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第二次世界大戦に敗戦後、1950年代半ばから急速な経済成長を遂げた日本。1960年代になると力を付けた国内二輪メーカーは世界市場、特に巨大なマーケットである北米への輸出を本格化すべく試行を重ねた。今日では押しも押されぬ大排気量メーカーのカワサキだが、北米において初めてシカゴに駐在事務所を開設したのは1965年7月。この年の10月、待望の大排気量車W1が完成、いよいよ北米輸出に本腰を入れ始めた。これは、そんなカワサキの海外展開黎明期に単身渡米したサムライ、種子島 経氏の若き4年間の日の奮闘の物語である。この経験が、後にマッハやZの誕生に大きく関わるのだが、それはまた別の物語である。

※本連載は『モーターサイクルサム アメリカを行く』(種子島 経著 ダイヤモンド・タイムス社刊・1976年6月25日発行)を原文転載しています。今日では不適切とされる語句や表現がありますが、作品が書かれた時代背景を考慮し、オリジナリティを尊重してそのまま掲載します。

ニューヨークへの旅

 私の報告も、一つの刺激にはなったのであろう。また、四月末になってもいっこうに荷動きが活発化しないのにシビレを切らしたのかもしれない。サンディは、急遽、セールスマネジャーを雇ってきた。中西部代理店のセールスマネジャーであるマイクの紹介で、名前をディーンといい、オハイオ州クリーブランドでヤマハのディーラーをやっていた男である。
 モーターサイクルに乗るのもさわるのも大好きというから、この点モーターサイクル屋としての第一条件は満たしていたが、一見いかにもやさ男で、はたして海千山千のセールスマン連中を押さえ込めるか、には疑問があった。三名のセールスマンは二十四州を分け取りしてかなりの給料を稼いでいたし、現在の体制が続く限り相当の収入が保障されているわけで、これに対するいかなる変化にも反対、自分たちを直接コントロールしようという存在には大反対にきまっていたからである。
 ある朝、ディーンが私の席にやってきた。
「サム、二週間ほどお別れだ。販売店を訪問しながらニューヨークに行き、自動車ショーを見て帰ってくる。往復とも自動車だから、二週間はかかるんだ」
「どうだい、ディーン。私を連れて行かないかい」
「大歓迎だよ、サム。昼過ぎには出発したいから、用意したまえ」
 そばにいたバルが、つと立った。ハインツへのご注進だ。ディーンがすぐ電話で呼ばれた。
 しばらくして、口論の興奮さめやらぬ面持ちで帰ってきたディーンは、
「片づいた。ここの連中には、モーターサイクル商売がわかってないんだ。君を販売店に連れて行っては困ると言うんだがね。本当は、販売店の連中は、われわれが日本の工場のバックアップを受けてやっていることを確かめたいわけで、君が日本人の顔して来てくれるのは、販売促進上、大きな効果があるんだ……。ともかく、これは私の仕事なんだから余計な口を出さぬよう、ハインツに言っといた」
 ディーン先生、なかなかやりおるわい、というところである。おかげで、待望久しい販売店回りができることになった。

