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レース・イベント

5月1日は若井の命日だった。この日、若井が亡くなったスペインのヘレス・サーキットで、MotoGP第6戦スペインGP ・Moto2クラスの決勝が行われ、小椋藍(IDEMITSU Honda Team Asia)が初優勝を飾った。世界一の夢を賭け戦う若者の嬉しい勝利にレースファンは沸いた。TV解説には、若井伸之と同時代を生きた上田昇、坂田和人、原田哲也らがいて、若井の話題が自然に出た。

『フラミンゴ・flamingo』と題された物語を、私が書いたのは2000年だった。彼の姉(十月)が刊行した『若井伸之写真集』で彼を知り、映画化や漫画化の話が持ち上がった。その素案をなる資料原稿を書いてほしいと頼まれ、デートムービーにしたいとのオーダーで、当時の彼女にも取材協力してもらった。たくさんの人が若井の話をしてくれ、それをまとめたものだ。結局、映画化も漫画化もされることなく時間だけが過ぎた。

あの時、書かれた物語を読んでもらえたらと思った。

フラミンゴ(flamingo)はアフリカ、南ヨーロッパ、中南米の塩湖や干潟に生息する。塩湖やアルカリ性の湖といった特殊な環境に適応しており、数千羽から百万羽程度の巨大な群れを形成する。フラミンゴという名前はラテン語で炎を意味するflammaに由来しているとされる。

1980年代後半から1990年代初頭、ロードレースが華やかな輝きを放っていた時代を若井伸之は生きた。180cmと長身で手足が長く痩せていた。その身体を折りたたむようにGP125ccマシンに密着させ、激しいコーナリングを見せ、イン側の肘や膝を擦った。その姿が優雅なフラミンゴのようだった。

今も、スペイン・へレスサーキットの1コーナーアウト側に、若井の死を悼み、フラミンゴの像がたっている。
■文:佐藤洋美 ■写真:赤松 孝 ■写真提供:若井十月

1990年、全日本ロードレース選手権の第14戦
1990年、全日本ロードレース選手権の第14戦・西仙台ハイランドにて。このシーズン、国際A級125ccクラスでランキング2位となり、翌1991年より世界選手権の本格挑戦が始まる。

ルーツ

「私の人生の中で、今が一番若いのよ」と取材当時70歳を越えていたが、ダイビングに秘境への旅にと飛び出す若井伸之
の母・義子は、現代絵画の画家だ。最愛の息子を亡くした時もカンバスに向き合い、伸之の死を乗り越えようと過ごした。伸之は、このバイタリティーにあふれ、芸術家としての繊細さと大胆さ、夢やロマンが生きる原動力である母の資質を色濃く受け継いだ。

 若井伸之の母・義子は、戦前日本の統治下にあった北朝鮮の風光明媚な場所として知られる元山の一等地にある綿布を扱う「湯沢屋」に生まれた。本店は父の実家がある広島にあり、仕事で外に出向く父の留守を預かる母は呉服屋を営んでいた。1935年1月11日、男7人・女4人、11人兄弟の末っ子として生まれた。それぞれの子供に「ねーや」と呼ばれる世話役がつき、学校の送り迎えから雑用をこなしてくれた。

 だが、太平洋戦争に日本が敗北し、天皇陛下の敗戦を知らせるラジオ放送を、居間に集まり正座をして聞き入った。9歳になった
 義子は不穏な空気を子供ながらに感じていた。ロシアの将校が銃を持ち居間に土足で上がりこみ、大きな熊の置き物を目掛けて撃ち放った。義子は耳を塞ぎ、爆音に驚き母の胸に飛び込んだ。

 1945年9月2日の降伏文書調印により正式に日本の朝鮮半島統治は終了した。終戦直後から、北緯38度線以南をアメリカ合衆国(米国)に、以北をソビエト連邦(ソ連)に占領され、それぞれの軍政支配を受けることになる。この大きな歴史の渦から、誰も逃れることは出来なかった。朝鮮半島に暮らす日本人は引き上げの混乱の中で20余万人が亡くなった。

 1946年、日本人会長で地域のまとめ役でもあった父は、引き上げの手配のためのお金を工面して、多くの家族を助け見送った。最後に残ったのは自分たち家族だった。手配した船に横山大観の絵や、青磁や伊万里、名匠の刀などを積め込むが、家族が乗り込む前に船が出て、すべてを奪われてしまう。闇船に乗り込むしかなく、肉体的にも精神的にも極限の中で空腹と疲労に耐え1ヶ月近く船に揺られ38度線を越した。

