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第二次世界大戦に敗戦後、1950年代半ばから急速な経済成長を遂げた日本。1960年代になると力を付けた国内二輪メーカーは世界市場、特に巨大なマーケットである北米への輸出を本格化すべく試行を重ねた。今日では押しも押されぬ大排気量メーカーのカワサキだが、北米において初めてシカゴに駐在事務所を開設したのは1965年7月。この年の10月、待望の大排気量車W1が完成、いよいよ北米輸出に本腰を入れ始めた。これは、そんなカワサキの海外展開黎明期に単身渡米したサムライ、種子島 経氏の若き4年間の日の奮闘の物語である。この経験が、後にマッハやZの誕生に大きく関わるのだが、それはまた後の物語である。

※本連載は『モーターサイクルサム アメリカを行く』(種子島 経著 ダイヤモンド・タイムス社刊・1976年6月25日発行)を原文転載しています。今日では不適切とされる語句や表現がありますが、作品が書かれた時代背景を考慮し、オリジナリティを尊重してそのまま掲載します。

ディズニーランドホテル・ショー

 宣伝面ではもうひとつ、例のモーターサイクル・ディーラーニュース誌のラリー編集長に奨められて参加したディズニーランドホテルでのトレードショーも成功だった。
 工場は、このショーのために、二五〇ccレーサー試作車まで含めて、当時のフルライン十台を空輸してくれた。私はこれを、ディズニーランドに近い「ハウス・オブ・スズキ」のデーブ・ゴールデンのところに運んだ。
「デーブ、これがショー用のカワサキフルラインだ。ロードレーサー以外は、少々乗ってもいいよ。どうだい、君の修理工場で組み立てをやってくれないか」
 デーブは快諾、組み立てた車を見たり乗ったりしてご満悦だったが、ただしそのための手間賃は、われわれの会社設立後、ガッチリ請求してきた。
 ショーは、夜六時から十一時まで、連続三日間だった。ちょうどこの時期に、日本各社のみならずトライアンフ、BSAなども、販売店会議をロサンゼルス地域で開いており、この第一回トレードショーには、多数の来会者が予想されていた。
 各社ともにぎやかに準備を進めるなかで、カワサキでは、私一人で車の搬入から飾りつけまでやった。華やかなブレザーコートの男たちが応対する各社のコマにくらべれば、私一人がボソッといるだけ、たまにチョイさんが助けてくれるだけというカワサキは、淋しかった。
 しかし、マシンが人を呼んだ。六五○cc W1を除いて三五○cc アベンジャー、二五○cc サムライ以下、出品した全モデルが西部では初登場であり、二五○ccレーサー A1Rのごときは、工場外初公開であった。
 米国人は、特にモーターサイクル屋は、新しい物を愛する。不況に苦しむ販売店は、カワサキにその突破口を求めようともしたのだろう。ショーの主催者であるラリーも、「お世辞じゃなく、カワサキのコマが一番にぎやかだ」と言ってくれたが、実際、コマはいつも人であふれていた。彼らはマシンをなめるように眺め回し、マシンについて、価格について、発売時期について質問し、チラシを求め、私としてはまことに多忙な孤軍奮闘であった。
 私が訪問した販売店も数多く来てくれて、「これだけのモデルラインでやるのなら」と納得してくれた。販売店会議のため、各社の販売店が全米から集まっており、後年、ニューイングランドやテキサスの思いもかけぬ町で、「カワサキをやろうと決めたのは、一九六六年九月のディズニーランドショーだ。あの時、一人で頑張ってたのが、確か君だったな」と言われ、うれしい思いをしたものだった。
 三日目の夜、ショー終了後、モーターサイクル関係雑誌各社主催のカクテルパーティが、ホテルのあちこちで開かれた。この頃では業界でかなりの顔になっていた私は、あっちこっち飲み歩いたのだが、疲れが一時に出たのであろう、翌朝目覚めれば、一室の長椅子の上に転がっていた。
 出品車は、すべて、ベーカースフィールドのトムに貸与した。もう店に置く車もほとんどない彼は、ショー終了後ただちに、他の販売店のうらやましそうな視線を浴びながら、出品車をトラックに積み込み、夜のフリーウェイに乗り出して行った。
 この頃東部代理店には、すでに先にもふれたスキップが販売担当副社長として入っていたが、彼は後述するような魂胆のひとつとしてディズニーランドショーにも、ボビーというセールスマンを派遣してきていた。しかしボビーは女を引っかけて回るだけで、この面に関する古きモーターサイクル屋のすごさを私に再認識させてくれたものの、ショーの役には立たなかった。

