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レース・イベント

フラミンゴ(flamingo)はアフリカ、南ヨーロッパ、中南米の塩湖や干潟に生息する。塩湖やアルカリ性の湖といった特殊な環境に適応しており、数千羽から百万羽程度の巨大な群れを形成する。フラミンゴという名前はラテン語で炎を意味するflammaに由来しているとされる。

1980年代後半から1990年代初頭、ロードレースが華やかな輝きを放っていた時代を若井伸之は生きた。180cmと長身で手足が長く痩せていた。その身体を折りたたむようにGP125ccマシンに密着させ、激しいコーナリングを見せ、イン側の肘や膝を擦った。その姿が優雅なフラミンゴのようだった。

今も、スペイン・へレスサーキットの1コーナーアウト側に、若井の死を悼み、フラミンゴの像がたっている。
■文:佐藤洋美 ■写真:赤松 孝 ■写真提供:若井十月

小学校時代

 若井伸之が10歳になる1977年、東京都品川駅付近の公衆電話ボックス脇においてあったコカ・コーラを高校1年生が拾って飲んで急死した。コーラには猛毒の青酸ナトリウムが混ぜてあった。無差別殺人を狙っての犯行とみられた。伸之の母、義子はランドセルを放り投げて飛び出して行く子供たちに気をつけるようにと口を酸っぱくして言っていた。

 伸之が小学校3年生のとき、お誕生会をやろうと考えた義子が伸之に相談した。

「お友達は誰を呼びたい?」
「誰かって決めなければならないの?」
「そうね……。仲良しの子を何人か呼べたらと思うんだけど……」

「誰かを呼んで、誰かを呼ばないのは好きじゃない。やるなら、クラス全員を呼びたい」
「じゃ、全員にしましょう」
「うん」

 伸之は元気にうなずいて、クラス全員に声をかけた。

 7月25日の伸之の誕生日には、クラスメイト40人が集まり、若井家を占領した。この日、義子は手作りのシュークリームを120個も作った。

 伸之はオルガンの代わりに小学校1年生から習い始めたバイオリンを披露した。この余興に伸之は「恥ずかしい」と抵抗したが、義子の願いを聞きいれ、しぶしぶバイオリンを弾くことを承諾した。伸之が選んだ曲はヨーロッパ舞曲のひとつ、ゆったりとしたリズムで優雅に踊られる宮廷舞踏「メヌエット」だった。

 女の子たちは、国民的アイドルとなったピンク・レディーの歌を歌って誕生日を盛り上げた。男の子たちは野球選手、王貞治のホームラン世界記録達成なるかが大きな話題だった(達成され、国民栄誉賞の第一号となった)。

 バイオリンのレッスンは、小学校1年生から小学校4年生まで続いた。嫌々通った教室だったが、ここで繊細な音を聞き分ける耳を鍛えられたことを伸之は認めている。絶対音感と呼ばれる他の音の助けを借りずに音の高さを把握することの出来る感覚を鍛えられた伸之はライダーとなり、エンジンセッティングの時に、微妙なエンジン音を聞き分けセッティングの方向性を見出した。

 後に伸之は「バイオリンで鍛えられた音感が役に立ったよ」と義子に打ち明けている。

若井伸之

 9月28日、パリ発東京行きDC8型機が経由地ボンベイ空港を離陸直後に日本赤軍を名乗る5人に乗っ取られた(日航機ハイジャック事件)。犯人らは日本政府に対して日本国内で身柄拘束中の過激派7人、刑事犯人の釈放と身代金600万ドルを要求、政府は超法規的措置で6人を釈放した。犯人5人と釈放犯6人はアルジェリアに投降、人質は解放される。このニュースは、大きな話題で、伸之でさえ、何があったのかと義子に聞いた。

 教育熱心な母は、姉・十月に中学受験をさせることを決めた。塾に家庭教師、小学校高学年の思い出は勉強ばかりだ。十月は「何故、自分は他のお友達のように遊べないのだろう?」と疑問を持ちながらも、母の熱心さに引きずられるように勉強に励んだ。受験は親子の戦いである。子供の苦労も大きいが、支える親も、経済的にも精神的にも、大きな負担を強いられるものだ。十月は、そんな親の期待に答えて、見事、難関の名門中学に合格する。

