フラミンゴ(flamingo)はアフリカ、南ヨーロッパ、中南米の塩湖や干潟に生息する。塩湖やアルカリ性の湖といった特殊な環境に適応しており、数千羽から百万羽程度の巨大な群れを形成する。フラミンゴという名前はラテン語で炎を意味するflammaに由来しているとされる。
1980年代後半から1990年代初頭、ロードレースが華やかな輝きを放っていた時代を若井伸之は生きた。180cmと長身で手足が長く痩せていた。その身体を折りたたむようにGP125ccマシンに密着させ、激しいコーナリングを見せ、イン側の肘や膝を擦った。その姿が優雅なフラミンゴのようだった。
今も、スペイン・へレスサーキットの1コーナーアウト側に、若井の死を悼み、フラミンゴの像がたっている。
■文:佐藤洋美 ■写真:赤松 孝
1993年シーズン前
1993年のロードレース世界選手権(WGP)シーズンに向けて若井伸之はスズキからワークスマシンRG-Γを引き出すことに成功し、125ccからステップアップしGP250参戦を決めた。チームはラッキーストライクスズキだ。スズキのサテライトチームとなり、レーシングサプライのスタッフで構成しメインスポンサーとしてケーユー(二輪四輪販売店)に応援してもらう約束を取り付けた。若井伸之は渾身の思いを込めて自力で夢の扉をこじ開けたのだ。
若井はスタッフのパスポートを集め、チケットの手配からマシンを輸送するためのカルネ(国際的制度による通関用書類)を揃え期日通りに現地につく手配のために翻弄した。アタッシュケースの中は書類で溢れ、やることが山積みだった。ライダーでありながら、コーディネーターとしてチームをまとめ、マネジャー業務をこなし準備に追われた。トレーニングのための時間は皆無だった。飛ぶように時間は流れ、開幕の日が刻々と迫っていた。
この年、日本人は、全日本からホンダワークスのエース岡田忠之、ヤマハファクトリーのエース原田哲也、このふたりと同等の実力を評価されている青木宣篤がGP250に参戦を開始する。
青木はアーブカネモトチームからの参戦だった。アーブはフレディ・スペンサーを1983年WGP500チャンピオンに押し上げ、85年に250と500のダブルタイトルを獲得、89年にはエディ・ローソンと組みチャンピオンを獲得した伝説のメカニックだ。チームメイトはマックス・ビアッジだった。
岡田はオフシーズンから開幕戦のイースタンクリークでテストを重ね何度も走り込んでいた。原田のチームメイトはフランチェスコ・キリだ。キリは原田の才能を見抜き献身的なサポートを誓っていた。原田もまた、オフシーズンはテストに明け暮れ、マレーシア、オーストラリア、南アフリカと走り込みを重ねていた。
さらに、スズキはジョン・コシンスキーを迎えた。コシンスキーは、WGPのレジェンドである“キング”ケニー・ロバーツの秘蔵っ子と言われGPデビューを飾った逸材で、90年に250でチャンピオンを獲得すると、91年〜92年はマールボロ・ロバーツ・ヤマハで最高峰500に参戦、6強激突(E.ローソン、W.レイニー、K.シュワンツ、W.ガードナー、M.ドゥーハン、J.コシンスキー)のひとりに数えられた天才ライダーだ。
コシンスキーにとっては、GP500からの降格であり、父のように慕うケニーから離れてのシーズンだった。這い上がろうという思いは鬼気迫るものがあった。
コシンスキーはスズキ契約の純粋なワークスライダーであり、メーカーからの手厚いサポートを受けていたが、若井はマシンを貸与されているサテライトチームで体制の差は歴然としていた。
若井は開幕前の合同テストで、やっと走り出した。原田、岡田、青木らが順調にタイムを伸ばすが、若井は、なかなかタイムが上がらなかった。冷静に考えれば、全日本250でトップ争いを繰り広げていた3人は250を熟知している。だが、若井はWGP参戦では先輩ではあるが、250の経験は少なくテストが出来ていないのだから当然と言えば当然の結果だった。
メカニックの新国 努は93年に向けての慌ただしい日々を「かなりバタバタしていた」と振り返る。若井は「早い時期に乗り込んでタイムを出したい」と願ったが、参戦の準備に追われテストの日程を取るのが難しかった。
新規参入の岡田、原田、青木の3人から置き去りにされたようにうなだれる若井にジャーナリストの遠藤 智が声をかけた。
「俺って凡人なのかな。チクショウ」
若井は涙を浮かべた。