長椅子の秘密

 さて、ガーデナでのわれわれの建物リースは、十月一日開始であった。だが、九月二十日を過ぎても、現住者はいっこうに立ち退く気配を見せず、彼らが出なければわれわれの準備も進まぬので、ある日の午後、追い出し会議を開いた。参加者は現住企業の代表、私、それに両者の不動産屋の四者である。
 冒頭、「間違いなく十月一日に入れるだろうな」と念を押すと、現住企業の代表者、どうも割り切れぬ返事である。そこで、「私は、今まで一年近くの間、米国ビジネス界で常に幸せであった。約束は必ず守られたからだ。今回の事件が、私の米国ビジネスに関するイメージを変えないことを望む」とやると、ワアワアいう騒ぎになった。
 彼ら同士早口でやりとりする話は、まだ理解できない部分が多かったが、改めて私に取り次がれたところでは、事務所の机や倉庫の棚を、この機会に処分して移りたいのだが、なかなか買い手がつかぬのが遅れている理由らしい。「では、私たちが引き取ろうではないか。机も棚もどうせ要るんだし」ということで、一々値段を決めて引き取った。家具代として予算化していたよりは、随分安く上がったが、反面、中古の机を嫌う者もいたし、棚はモーターサイクルの小物部品にしか使えなかったので、別にもうかったわけでもない。が、これがきっかけで、十月一日きっかりに入居でき、準備を開始できたのは幸せであった。
 私は、ガーデナの中心部をうろつき回っては、電気、ガス、水道の名義書き替え、電話の申し込み、POボックス設置、警備会社や清掃会社との契約などを片づけた。京都スキヤキで一杯飲みながら、地元の二世諸君の忠告を受けたことが、これら交渉を進めるに当たって、大いに役立ったことを覚えている。
 倉庫の臨時の親分には、スティーブを任命した。彼ともアスコットレース場で知り合った。学費稼ぎのために大学を中断してレーサーになったものの、レースに使う金が多くて学資はいっこうに貯らぬと嘆いており、定職を求めていたのである。
 モーターサイクルレーサーにモーターサイクル部品の仕事をやらすのは、飲んだくれに酒のかんつけを命ずるようなもので、一般にはよろしくないとされている。だが、スティーブは例外で、責任感強く、頭が切れ、指導性に富み、三人から五人の配下を率いて棚、部品箱の組立、工場から着いた部品の開梱などを進めた。配下には、デーブ・スミスのように後にロードレーサーとして名をなした者もあり、にぎやかであった。
 彼らの給料は、スティーブのみ一時間三ドルで、他は一律に二ドル。金曜日に現金で払い、各人から領収書を取り、会社として給料を支払ったことこそなんとか立証できるが、税金も社会保障費も無視した乱暴なものであった。
 ある日、東京銀行で雑談していると、「カリフォルニアでは最低賃金がうるさくて面倒ですなあ。もし規定以下の支払いをやると罰則がねえ」と、ややこしい罰則の一、二例を例示してくれた。最低賃金の額を問うと、ニドル五十セントとのこと。話もそこそこにふっ飛んで帰り、一同を集めてスティーブ四ドル、他はニドル五十セントへの「昇給」を申し渡したら、大よろこびであった。アスコットに連なるモーターサイクル気違いの少年たちだから、「カワサキ」でモーターサイクルに関係したことをやれるだけで楽しく、最低賃金法など知りもしなかったのだが、それだけに当方の責任は重大であり、弁解の余地なき失敗であった。これにこりて、職業紹介所に女秘書のあっせんを申し込み、よこされた三人の中から一番若くて美人のローリーを雇い、彼女に電話取り次ぎなどの雑務のほか、帳面つけを頼んだ。
 ところがローリー女史、「この会社では、三人以上の女性を雇うか」と聞く。
「クリスマス過ぎには、五人になろう」
「では、女性用トイレに、寝転べる長椅子を置かねばならない。どうせのことなら、今すぐ置くべきである」
「何故か」
 彼女、いささか顔を赤くして、「そんなことは女性に聞くべきではない」と言う。最低賃金の経験もあり、「これはなにかややこしそうだ」と、あちこち問い合わせてみた結果、これもカリフォルニア州のきまりで、生理の際休めるようにとの趣旨の由。机や棚を売っ払った先住企業がなんでそんな長椅子だけを持って行ったのか理解に苦しんだが、それもこういうわけだったのである。見知らぬ土地で事業を興すとなると、かようにこまかな点でも、いろいろあるものである。