 父の実家・広島を目指すが原爆投下で草一本生えていないと聞かされ、母の故郷・岡山県倉敷市に住む祖母を頼った。母の弟が農業を営んでいたことから、そこの納屋を借り居を構えた。戦後の動乱の中で、あんなに堂々と快活だった父がしばらく口も聞かず生気が抜けたようにふさぎこんでおり、家族は心配した。だが、父に恩義を感じている多くの人が父の居所を知り、手を差し伸べ力を貸してくれたことで父も気力を取り戻す。

 成長した義子は国立大学の教養学部で美術を専攻して学び、デザイン会社に就職した。取引先の社長に気に入られた義子は、伸之の父となる一(はじめ)を紹介された。両親も良縁だと賛成してくれ結婚を決めた。

 1960年、義子が一と人生を歩み始めた頃、日本は戦後の混乱から立ち直り、高度成長期に入り、人々の生活も安定し始める。所得倍増を掲げ、「家付き・カー付き・ババ抜き」が流行語となり、世の中は豊かさを求めた。

若井一家
若井一家の集合記念写真。

幼少時代

 結婚後、ふたりは千葉に移り住み、一は印刷関係の会社を興し、義子は画家としてのスタートを切った。1961年10月に長女の十月が生まれ、その後、1963年8月に長男の紀良、1967年7月に伸之、1969年1月に基宏が誕生した。家族が増える毎に、ふたりの喜びは大きく深くなっていった。

 伸之が生まれた1967年はベトナム戦争が激化。中国が初の水爆実験に成功し、4番目の核保有国になった。欧州共同体(EC)成立、東南アジア諸国連合(ASEAN)結成と世界は大きく動いた。TVから美空ひばりが歌う「真赤な太陽」の歌声が流れていた。妊婦の義子は氷が無性に食べたくなり、いつも氷を口に含んでいた。角ばった氷を口に入れるものだから、口の中が傷ついて血の味がしたことを覚えている。

 7月25日は暑い夏の盛りだった。陣痛微弱の中で苦労して生まれた伸之は4250gの丸々とした元気な男の子だった。顔の額に二つの旋毛がくっきりあり、取り上げた先生が「孫悟空のようだ。強い子になるぞ」と太鼓判を押してくれた。この旋毛のことは一も義子も良く覚えている。生まれたばかりの伸之を抱えて顔を覗き込んだ。

「個性が強そうね」
「そうだな、気が強いかもしれないな。どんな人生を歩むことになるのか楽しみだ」と微笑んだ。

 真夏の強い陽射しに焼かれた暑い空気をかき回すように吹く風が窓から吹き込み伸之の頬を撫でた。

 伸之という名は義子の兄で、鉄骨会社を一台で築き、立身出世した叔父からもらった。

1967年7月25日
1967年7月25日
1967年7月25日、伸之は4250gの丸々とした元気な男の子として産まれた。

行方不明と流血事件

 義子がちょっと目を離した隙に2歳になった伸之がいなくなった。
 伸之と共に子供用の汽車の形をした乗り物もない。真っ青になって伸之を探す義子の姿に、近所の人も出てきて大騒ぎになった。みんなで手分けして探したが、どこにもおらず途方に暮れた。道の真ん中に佇み「伸之」と声を張り上げた義子は、乗り物が好きな伸之を思い出した。
 義子は全速力で八千代台の駅に走った。大人の足でも7~8分はかかる駅前で、裸足でオムツをしたままの格好で、玩具の汽車にまたがった伸之が、道行く車に「バイバイ」と手を振っていた。義子は、無邪気な笑顔に怒る気も失せて伸之をしっかりと抱きしめると子供特有の甘い汗の匂いがした。「黙っていなくなったら心配するでしょう」と言いながら涙があふれた。

 伸之は愛嬌のある可愛い子供で、義子の裁縫箱からファスナーを持ち出して、ジィ~とファスナーを開けては閉めて「開けましておめでとう」とタドタドしい声で挨拶。悪さをして叱られている時も、突然「アァ」と空中をさして話題をそらしたりした。いつも義子は伸之のペースにはまり、笑い出してしまい、怒れなくなった。

 4歳になると補助輪付の自転車を与えられた。バランス感覚が並外れて良い伸之は、乗り始めて10分もたたないうちに補助輪を外してとせがみ、スイスイと操ってしまった。この時から、自転車は伸之の大のお気に入りとなる。その自転車で、いつも出かける公園があった。いつも一緒に遊んでいる女の子がブランコを勢いよくこいでいた。そこから、声が聞こえた。

「助けてぇ~」

 勢いが付きすぎて驚いた女の子が怖がり、どうすることも出来ずに声をあげていた。伸之は自転車にまたがったまま、颯爽とブランコの前に飛び出した。気分は男の子のヒーロー「仮面ライダー」だ。ブランコを止めようと颯爽と手を出すが、勢いのついたブランコは無情にも伸之の額を直撃、ブランコは伸之にぶつかり止ったが、伸之の額からは鮮血が流れた。助かった女の子はびっくりして「ノブちゃんが血を流しているぅ~」と、また、泣き出した。