「まだマシンに慣れていないんだ。じっくりと行こう。シーズンが終わったときに結果が残ればいい」
遠藤はそう励ます。
だが、若井は「いや、マシンは悪くない。もっと行けるはずだ」と耳をかさなかった。
GP250への挑戦を始めた伸之を助けようと姉の十月は会社を辞めている。美術家として才能に長けた十月は会社務めの限界を感じ始めていたこともあるが、何より伸之が心配だった。巨大スポンサーを持つチームはケータリングが充実しているが、弱小チームはスタッフが食事の用意をするしかない。これまでもレースの準備に追われスナック菓子をかじるくらいで食事をすませてしまう伸之はガリガリに痩せていた。伸之の体調を考えると食事を作る人間が必要だった。
恋人の瑛美(仮名)のサポートがあれば安心なのだが、彼女にも仕事があり全戦をカバーすることは難しい。十月は瑛美の行けないラウンドは自分が手伝いたいと申し出た。
「姉ちゃんが、ヨーロッパを転戦することで、好きな写真を撮ったり、デザインのヒントを見つけたりと姉ちゃんのプラスになることが多いならいいよ」
姉の申し出は伸之にとって嬉しいものだった。
若井と原田はいつだって困っている方が相手を助けた。ヤマハのマシンを駆る原田のピットをスズキの若井が訪ねる。時には若井が原田のマシンに跨ることもあった。ライバルメーカーのピットに出入りすること、ましてやマシンに触ることや跨ることなんてありえない。だが、若井と原田の間にはタブーがなかった。スタッフも暗黙の了解で黙認してくれていた。
ふたりが信頼しあい速さを純粋に求めていることが見守るものにはしっかりと伝わっていたからだ。若井はサーキットで頻繁に原田に相談を持ちかけるようになる。WGPでは自分が先輩だが、250に関しては原田がスペシャリストだ。ミッションの組み方を始めとするセッティングから、ライディングに対するアドバイスも含め、その相談は多岐に渡った。
原田は若井の苦悩を敏感に感じ取っていた。いつも、冗談ばっかりいって笑わせてくれる若井は、笑うことが少なくなり追い詰められているように見えた。原田には若井の重圧が痛いように分かった。
自身もファクトリーライダーとして勝たなければならないプレッシャーと戦ってきたからだ。若井はスズキワークスマシンを駆り、ラッキーストライクというビッグスポンサーを背負っていた。実質的にはプライベートライダーであることには変わりはなかったが、見た目はバリバリのワークスライダーであり、スズキを代表するライダーと見られていた。
若井は原田の献身的なサポートに答えようと必死だった。
開幕戦オーストラリアGP・イースタンクリーク
WGP開幕戦はオーストラリアのイースタンクリークで行われた。
坂田和人はF.C.C. Technical Sports-ホンダ、上田 昇はマールボロ・チーム・ピレリからと継続参戦が決まった。この年には多くの日本人ライダーが参戦を決め、WGPの中で日本人ライダーは一大勢力となる。
若井は坂田や上田を応援しようと1コーナー脇に陣取った。坂田はピットロードからコースに出たときに若井の存在に気がついた。若井は一生懸命に坂田に手を振った。
その姿を見た坂田の胸には熱いものがこみ上げて来た。
「そうか、奴は125を卒業したんだ。いつかお前に追いつくから……」
坂田は若井が与えてくれたものの大きさを分かっていた。
「あいつがいなかったら、世界GPを戦うノウハウを蓄積できなかった。海外の友人が増えたのも、サーキットやコース、マシンへの理解が深まったのも、あいつがいたからだ。感謝を言葉にするのは照れくさい。だから、俺は、若井の分まで、125で暴れてやる」
と誓った。
坂田はダーク・ラウディスに続き2位に入る。4位に小野真央、6位に和田欣也、7位に斉藤 明、上田は8位。9位に辻村猛と、トップ10に6人の日本人ライダーが食い込んだ。この年から参戦を開始した青木治親は14位でチェッカーを受けた。
GP250決勝で原田がコシンスキーとのトップ争いを制して優勝した。突然現れたルーキーの勝利に誰もが驚き祝福した。2位にコシンスキー、3位ビアッジ。4位に岡田、5位に青木が入る。若井は21位となる。悔しさを噛みしめながらも若井はデビューウィンした原田の元を訪れている。
「哲也には差つけられちゃったな」と声をかけながら、原田の偉業の凄さを知るGPライダーとして、心から原田を讃えた。