乱世の奸物・マイク

 ディーン車は、一路ニューヨークに向かうかと思うとさにあらず、北に二時間走って、フォード大統領の出身地として脚光を浴びたミシガン州グランドラピッズに入った。
 中西部代理店は、ここを本拠としている。そのセールスマネジャーであるマイクは、ディーンの友人で、今回のディーン就職も、マイクがサンディに口をきいたことに端を発しているのだから、なにはともあれお礼言上というあたりは、洋の東西を問わない。
 マイクはステーキ・ディナーをおごってくれながら、しきりにディーン洗脳を行なった。私にもステーキこそ振舞ってくれたが、「サムの馬鹿は英語がわからん」という前提で、私の存在は完全に無視して、口角泡を飛ばしている。だがこの頃の私はかなりヒヤリングができるようになっていたし、こういった生臭い話は、私たちにはかえってわかりやすいのだ。
 マイクは乱世の奸物である。
 自分自身、中西部代理店を実質的に握っており、さらにディーンを通じて東部代理店をも押さえてしまえば、米国市場の大半を手中にしうるわけで、これを背景に、他の代理店にも呼びかけてカワサキ代理店連合を作り、日本の工場を追い回すと同時に、米国での販売をうまくやろうという大構想である。
「お客は米国人だし、販売店も米国人だ。米国での販売のことは、しょせん、日本人にはわからん」
「われわれが団結すれば、ホンダやヤマハの日本商法なんか簡単に抜いて、カワサキをナンバーワン・モーターサイクルにすることができる。そうなればガッポリもうかるぜ」
 後日の話になるが、このマイク構想は、当然のことながら失敗する。自分はリスクをかけようとせず責任をとりうる立場にもないのに、口先だけで他人を動かす陰謀が成功したためしは古来ないのである。事態は次のような経過をたどった。
 まず、このあとしばらくして、ディーンが、セールスマンの突き上げに抗し切れず、東部代理店をクビになる。マイクは自分がセールスマネジャーに推薦したのは忘れたかのように、
「ディーンのヤツは、元来メカニックなんだ」と称して、自分の下のサービスマネジャーに任命する。
 そのうち、マイク本人が、「ペラペラしゃべって金を使うだけで、いっこうに販売実績が挙がらん」ということで、クビになってしまった。
 それを機にディーンは、グランドラピッズにカワサキ販売店を開き、現在も大いに繁盛しているが、マイクのその後は知らない。

Woods Riding

 さてディーン車は、次にオハイオ州クリーブランドに向かった。自分のヤマハ販売店の売り渡し手続きを完了し、家族に会うためである。
 クリーブランドに着いた翌早朝、ピックアップトラックに二台のヤマハを積んで、森に入った。
 彼自身が一台のヤマハに乗り、ヘルメットをかぶり、エンジンをかけて、「さあ、サム、ついて来い。中西部名物のWoods Ridingだ。はぐれて迷い子になったらさがし出すのが大変だから、離れるなよ」
 ディーンを追って森の中に飛び込んだ私は、いきなり木にハンドルをぶっつけて、ひっくり返った。
 ディーンは向うで笑っている。
「なにくそっ」と後を追う。
 林を抜け、やぶを突っ切り、丘に登り、下り、砂地を走り、浅い池まで渡った。どうにも持て余したのは、ゴロゴロ倒れている太い木を乗り越えることで、これは前輪をピョンと持ち上げる要領がわからず、往生した。
 三時間も走り回って、 ピックアップトラックの所に帰り着いた。ヘルメットを取ったら、二人とも頭から湯気が立っており、運動量の激しさがわかった。
「面白いだろう」
「面白い。こんな乗り方は初めてだ」
「その割にはよくやった。見込みあるぞ。この遊び、以前は私たちの仲間だけ、男ばっかりでやってたんだが、最近は、家族ぐるみで、女も子供もやるようになった。土曜、日曜のこの辺りは、弁当持参のモーターサイクル・ファミリーで超満員さ」
 大自然の中を走り回ること、家族ぐるみでやること、いずれも日本では想像もできないことであったが、「この辺に新しい大市場が拓けるのかもしらん」と考え込んだものであった。