 大人たちは、泣き叫ぶ声を聞いて女の子を取り囲んだ。額から血を流す伸之を見て、また、驚いて救急車を呼ぶ大騒ぎになった。すぐに病院に運ばれた伸之は何針か縫った。名誉の負傷である。

4才
4才
乗り物が好きな伸之は4才になると乗り始めて10分もたたないうちに補助輪を外すなど、この時から並外れたバランス感覚を持っていたという。お遊戯会と思われる1カット。

ザリガニ取り名人&ブロック名人のやんちゃ坊主

 幼稚園でも、その正義感の強い優しさは変わらなかった。恒例の「おいも掘り」。男の子でも虫を怖がったり、泥をいじるのを嫌がったりする子も多い。そんな時に活躍するのは伸之で、クラス中のみんなの「おいも」を真っ黒になって掘っていた。「おいも」が少ない子には、自分のものを上げてしまう。そんな逞しい伸之を見て、先生は「伸之君は生活力がありますね」と感心していた。

 土に親しんでいたのには、一の影響もある。一時、菊つくりに凝っていた時期があり、休日は子供たちと庭いじりをするのが楽しみだった。
伸之は父の手伝いを一生懸命にしていた。家の前の土手に、父や近所の友達とツツジの苗を植えたのもこの頃だった。そして、ザリガニ取りの名人として名をはせ、真っ黒に日焼けしたやんちゃな男の子は心優しいガキ大将へと成長して行く。

 画家として作品を創作する傍ら、絵画教室を開いていた義子は、大きな黒板を置き、いつでも好きに絵が描けるようにしていた。ブロック遊びもいつでも出来るように黒板の下に置いた大きな箱にたくさん用意していた。お絵かきに飽きると、伸之はブロックを引っ張り出し、器用に飛行機やクレーン車などを作り上げては義子を驚かせた。「ブロック名人」と友達が呼ぶ凄腕だった。また、義子は、情操教育には音楽がぴったりだと十月や紀良にも楽器を習わせ、伸之はオルガン教室へと通った。

やんちゃ坊主
やんちゃ坊主
やんちゃ坊主の一面を見せる一方、情操教育として楽器を習う伸之。母の影響か、絵画でも光る才能を見せた。

 小学校に入ると、伸之は4つ上の兄・紀良の腰巾着のように、どこに行くのでもついて回った。家の目の前にあった牧場も格好の遊び場だった。草を運ぶトロッコがあり、それに乗るのが楽しみだった。いくら注意されても、駄目だとこっぴどくしかられても、大人の目を盗んでトロッコを目指した。滑車がガラガラギシギシと音を立て、スピードを上げるトロッコの魅力は男の子の心を捉えて放さなかった。

 公園の砂場にビー玉が通る奇想天外な迷路を兄と作った。その迷路を「ビー玉」を使って通過する遊びを考案。友達がビー玉で遊ぶと、その使用料を「ビー玉」で貰う。伸之は「ビー玉」の回収係、帰り道はビー玉を入れる袋がずっしりと重たかった。ふたりを夕陽が照らし、影が長く伸びた。

 兄の仲間たちは、危険とスリルを楽しむやんちゃ集団。近くにある自衛隊の演習場に自転車で出かけ、自転車を隠し、演習場にもぐりこんだ。爆竹を仕入れて鳴らしたり、ロケット花火を打ち上げたり、鉄パイプの先に火薬を詰め、火を付けたりする。広大な演習場は、夢の遊び場だった。どこまでも広く、力いっぱいにかけても邪魔するものはない。吹き抜ける風を受け、子供たちは創造の翼をいっぱいに広げて、次から次へと新しい遊びを考えだして実行した。夢中で遊んでいると、突然、演習が始まり鉄砲の音が聞こえ始める。皆で草むらにうつぶせになり、息を殺しながら、弾が飛んでこないことを祈る。

「当たったら死ぬかなー」
「当たったら、死ぬよ」
「死なーねーよ」
「そう簡単に死なないよー」
「でも……」

 恐怖に震え、身体を硬くして、演習が終わるのを待った。それでも「こんな怖い思いに耐えた」という誇りが、男の子の胸を熱くした。時には、遊んでいるところを見つかり、戦車やジープに追いかけられることもあった。みんなは俊足を武器に逃げ切った。激しい遊びが好きで、擦り傷は当たり前、いつも、どこかを擦り剥いて、怪我ばかりしていた。(続く)

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2022/12/05掲載