スティーブよ安らかに

スティーブは、私が西部劇ファンであることを知ると、ナッツ・ベリー・ファームに案内してくれた。開拓史時代の遺物を集めた公園である。
 スティーブは、また、私を両親の家に招待してくれた。スティーブの父は、自動車部品の工場に二十年以上工員として勤めているとのことで、ロングビーチ郊外の堂々たる家に住んでおり、両親、スティーブ、その兄及び兄のフィアンセの一家を挙げての大歓迎であった。お母さんが精魂こめられた晩飯はまことに結構であったが、ただ、お母さんの誤解で、私にだけ日本人の大好物と彼女の信ずる、ガリガリで食えない生煮えの米とゆでた大根に塩をかけたものがそえられ、さかんに勧められたのには参ってしまった。
 みんなでの食後の語らいは楽しかった。もともと兄がモーターサイクルにとりつかれ、アマチュアレースに出たりしていたのをスティーブが見習ったこと、兄はフィアンセと交際し始めたのを機会にレースをやめたが、スティーブの熱は高まる一方であること、両親も、時々スティーブの応援に行くことなど、レースの話が多かった。
「男の子は運動をやるべきだし、勇ましい運動には、アメリカンフットボールにしても野球にしても、多少の危険はつきものだ。モーターサイクルレースは悪くない」というのが、お母さんも含めた一座の結論であった。
 スティーブは、「モーターサイクルレースほど安全なものはないよ。みんな同じ方向に走るんだし、みんな一定レベル以上の運転技術を持っていて、自分がなにをやってるか知っている。万が一に備えて、救急車も待機してる。言うことなしさ。
 これにくらべると、町中をモーターサイクルで走るのは、こわいなあ。自動車の連中は、こっちのシグナルなんか全然気にせず進んで来るし、まわりを走っているのが、どんな連中かわからず、もし接触すれば、倒れるのは二輪であるこちらだから」と笑っていた。
 このスティーブは、大学復帰を断念、われわれの倉庫のフォアマンとして働き続けた。いち早く、夜間のコンピュータ・スクールに通って、部品管理電算化の推進に当たったりもした。みんなに信頼され、愛されるフォアマンであった。
 だが、レースだけはやめることができず、ロングビーチの販売店のマシンで、あちこち走っていた。そして、この話の時点から二年後の一九六八年、アスコットレース場のコンクリート壁に激突して、二十三年の生涯を終えた。彼の死を機会に、アスコットは、コンクリート壁にカバーを付けて、死亡事故の再発を防いだ。
 われわれスティーブとともに働いた者たちは、若干の醵金をつのったが、それはご両親の意によって、さる教会に寄付された。私の足が、あれほど好きだったアスコットのハーフマイル、TTから遠のきがちになったのは、それ以来である。