サンザンなカワサキの評判

 ペンシルベニア州に入って、やっとディーンの縄張りになった。彼は、販売店リストに記載されているのが実際にはどんな店かを実地に見るのを目的としており、私の関心も全く同じであった。
 だが手当たり次第に二〜三店飛び込み訪問して、二人は早くも愕然とした。いかにペンシルベニア山中の小市場とはいえ、看板も出してない住宅の前にモーターサイクルを並べただけ。修理工場も部品もないのである。
 店主の話も全く悲観的だった。
「モーターサイクルはもうかると聞いてたところに、お前んとこのセールスマンが来て、クルマさえ置いとけば右から左に売れるようなことを言うもんだから、ついその気になったんだがね……。一台だけ売れたのはいいが、お客は翌日から、部品よこせとうるさいこと。お前んとこに何回注文しても来はしない。お客は怒る。こんな小さな村だから、ほかの連中はもうウチから買いはせん。商売やめたいから、クルマを買い戻してくれよ」
 町の中では、ホンダやヤマハの店に押し込んでいた。ここでも、カワサキの評判はサンザンだった。
「セールスマンが『一台でも二台でも』と言うんで置いてみたんだがね。そのセールスマンも全然よりつかず、なにがどうなってるのか、どんな売り方をしたらいいのかわからん。技術情報も来ないし、お前んとこ部品在庫ゼロというじゃないか。こんなことではあぶなくて、カワサキなんか売れんよ」
 予想以上の体たらくであった。
「ディーン、これではリピートオーダー(二回目、三回目の注文)も来ないはずだね」
「これほどとは思わなかったよ」
「私は、いささか忠告したいのだが」
「やってくれ、サム」
「君がセールスマネジャーとして販売方針を決め、セールスマンを統率して行くなら問題の一つは解決する。だが、販売面だけでも、あと一つ大きな問題が残っている。
 第一は、セールスマンの数だ。これは米国の二十分の一しかない国からやって来たひがみじゃないと思うんだが、二十四州に配するに三人とは、一人一人がスーパーマンでも少なすぎはしないかい」
「そのとおり。販売店の指導・育成をホンダ、ヤマハ並みにやるには、少なくとも十人は欲しい。それに、現在の三名は、スーパーマンどころか、くわせ者のインチキ野郎ぞろいだ。全部入れ替えるつもりで、後任の人選も、大体すませた」
「第二は、セールスマンの給与体系だ。新しく契約した販売店への最初の売上高の一○%が、セールスマンのコミッションになるのは知ってるね」
「知ってる。どうも気に食わんやり方だと思っている」
「オーケー。では次にリピートオーダーに対するコミッションは、わずか売上げの二%。しかも、このコミッションはモーターサイクルについてだけで、部品やサービス工具は関係ない。そうだね」
「そのとおり」
「さて、そういうシステムだとすると、もし私がセールスマンならば、とにかく新しい販売店をメチャメチャに作るだろうな。なにしろ十台押し込んで五千ドル売れば、私の取り分は五百ドル。一ヵ月十店やれば五千ドルだからな。現にこの辺を持ってるセールスマンのブルースは、その手で毎月、三千ドルから五千ドル稼いでるぜ」
 私は、セールスマン増員を行ないうるか否か、コミッション制度を撤廃できるか否かを、ディーンのセールスマネジャーとしての試金石とみた。

 旅のもう一つの目的であるニューヨーク自動車ショーは、東京モーターショーと同じく自動車中心で、モーターサイクルは付け足しに過ぎなかった。お客の関心や質問も、デイトナショーとは比較にならぬほど程度が低く、私は自分のコマにいる興味をなくして、もっぱら自動車各社のコマを回って過ごした。
 ディーンと前記の東部代理店のブルースのご両人は、連夜、モーテルの部屋で激論を闘わしていた。
 ブルースは、二十四歳ながら、積極果敢なセールスマンで、事実上のセールスマネジャーとして代理店を引っ張り回しながら、コミッション制度で大金もうけをたくらんでいただけに、ディーンに対しては、最初からケンカ腰であった。ディーンの、セールスマン入れ替え、コミッション制度撤廃の意思をみてとるや、このモーテルにいる間にセールスマン仲間であるフロリダのジャックやテキサスのリンドンを電話で扇動、次のセールスミーティングでディーンをほっぽり出す伏線を敷いてしまった。
 このブルースらのディーン追い出し作戦は実際に成功し、数ヵ月後にディーンは東部代理店をクビになってしまう。代わって、スキップという元ヤマハのセールスマネジャーをやっていた男が販売担当副社長として採用され、東部代理店の一時代を支配することになるのだが、その話はもう少し後にしよう。