 母は、同じように兄の紀良にも受験をさせようと考えた。紀良も塾に通い、家庭教師に勉強を見てもらった。目指すは姉同様、難関中だ。だが、紀良は「電車に乗って学校なんて嫌だ。仲間がたくさんそばにいるのに、なんで離れなきゃならないんだよ。一緒にバスケをやろうと約束してんのに、約束を破れるか。彼女なんか出来たら部活終わった後に一緒に帰ったりしたいって夢もあんのに、なんで電車通学なんだよ。だいたいにして、こんな勉強ばっかしなきゃなんない学校なんてごめんだ。俺は絶対に受験はしない。地元の中学校に行く」と決めていた。

 紀良は勉強自体が嫌いなわけではなく成績も良かった。それでも、胸に秘めた思いは変わらない。そして、受験日がやってきた。紀良は、受験日当日に布団をかぶって起きなかった。実力行使だ。扉の向こうで母が力の限りに叫んでいても、紀良は部屋を出なかった……。

 義子は紀良の行動がショックで、しばらく立ち直れなかった。そのショックを引きずる母は伸之に「勉強しないさい」とは言わなかった。伸之は姉や兄が母から勉強しなさいと言われ、塾に通い、家庭教師が来る様子を見ていた。自分も勉強するんだろうなと覚悟していた。羨ましい訳ではないし、勉強が好きだったわけではないが、少しだけ寂しさを感じていた。いつものように紀良の後を追いかけて歩いていた時、伸之は「俺だけ塾行けって言われないんだよ」と兄にうち明けている。紀良は「ラッキーじゃん。俺のおかげだ。感謝しろよ」と伸之の肩を叩いた。

 義子は子育てが一段落したことで、自分へのご褒美に欧州への20日間の旅に出た。欧州の旅は刺激的で、美術文化の魅力に陶酔する。学生時代は優等生で、画家という夢をかなえ、優しい旦那と可愛い子供に恵まれている自分に優越感を持っていた。だが、欧州ではまったく言葉が通じなく、萎縮する場面もたくさんあり、自分が井の中の蛙だったことに気がつかされる。人間は自分に自信を持ち輝くものがなければ駄目だと考えた。伸之や弟の基宏には、好きなことを思い切りさせてあげたいと思い帰国する。

 そんな義子の心変わりもあり、伸之は受験勉強とは縁のない生活を送る。名前のように伸び伸びと育つのである。

「アーウー」 と大平首相のやたらに間延びした口調を真似して笑い、「口裂け女」だと叫んで、「ナンチャッテおじさん」だと友達とふざけた。賢さと行動力は人一倍。缶けりでも、鬼ごっこでも、かくれんぼでも、負けず嫌いを発揮する。頭脳派で、ジャンパーを裏返したり、友達と服を交換し変装したりして逃げのびる。

 優しい男の子で、末の弟・基宏が怒られて、家の外に立たされている冬の日には、2階の自分の部屋から寒くないようにと毛布やジャンパーを投げた。基宏のために「もう、許してあげて」と泣きながら義子に頼むような子だった。

中学時代

 1980年、第21回オリンピックがモスクワ(ソ連)で開催されるが、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して日本、アメリカ、西ドイツなど、IOC加盟148カ国中67カ国が不参加。世界一を目指して凌ぎを削ったアスリートにとっては受難の年だった。

 だが、紀良が通う千葉八千代台の中学校の男子バスケット部は強く市大会では圧勝、県大会は2位、関東大会は3位の強豪だった。紀良は、地元にファンクラブがあり、バスケットの試合になるとギャラリーが増え、女の子の黄色い声援が飛び交った。そんな兄を羨望の眼差しで見つめていた伸之は「俺も絶対にバスケットをやる」と誓った。