アランの三つの道

アランは、新設のアメリカンカワサキモーターサイクル(と社名が決まった)のゼネラル・マネジャー就任を承諾した。
「私には三つの道があった。弁護士としての道、父のあとを継いでクライスラー船外機とカワサキモーターサイクルの代理店をやる道、カワサキに入る道。この三つについて、収入面、将来性、安定性、社会的地位などを五段階法で採点、比較してみた。その結果は、何度やり直しても一位弁護士、二位あと継ぎ、三位カワサキなんだ。けれども、新しい世界への挑戦という点で、カワサキはズバ抜けており、その誘惑には勝てなかったってわけさ」
 彼の奥さんのマリー・オデールは、その先祖から大臣や学者を輩出しているアンスの名家の出で、彼がハーバードの学生、彼女がカナダのトロントで教師をやっている時、結ばれた。パリジャンヌの才媛には、ネブラスカ州の田舎町で、大金持ちとはいえ北欧移民である両親の近くで暮らすのは、決して快適ではなかったようで、転職には彼女のプッシュもあったらしい。
 初対面の際、私が、なにかのはずみで、「学生時代にはドイツ語の方が得意だった」と言うと同時に、彼女のドイツ語の嵐を浴びせられて往生したものだが、彼女は欧州の知識人に間々あるタイプで、数カ国語を自在に話し、読むだけならさらに多くの言葉にも通じていたのである。アランがカワサキに参加した際、すでに二人の子持ちであり、その後カトリックの律義さで、ほとんど毎年男の子ばっかり生み続けるということがなかったならば、日本語にも相当の造詣を示したに相違ない。
 アランという、モーターサイクル業界では全く無名で、米国ビジネスの経験も乏しいかわりに、若くて成長性に富む青年を起用し、ボスの下で、彼と会社とが一緒に伸びて行ったことが、われわれの人事戦略の特徴であった。
 アランも、最初は日本人はいきなりバッサリ首にすると警戒、一年間の雇用契約書を準備して来ており、これにボスとアランが署名した。だが、二年目に私が契約更改案を示すと、「信頼関係があれば、契約なんか不要だ。私は、この一年間の体験で、カワサキとボスとを全面的に信頼するようになった。カワサキとして必要なのならともかく、私としては要らない」と、サインをしなかった。それは後のこととして、とにかくアランは、燃料噴射式ベンツという変わった車に家族を、それに引っ張ったトレーラーに家財道具一切を積み込んで、ネブラスカ州からガーデナへ大移動して来た。
 アランとは、年齢も一緒だし、背景も似ているので、特に親しくなった。米国チョンガーであり、米国の習慣にまだうとかった私は、会社がすんでから、アランをビヤホールなどに引っ張り込み、おそくまで、日米文化比較論などを闘わすことが多かった。だが、やがて、マリー・オデール女史がこの「浮気」行為にカンカンであることを知り、夫妻を日本料理屋に招待したりしたものである。
 サービスマネジャーには、これも全然無名のデロを、アランがネブラスカ州の販売店から発掘して来た。引っ越してきたデロに「カリフォルニアでの最初の週末はどうだった?」と、ありきたりのあいさつをすると、「家族一同、大感激だった。なにしろ、海を見たのは生まれて初めてだからなあ。朝早くから夕暮れまで海岸で過ごしたが、楽しかったねえ。妻も子供たちも大よろこびだったし、私としては、『この太平洋の向うにカワサキモーターサイクルの工場があるんだな』と、感激ひとしおだった」
 デロは大学の工学部を出たインテリで、彼らは米国の中流階級に属するのである。これも広大な米国の一面かと興味が深かった。
 部品と物流のマネジャーはバイロンで、彼だけは、例のジャック一派の一員としてホンダ、スズキでの経験と知名度とを誇る、日系二世の玄人であった。

