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ヨコハマで100台のバイクが哀悼の咆哮をした日、変わらないのがケンタウロス流


午前10時、バイク葬送パレード出発。先頭グループ、古株メンバーを中心に囲まれるポルシェのオープンカーには、ボスの愛娘・飯田七生(ななお)が骨壺を抱いて乗り込んでいます。大理石の骨壺なのでかなり重そうでした。七生が来ているGベスト(カンバン)は亡くなられた飯田繁男の着ていたものです。

※写真をクリックすると大きく、または違う写真を見ることができます。


 バイク葬列がスタートする瞬間、天空から「走るぜ」とボスの野太い声が降りてきた気がしました。

 その日、失われた街ヨコハマを一陣の風のように100台を超すバイクの群れが駆け抜けていく姿を目撃した数多くの観光客や市民がいたはずです。

 ある者は「何事だろう?」と不思議そうに足を止めてスマホカメラをかざし、またある者はまるで懐かしい光景に久しぶりに遭遇でもしたかのように目を細めて見つめていたことと思います。1964年以来、MC(モーターサイクルクラブ)『ケンタウロス』はYOKOHAMAに今も棲み続けていたのです。そしてこれからも彼等(あれら)は、その意思を継いでこの地で走り続けていくのです。

 本年10月15日、その伝説のMCの創始者にして族長である飯田繁男氏が80歳で“国替え”をされました。族員からは親しみと尊敬を込めて「大将」や「ボス(BOSS)」と呼ばれ愛されてきた漢(おとこ)でした。

「満月の夜は野生。新月の夜は知性」と、文武両道を掲げて、満月ツーリングと哲学セミナーを催し、能舞台公演『横浜飛天双〇能』を立ち上げ、独自メディアとして新聞『ペーパー・ケンタウロス』を発行。巨匠・十文字美信による写真集の発行、俗に“時速300キロ公道ビデオ”と呼ばれた映像作品『VISION HIGH』、劇画『ケンタウロスの伝説』を原作とした劇場用アニメ映画の実現などその活躍は枚挙のいとまもありません。バイク集団としては唯一無二の圧倒的な存在でした。バイク雑誌界やバイク乗りに与えた有形無形の多大な影響は今更触れるまでもないことでしょう。

 この異形のバイク集団の背中を飾るのは、天才的デザイナー・藤崎正記氏(故人)による特徴的な「への字」の形をしたカンバンと呼ばれるもの。一か所にこれだけの数の“ケンタ”メンバーや一族がボスの元に馳せ参じたのは訃報を耳にした時と荼毘に付した日以来のことでした。

 実娘・飯田七生さんに抱えられた遺骨を乗せたオープンカーは、数多くの仲間たちの沿道での見送りの中、クラブハウス「夜坐蔵」(横浜市中区)前を出発すると、ボスの愛した横浜の街30㎞のコースを2時間かけてバイク葬送パレードとして駆け抜けていきました。

 それは、中華街~馬車道~旧ショップ前~元町~港の見える丘公園~南本牧はま通り~横浜港シンボルタワー(本牧D突堤)~山下公園~BAR『スターダスト』と、思い出の場所を辿る短い旅でもありました。

横浜港シンボルタワーでの記念撮影。空は青く澄んでいました。
撮影が終わり、車列が出ていくところ。私も最後尾について、山下公園方向へ向かいました。


 華やかで豪快で愉快なことが好きであったボスですから、きっと下界を見下ろして、ニヤッとしていたことでしょうし、湿っぽくもなくカラッと笑顔で送り出せた気もします。

 パレードの後は赤レンガ倉庫やベイブリッジを望むホテルのバーラウンジに240名が集まって『MC KENTAUROS飯田繁男を送る会』を盛大に催し、夕刻からはメンバーの溜り場であるJAZZ喫茶『ミントンハウス』に移動。路上まで人が溢れる始末でしたが、夜が更けるまで泣き笑いしながら別れを惜しんでいました。

 最後はやっぱりボスのあの金言「人間に二種類ある。オートバイに乗る奴と、乗らない奴だ。」で締めるとしましょう。偉大なる領袖を失ったことで、その不在の大きさを噛みしめながらも、荒ぶる魂を抱いた者たちはこれからも走り続けていくことでしょう。

新たなる物語を紡いでいくためにも……。
無事是名馬也。いつか路上で。

パレードが終わり、瑞穂埠頭手前の「スターダスト」で折り返して、送る会会場のホテルへ。近所の方はバイクを自宅まで置きにいったり、酒が入る前に山下公園の公共駐車場に移動していた模様。祭壇の白い花は、バイクの形になっていました。祭壇の右半分はハンドル、ライト、ガソリンタンク、V型エンジンを模していました。
「MC KENTAUROS 飯田繁男を送る会」の第1部が午前10時からの葬送パレードであったなら、ホテルのバーラウンジを借り切った午後2時からの集まりが第2部で、第3部は「第二のクラブハウス」とも呼べる今も昔もケンタウロスの溜り場であるJAZZ喫茶ミントンハウスが第3部でした。ミントンハウス内にも遺影が飾られていました。この店で、初めてポスとコーヒーを飲んだのがケンタへの路の最初のきっかけだったりもしたはずです。


(レポート:小池延幸)







2022/11/28掲載