 伸之は地元中学校に進みバスケット部に入部する。伸之にとっての先輩は、紀良の後輩であり、先輩からも一目おかれる伸之は自然とチームのリーダーとなって行く。紀良から伸之と続いたバスケット部の和は、その後も崩れることなく、仲間として伸之の夢を応援することになるのだ。

若井

 兄に憧れていたこともあるが、長身の伸之は「勉強では勝てないかもしれないけど、身長は誰にも負けない。取り柄は身長だけだからね」と牛乳を毎日1ℓ飲むのが日課となる。

 そして、誰よりも早く学校に出かけ校門の鍵を開けて一番乗りする。3年生ではキャプテンとなり、持ち前の統率力を発揮、チームを引っ張った。県大会優勝までに後一歩と迫るまでになる。長身の伸之が颯爽とバスケットボールを操る姿を憧れのまなざしで女の子は見つめた。女の子の人気は兄には及ばないものの、男女変わりない人気は学校始まって以来で、伸之を知らない者はいなかった。同級生が「あんなにもてた奴を知らない」と驚くほどのモテモテぶりだった。かっこいいけどちょっと3枚目な雰囲気があり、そこが男女問わない人気の秘密だった。

「女の子が大事、同級生が大事。殴るなら強い奴、弱いものいじめは許さない」が兄・紀良からの訓示だ。伸之はその言葉を守った。同級生の女の子が他の中学校の生徒に絡まれているのを見つけると、女の子を助け、血だらけになって家に戻って来たこともあった。仲間がやられたと聞けば、真っ先に飛び出して行った。相手は「汚いラッパズボンに太いベルト。顔に傷もあり、ナイフを持っている」と絵にかいたような不良で、伸之たちは見るからに普通の中学生だった。それでも臆することなく喧嘩を買った。だが、その喧嘩相手とも最後は仲良くなってしまうのが伸之だった。年上の者から可愛がられ、兄の仲間たちも伸之を大事にしてくれた。

バイク

 1982年2月9日、日航機が羽田沖に墜落する。福岡発の日航機DC8型機が羽田に着陸寸前、海中に墜落するという事故が起きた。死者24人、重軽症者142人の惨事だったが、原因は機長の操縦ミスでエンジンを逆噴射させたためと判明した。「逆噴射」が流行語になった。パイロットはエリート職業の代表だが、かっこいい職業にも厳しい現実があることを伸之はTVに映る海に浸かるジェット機の映像を見ながら感じていた。将来の自分を想像することは、まだ、難しかったが「好きなことを思いっきりやって突き詰めたい」という思いが芽生えていた。

 紀良は高校生になっても女の子にもてた。 「ウッソー」「ホントー」「カワイイー」ですべての感情を表す「三語族」が増殖、アイドルの松田聖子を真似、聖子ちゃんカットで可愛いが、みんな同じように見えた。紀良はアルバイトで得たお金で、16万円のヤマハ原付バイク「タウニー」を購入。早速、伸之と自衛隊の敷地に遊びにいく。戦車の通過したあとの轍は、モトクロスをするには格好の場所だった。一緒にバイクで遊んでいた紀良だったが「俺は四輪の方が向いている。自転車も嫌いだし、なんか二輪はかったるい。寒いのに、こんなもの乗ってられるか」とバイクへの興味はすぐに薄らぐ。

 反対に伸之はバイクの魅力に目覚めて行く。兄がいなくてもタウニーを引っ張り出し、自衛隊の敷地でスロットル全開で坂道を登り思いっきりジャンプする遊びに夢中になる。着地地点は藪の中で、ゲリラ戦の練習用に作られた敷地には穴がいたるところに開いており、その穴にはまってフロントフォークがグシャグシャと潰れてしまった。紀良は「元通りにしろ」と伸之に命じる。

「直せって言われてもなー。金もないし、いったいどうすれば……」

 思案した伸之は、工夫して器用に直してしまう。そのガッツに免じて、兄はバイクを伸之に譲り渡した。(続く)

若井

(文:佐藤洋美、写真:赤松 孝、写真提供:若井十月)

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2023/01/27掲載