、まず間違いないところと思います」
「では、保証していただけるという前提で交渉は進めますからね」
「どうぞどうぞ」
契約上、三月末までに、B社の保証書を入れるか、二万六千ドル積むか、が義務づけられた。
「吉兆」夜話
ボスは、東部代理店とB商社を相手に、合弁会社発足に関する最後の詰めをやっていた。
ユダヤ人グループである東部代理店は、ネゴの過程ではまことにうるさかったが、一応の了解ができると、一切ガタガタ言わなかった。これに対し、日本商社のB社は、過去の売掛金の回収、在庫車の販売、それに今後の船積みごとのコミッションにしか関心がなく、しかも、これらいずれも、新会社に全面的に依存するほかはなく、したがって自分自身はなんの機能も果たし得ないくせに、「常勤の役員を常駐させたい」とか、「B社所定の様式による月次報告を求める」とか、「部品管理はB社のコンピュータに乗せてあげよう」とか、当方が最初から拒否していることを、何度もむし返し、ややもすれば日本サイドのわが社のトップに働きかけ、油断もスキもあったものではなかった。
一日、ボスと私はニューヨークのB社に行った。「モーテルではご不自由でしょう。この部屋をお使い下さい」という言葉に甘えて、素晴らしい応接室を占領。溜っていたコピー作業で女の子一人をくぎづけにし、テレックスを打ちまくり、米国各地やカナダから日本にまで電話をかけ散らした。ホリデイ・モーテルにないのは、コピーマシンとテレックス。これらを駆使できるのは有難く、昼飯や晩飯の誘いも辞退して、深夜まで働いた。
ところが、翌朝また「やあ、こんにちわ」と出かけると、今度は明らかに一ランク下の部屋に通された。その翌日はさらに落つる部屋になり、「なんや、落語みたいやな」と、ボスと笑い合ったことだった。
先方は、通りいっぺんのお世辞として、部屋の提供を申し出たものの、当方の猛烈ぷりとあつかましさに、「甘い顔して、このまま居坐られては」と、いやがらせに転じたのであろう。当方にしてみれば、「モーターサイクルビジネスには商社の機能はない」と信じており、今回の合弁も、今までのいきさつからする止むを得ざる措置で、今後B商社にコミッションを払うのは、一ドルでももったいない気持であった。遠からず整理すべき相手ではあるが、差し当たりこんなことででも利用できるのならと、居候をきめ込んだに過ぎないのである。
三日目の夜、コピーやテレックスを要する仕事が一段落したので、別れのあいさつをして、ボスと二人、パンアメリカンビルに近い「吉兆」で晩飯を食った。ここは今では豪華な日本料理店に衣更えしているが、当時は飯屋の感じで、ざるそば、さわらの味噌漬、納豆、さんまといった、ほかの店になくて、本当にわれわれが食いたいものを置いており、われわれがニューヨークに出たら、必ず立ち寄るべき場所になっていた。
テーブルに腰かけて一杯やっていると、障子を締め切った座敷の中から、大勢の話し声が聞こえる。「はて、どこかで聞いた声だが」と顔を見合わせていると、ボスと私の名前が飛びかい始めて、事態は面白くなってきた。
「若僧のくせに」
「非常識極まりない」
「英語は下手、米国の商慣習など全然わかっとらん」
などというコメントが、私たちの名前と結びつけられ、彼らのメートルは上がる一方であった。
「あいつら」「馬鹿ども」などの表現もまじってきた。そう人のいい方でもない私たちは、帰りの運転に備えて加減して飲みながら、彼らの登場を待った。
やがて障子を開けて立ち現われた四〜五人のB商社マン諸氏は、私たちを見て呆然とした。
「これは皆さん、おそろいで」と、ボスのドスの利いたあいさつ。
「やあやあ、あなた方、ご一緒すればよかったのに。今おいでになったんですか?」
「いやあ、随分長いことねばってましたよ。なあ、サム」
「そうですな。二時間にもなりますかな。ここは、飯も酒も、それに雰囲気もすこぶるよろしいので、つい腰が落ち着きますわ」
彼らは早々に退散した。
よわったことに、B社のキャンター氏に対する支払保証は、「本社常務会で否決された」とやらで出なかった。それも、キャンター氏との交渉を一手にやっている私には言わず、B社専属の、キャンター氏とは一面識もない弁護士を同氏の所に派遣して、「支払保証は駄目だがなんとかならぬか」と日本流のネゴを持ちかけたものだから、キャンター氏はただちに私に電話してきて、「お前にはもう交渉権はないのか。一体どうなっとるんだ。オレとしては、最初から言っている通り、支払保証が出ないのなら、二万六千ドル積んでもらう以外にない。その用意はいいだろうな」と、すごんできた。
その後のわれわれとB商社とのゴタゴタに関しては敢えて省略するが、この一件は私が日本の商社なるものを見限った一因であり、新会社は十万ドルの資本金から二万六千ドルを保証金として積まざるを得なくなったのである。
商社の悪口を、もう一つだけ付け加える。
他の機会に、B社ニューヨークの経理責任者と話していた際、「君、倉庫の備品をカリフォルニアから買って、その代金をニュージャージーの銀行の小切手で送るというが、そんなことはできないはずですよ。カリフォルニアから買う分については、カリフォルニアの銀行の小切手で処理しなければならないはずだ」。「○○君」と若い日本人を呼んで、「この点をすぐ調べたまえ。聞違いがあっちゃならん」ときた。
間違いもヘッタクレも、合衆国として統一政治・経済活動をやっている国において、買い付ける州と小切手を振り出す州とが同じでなければならぬなど、あり得ないではないか。「ニューヨーク本社」の奥深く鎮座ましまし、日本人と日系人のみ使い、米国経済の鉄火場に触れることのないままに数年「駐在」するだけだから、こういうトンチキな経理責任者が出来上がるのである。
私は、日本の総合商社が、日本の生産会社でも世界のいかなる企業でも果たし得ない大きな、独自の機能を果たしていることを、否定するものでは決してない。商社の各クラスに、極めて優れたビジネスマンが散在していることも、この目で見て知っている。
しかし、モーターサイクルビジネスのように本来的に商社機能を必要としない分野に、無理やり割り込んでくる場合には、不自然、不経済なことのみ目立つし、それにかような分野に割り当てられる担当者は、商社マンとして必ずしも一流品でないのか、歯がゆいことのみ多かったのである。
かくて、われわれの米国戦略は、一面では商社排除の歴史とならざるを得なかったし、同じことは、他の市場に本格的に進出する場合にも不可避となったのだ。
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