モーターサイクル気違いのデュポン

 ニューヨークからシカゴへ帰る車の中だった。
「サム、今日は私の友人の家に泊るぜ」
「オーケー。なんて人だい」
「ジャック・デュポン。もう四十歳近いが、ロードレース気違いで、毎年デイトナに出ている。私とは十年来のレース友達だ」
「デュポンっていうと、もしやデュポン・ケミカルの一族では?」
「そうだって話だ。ジャックも機械を作ったり売ったりする会社を、二つ三つ持ってるらしい。もっとも、そっちの方の話は聞いたことがないんで、よく知らないがね」
 四十歳近いデュポン一族がモーターサイクルレース気違いとは、これも日本では想像し難い現象である。
 車はフィラデルフィア郊外の山に深く突っ込んで行った。舗装が切れて、全然人っ気のないデコボコ道。ディーンの駆るフォードギャラクシーのソフトスプリングは悲鳴のあげっ放しになった。「こんな山の中に、デュポン一族が?」と疑ううち、突如視界が開けて、夕闇の中に数十頭の馬が遊ぶ牧場が見えてきた。
「もうすぐだ。馬はデュポン夫人の趣味でね」
 デュポン宅は、牧場の尽きた所、山小屋風の家であった。デュポン夫人は、西部劇のヒロインを思わすジーパン姿で、よく日焼けし、おしろいのカケラもなかったが、まことに上品な顔立ち、雰囲気の持主であった。
 それに引き替え、やがて帰宅したジャック・デュポン氏は、米国人にしては小柄でやせており(これはロードレースには有利だろうが)、頭はいわゆるフラットトップ(GI刈り)にツルツルに刈り上げ、それに眼がチョイとやぶにらみで、大金持ちのイメージには程遠かった。
「ハーイ、ディーン。ハーイ、サム。待たせたかい。フィラデルフィアから一時間の山道は馴れてる私にもこたえるが、これぐらい引っ込まぬことにはもう『アメリカ』はないんでね。ま、悪しからず。
 ところで、カワサキはロータリーバルブを二つ付けた二五○CCを出すらしいな。ひとつ手に入れて、さわりたいもんだ」
 あいさつもそこそこに、彼は私たちを地下室に案内した。仰天したことには、広大な地下室がすべてこれロードレース用モーターサイクルの研究所兼試作工場なのである。製図板、各種計算器に始まって、溶接機やグラインダーはいわずもがな、旋盤、ボール盤など、各種機械がズラリと並び、動力計まで置いてある。これだけの設備を一個人が所有しているとは、信じ難い話であった。
 彼はヤマハの量販車をベースに、一人で、それを自分に合ったロードレーサーに仕上げるべく構想を練り、理論計算を行ない、図面を画き、部品作成、組立、さらにはその実験までやって、最終的にはそのマシンでレースに出るわけである。これが毎日夕食後深夜まで、そしてレースのない土曜、日曜の彼の趣味なのである。
 地下室でも、夕食の間も、その後再び地下室に移ってからも、彼とディーンの間には、「どこをどう削ったら何馬力上がった」というようなレース談義だけが、とめどもなく続いた。
 相手がデュポン一族とあれば、アメリカンビジネスについても学びたいし、彼が出資者になってカワサキ専門の大販売店を出してくれたら、という助平根性もないではないしで、話の切れ目に割って入ったが、「私はモーターサイクルは大好きだが、モーターサイクル・ビジネスには興味ない。こんな面白いものをビジネスなんかにしてたまるもんかね」と、ニベもなかった。
 ダンナの趣味の地下室や奥さんの趣味の牧場こそ大層なものだが、そのほかはごくありきたりのアメリカンホームに過ぎず、私が寝かされたのも、子供部屋の一つの子供用ベッドであった。
 子供用ベッドの上で、私は、クリーブランドの森と、いい加減な販売店と、ジャック・デュポン氏の地下室とを、三題噺のように組み立ててみた。
「市場もお客も、日本よりは遙かに広い。攻め方次第で、われわれ新参者にもチャンスは残されている。こういう市場で、あんなインチキ販売店しか作れないのは東部代理店の責任だ。やり方次第。やり方次第……」
 渡米後三ヵ月にして、やっと問題解決のとっかかりを掴んだ気持であった。
 数年後、デュポン氏からは一度だけ、カワサキ二五○CCロードレーサーのあるエンジン部品を送るよう電話を受けたが、その後のつき合いはない。