販売店選び

 発売開始を十一月一日と決め、モーテルに陣取ったボスを中心に、準備が進んだ。私は販売店調査に関して、一店一店アランに説明しながら、販売に関する方針、ルールを、必要な場合にはボスの裁断を仰いで、アランと一緒に決めていった。
 なにかと難色の多かった銀行筋との輸入の話も解決して、この面でも十一月一日発売は問題なかった。
 例のサイクル・ワールドのサムライ・テストは、カワサキへの関心を、いやが上にも高めつつあった。
 デーブ・キンバルのサムライは、西部各地のプロダクションクラスを総なめして歩いており、モーターサイクル・ファンの話題となっていた。
 また、後述するサイクル・ランドのテレビ広告が、ロサンゼルス地域の耳目を集めた。私が面接してレポートを作った販売店は六十を超えたが、彼らからは元より、それ以外の店からも、「サムライはまだか?」という問い合わせの電話が、私のアパートへも、開店準備中の事務所へも、モーターサイクルとはなんの関係もない川崎汽船ロサンゼルス事務所にも、殺到していた。アランの家では、見知らぬ人からの電話の洪水にマリー・オデールが神経衰弱気味となり、あわてて隠し番号に切り替えた。
 アランは、販売網の根幹を作る最初の段階では、セールスマネジャーもセールスマンも置かず、自分で販売店を設立していく考えであった。私もこれには大賛成、というよりは、実は条件さえ許せば、これは私自身やりたい仕事であった。短期間であり、また素朴なアプローチではあったが、私が開拓した市場といってもよかったし、販売店との人間対人間のつながりにも自信があったからである。だが、アランのような有能な米国人を前面に押し立てる販売組織を指向している以上、これは彼らにゆだねるべき分野であった。
 アランと私は、十一月一日以降二週間の面接スケジュールを作った。私が<A>ランク付けした販売店を地域別に呼び(第一日〜第三日はサンディエゴ地域、第四日〜第六日はロサンゼルス地域など)、各店に関して、二者択一の決定を下すのである。
 その一は、私のレポート及び面接結果から、ただちに販売店契約書にサイン、先方の小切手と引き替えに出荷指示書を渡す場合。彼らはどうせトラックで来ているのだから、事務所で看板、工具類、部品などを積み込み、ロングビーチの倉庫会社に出荷指示書を示してモーターサイクルを受け取り、帰ったらすぐ売り出す、というわけである。
 その二は、販売店でもう少し具体的な話しを詰めねば決定しかねる場合で、この場合はアランの訪問日時を定めた。こうして、事務所に坐ったまま二週間にして三十店の販売店を作り、四百台以上を売ることができた。その後、アランの開拓が続き、セールスマネジャーやセールスマンも投入していくのであるが、西部に関しては、最初のこの安易なアプローチは、決していい影響を残していない。
 私が<A>ランクし、最初に出荷指示書を手に入れたのは、ベーカースフィールド、フレズノなどのごく少数の例外を除けば、ホンダやヤマハを売って一流の業績を挙げている店ばかりであった。これらの店は、力があるから、またたく間に相当数のカワサキを売り、西部代理店時代に二%だったカリフォルニアでの占拠率は、極めてすみやかに一○%を突破した。しかし、これらの店にとってカワサキは、あくまでもセカンドラインに過ぎず、当方がホンダ、ヤマハとやり合う気配を見せると、途端に頼りにならなくなったのである。その後われわれが英国などで直販をやる時に「カワサキ専門店でなければ」と頑固なほど頑張ったのは、このカリフォルニアでの経験から来ている。
 いずれにせよ、商売は始まった。町の中で、少しはウチのクルマを見るようになった。

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著者紹介
種子島経(たねがしま おさむ)
昭和10(1935)年福岡に生まれる。33年東京大学教育学部卒業。昭和35(1960)年同大学法学部卒業、同年川崎航空機工業(現川崎重工)入社、今日に至る。その間39年よりモーターサイクルに関係し、国内営業、輸出を担当した後、昭和41年〜44(1966〜1969)年米国駐在。帰国後はモーターサイクルの製品企画、販売企画等を担当。昭和48(1973)年に発売を開始したZ1に大きく関わった。

[第8回|第9回|]

2025/05/19掲載