GP500はケビン・シュワンツが勝ち、2位にウェイン・レイニー、3位にダグ・チャンドラーが入った。参戦1年目の伊藤真一は7位だった。宇田川勉は14位、新垣敏之は23位だった。
第2戦マレーシアGP・シャーラム
マレーシアGPでは原田と坂田が若井と一緒にコースの下見に出かけている。コースを歩きながら、ライディングのイメージを固めセッティングを考えた。ここは125時代に坂田と共に表彰台に駆け上った思い出のコースでもある。
だが、ここでも若井は転倒し苦い思いをかみ締めていた。坂田は駄目な時には駄目なりに、確実にポイントを獲得する若井のしぶとさを知っているだけに、若井らしくない姿に心配を募らせていた。いつも、自分が駄目なときは手を差し伸べて助けてくれた若井のために何が出来るのだろうと考えた。
予選1回目、午前中に雨が降って路面をぬらしたが、午後にはドライとなった。トップに立ったのはロリス・カピロッシ。この日のタイムを超える者はなくポールポジション(PP)が決まった。2番手にカルロス・カルダス、3番手青木、原田は4番手。5番手ビアッジ、6番手に岡田。若井は26番手となる。
決勝では原田がトップに浮上し主導権を握る。青木、岡田が追撃しようとするがドリアーノ・ロンボニが阻む。2周目には原田は独走状態となり、その後方でロンボニ、青木の接近戦となる。その争いに岡田、カピロッシが追いつく。青木は2番手をキープして原田を追う。青木は原田とのビハインドを削り取り背後に迫り、遂に14周目の最終コーナー立ち上がりで原田を捉える。最終ラップに原田は猛然と青木に襲いかかるが、青木はブロックし原田を従えコントロールラインを通過し初優勝を飾った。2位に原田、3位はカピロッシとなったが、レース終了後にフライングのペナルティが課せられ岡田が繰り上げ3位となった。若井は転倒リタイヤとなる。
GP125はラウディスが勝利、2位坂田、3位辻村が表彰台に登った。4位に上田が入った。GP500はレイニーが勝利した。伊藤は7位、宇田川は14位、新垣は23位となる。
若井はホテルに戻ると93年シーズンからの若井のコラムを担当する遠藤氏に電話をしている。若井は電話が遅くなったことを詫び、レースを振り返り取材に応じた。電話を切るときも「遅くなってすみません」と詫びた。
第3戦日本GP・鈴鹿
WGP第3戦日本GPが開催される三重県鈴鹿サーキットに父・一、母・義子の姿がスタンドにあった。両親にとって初めてのGP観戦だった。これまでふたりは息子の勇姿を見たいという思いよりも、自分たちが行くことで伸之がレースに集中できなくなるのではないかとの危惧の方が先にたちサーキットに行くのを止めていた。子供の頃、運動会に両親が揃って声援すると、決まっていい結果が残らなかった思い出もあり、伸之にとって大切なレースだからこそ躊躇する気持ちの方が大きかった。
だが、十月が説得する。
「伸之は見に来て欲しくないと思う。気が散るし……。ノブが嫌がると思う」
「そんなことはないと思う。念願の250に乗れるようになったことを、絶対に見て欲しいと思っている」
母も十月の勧めに従い3枚のチケットを購入する。そのチケットが届いた頃、伸之からもチケットが届いた。十月は「ほらね」と笑顔を見せた。
ライダーたちは続々と帰国し日本GPへの準備を進めていた。時の人となった原田には取材陣が殺到する。原田は雑念を払うために取材を一時的に凍結させている。
「みんなは凄いと言ってくれるけど、自分では実感がない。普通に勝ちたいと思っているだけだから」
原田は自分のペースを崩さない。
青木はマレーシア優勝を祝う祝勝会が5回も開かれ、連日のパーティに借り出されていた。岡田は全日本V2チャンピオンの意地に賭け、原田、青木に先を越された勝利を挙げようと虎視眈々と日本GP勝利を狙っていた。日本GPはラッキーストライクが冠スポンサーとなり若井への注目度も上がった。
「ポイントも取れないままに2戦が終わってしまった。マシンも人間の煮詰めもできていなかったけど、着実に進歩している。日本GPでは自分をサポートしてくれている人たちに恥ずかしくない走りをしたい。ここで、いい弾みをつけてヨーロッパランドに挑みたい」
若井にとって日本GPは特別の戦いとなる。ホンダの岡田、ヤマハの原田、スズキの若井と並び、大きな注目の中で始まった。
(文:佐藤洋美 写真:赤松 孝)
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