韓国人留学生に助けられて・・・・・

 先任のシカゴ駐在員は二人とも酒、女には極めて淡白とあって、この面でも最初から単独飛行せざるを得なかった。夕食後ひとまずアパートに帰り、ひとしきり読書などで時間を過ごした後、ぶらりと外に出て、手当たり次第にバーやゴーゴーバーに飛び込むことが多かった。
 一人でチョコンと止り木に坐り、馬鹿のひとつ覚えで「スコッチ水割り」を注文すると、「二十一歳以上であることを証明する文書を見せろ」と要求されることが間々あり、運転免許証を手に入れるまでは、一杯飲むにもパスポートを持参しなければならない始末。満三十歳の私としては、まことに心外なことであった。
 思うにこの頃は、私もかなりオドオドしていて、それでチンピラに見られたのであろう。以後は、別に背が伸びたわけでも白髪がふえたわけでもないのに、ついぞ言われたことがない。
 女欲しさの一念で、バーテンダーやウエーター相手に、身ぶり手ぶりも入れて「なんとかならんか」と訴えるのだが、いっこうにラチがあかぬまま、二月、三月と過ぎた。商社や銀行等の日本人仲間は、「シカゴにはないんです。もしみつけたら、教えて下さい」などとあっさり言うが、「ない」で済まされることではないし、商売のメドがまだ立たず、したがって家族呼び寄せの見通しなど全くない私としては、なんとか現地調達を計るしかないわけで、連夜、恥さらしな酒場めぐりを続けていた。
 救いの手は韓国人学生諸君からきた。われわれの部品会社には数名の韓国人留学生がアルバイトに来ていたが、米国人にくらべて働きぶりが段違いなばかりでなく、人柄もいいので、個人的なつき合いにまで及んでいた。
 彼らはすべて韓国の高級官僚や実業家の子弟だが、「最初の六ヵ月間だけ送金してくれ。あとは一切自活する」という約束で渡米、約束通り自活して大学に通っているのであった。すさまじい勉強家である反面、互助の精神に富み、上長への礼義に厚く、私が見聞していた日本人留学生とは比較にならない優秀さで、「こんな連中を明日の指導者に持つ韓国はすごいな」と思わしめるものがあった。
 一夜晩飯を共にしながら、なに気なく、「なんとかならぬものか」と持ち出すと、「簡単だよ。早速今から行こう」というわけで、シカゴ中心街の、とある古ぼけたホテルに連れていかれた。三ドル払ってチェックインし、エレベータの黒人ボーイに一ドルやると、女が待つ部屋に案内してくれる仕組みで、女には十ドルか十五ドル払った。
 こういうことは、こんなふうにルートがチャンとすればそれで落ち着くもので、そう足繁く通ったわけでもない。その方面のメドが立たないということが、私のように若くから結婚生活に入っていた男には目の前が真っ暗になるような精神圧迫要因なのである。
 なんにしてもこれで一安心、と思う間もなく、西部への転勤話が持ち上がってきた。(続く)

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著者紹介
種子島経(たねがしま おさむ)
昭和10(1935)年福岡に生まれる。33年東京大学教育学部卒業。昭和35(1960)年同大学法学部卒業、同年川崎航空機工業(現川崎重工)入社、今日に至る。その間39年よりモーターサイクルに関係し、国内営業、輸出を担当した後、昭和41年〜44(1966〜1969)年米国駐在。帰国後はモーターサイクルの製品企画、販売企画等を担当。昭和48(1973)年に発売を開始したZ1に大きく関わった。

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2025/01/24掲載