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レース・イベント

二輪ロードレースの世界には数々のレジェンドたちがいる。その中でも、レジェンド中のレジェンドと言うべき存在がジャコモ・アゴスチーニだ。総勝利数122(500cc:68回、350cc:54回)、世界タイトル獲得回数15回(500cc:8回、350cc7回)という大記録は今も破られていない。その〈生きる伝説〉アゴスチーニは、この6月16日に80回目の誕生日を迎えた。年齢を感じさせない若々しさと長い人生を経た思慮深い含蓄が同居する、「アゴ」のスペシャルインタビューをお届けしよう。
■インタビュー・文・写真:パオロ・イアニエリ  ■翻訳:西村 章 ■写真:Yamaha
ジャコモ・アゴスチーニ
※以下、写真をクリックすると大きく、または違う写真を見ることができます。

ジャコモ・アゴスチーニ
ジャコモ・アゴスチーニ

―80歳の誕生日を迎えましたね。今の気持ちはいかがですか?

「なんだか気恥ずかしいね。少し寂しい気もする。今の我が身を見ても、そんなに長い時間が過ぎていったとはにわかには信じがたい。今も私はバイクに乗るし、先日はポールリカールで時速250kmに到達したよ。気持ちよく走ることができた。かつてと同じようにあれこれできる。もちろん昔と同じような強靱さはないにしても、今でも飛んだり跳ねたりできるしプールにも行くし、ショベルを担いで庭の手入れもする。自分が80歳だとは思えないよ。そういえば先日、ある友人がメジャーをくれたんだが……」

―巻き尺ですか。

「そうそう。巻き尺だ」
(そう言ってアゴスチーニは部屋を出て、巻き尺を手に戻ってきた。そしてその巻き尺を床に伸ばし、指で距離を測り始めた)
「ここが生まれた日としよう。ここが学校を卒業したところ。そしてここが最初のレース。最初の世界チャンピオンがあって、現役を引退して、そして今がここ、80cmの場所だ。その距離のなかでどれほどたくさんの出来事があったか、わかるだろう?」

―死ぬことを怖いと思いますか?

(しばらく沈思して)
「……うん、そうだね。レースをしていた頃、当時の自分は今よりもやや軽率だった傾向があったとしても、そんなことなどは考えたこともなかったよ。しかし今、この巻き尺をごらん。そこからどれだけの時間が経ったか、わかるだろう。遠いところまで来てしまったものだ」

―その年齢になってもこんなに健康でいられる秘訣は何ですか?

「人間の体はエンジンのようなものだ、と私はずっと考えてきた。しっかり世話をすれば20万キロだって走れる。ちゃんと面倒を見なければ10万キロがせいぜいというところだろう。もちろんいつだって例外というものは存在するがね。私は少年時代にタバコに手を出しかけたことがあったのだが、そのとき医師にこう言われたんだ。『おい、ジャコモ。運動選手になるつもりなら、それはやめておいたほうがいいだろうな』。確かにそのとおりだと思い、即座に言いつけに従ったよ。自分の体のレブリミットを超えないことを、私はずっと心がけてきた。サーキットで暮らした若者時代から、ランニングは欠かさなかった。その頃より疲れやすくなっているとはいえ、今もジョグは欠かしたことがない」

開幕戦

―歳を取ると目標や夢を抱くよりも思い出に生きるようになる、といいます。今でも夢や目標はありますか?

「正直なことを言えば、かなえたい夢というものは今はもうないね。私はこの人生で、多くのものを得ることができたと思っている。すべて情熱とオートバイへの愛がもたらしてくれたものだ。同じようにレースを愛していても、途中で挫折した人はたくさんいるだろう。私は、思っていたよりたくさんのものを手に入れた。これで文句を言うのなら、正直どころか思い上がりも甚だしい傲慢というものだろう。私は幸せな人間だと思う。生まれ変わっても、きっとまた二輪レースをやるだろうね」

―あなたたちの時代にあって、今のライダーたちにないものとは何でしょうか。

「パドックが私の家族だった。あちこちをレースで巡業しながら皆がずっと一緒にいた。もちろんライバル関係だってあったけれどもね。今のライダーたちにはいろんなものがある。モーターホームやプライベートジェットや、自家用ボートや専属料理人等々。私たちにはそんなものはなかった。でも、素晴らしい時代だったから、今のライダーたちをうらやましいとは思わない。当時はいろんなものを犠牲にしたし、自分のことは自分でしていた。汗まみれのツナギで2レース目に出たりもしたよ。予備を持っていなかったからね。ヘルメットだって、世話してくれる人なんていなかった。四輪に転向したときは、チームの食事も私が作ったんだ。車の世話をしてくれるメカニックたちに料理をこしらえて持って行き、彼らと共に夕刻を過ごすのは愉しかったよ」

―あなたが現役を退いたときは、レースファンの数が激減したそうですね。今で言えばバレンティーノ・ロッシ氏の引退のようなものでしょうか。

「私の時代でも、レース観戦を辞めた人々はいただろう。しかし、観るのを辞めても世界は続くのだし、このスポーツが本当に好きなら結局はレースを見続けることになる。ライダーのファンであることとレースファンであることは、似て非なるものだ。またイタリアから新たな最強ライダーが登場してくれることを望みたいね。いろんな選手が勝つ姿を観るのが愉しいという人々もいるけれども、私はそうは思わない。皆が観たいのは、他の誰にもなしえないことをやってのける傑出した才能なんだ。モハメド・アリしかり、マドンナしかり、ロッシやルイス・ハミルトン、ラファエル・ナダルしかりだ。私はアリの試合を観るためなら、夜中でも起きたものだよ。人々は私を観るためにサーキットへ来てくれたし、その対象はやがてロッシになりマルケスになった。歴史を塗り替えるようなアスリートの姿を、私たちは求めているんだ」

#46

―レースをしていなければ、どんな人生を歩んでいたと思いますか。

「子供の頃はトラックが好きで、面白そうな仕事だな、と思っていたよ。とはいえ、オートバイのレースをしたいという思いはずっと自分の中にあり、それが揺らぐことは一度もなかった。両親は、私のそんな強い気持ちはいったいどこから来たのだろう、とずっと思っていたようだ」

―もしも一日だけ、過去の人生のある日に戻れるとすれば、どの日を選びますか?

「一日だけ、とは難問だね。あえて選ぶなら1966年9月11日、モンツァで初めて500ccクラスのタイトルを獲得した日にしようか」

―最大の賛辞は真のライバルからもたらされる、といいます。忘れることのできないひと言を発したライバルは、誰ですか?

「マイク・ヘイルウッドだな。1967年のマン島TTの500ccクラスで、残り数キロの地点でチェーンが破損してしまい、勝利を逃してしまった。とても悔しくてがっかりしていると、マイクが歩み寄ってきてこう言ったんだ。『今日の勝者はきみだよ。今夜は一緒にパーティへ行こうぜ』ってね。マイクは本当に素晴らしい人物で、ライダーとしてもマン島であらゆるクラスで勝ちまくっていた。だから、私はその日なんとしてもマイクに勝ちたかったんだ。そんな彼からかけられた言葉は、ほんとうにかけがえのないものだったよ」

―80歳の誕生日イベントは、インタビューやパーティで大忙しだったようですね。自分が今もそんなに人気者である理由はどこにあると思いますか。

「先週はマン島やポールリカールに行き、その前にはディジョンにも行ったが、そのたびにずっとそれを自問していた。たくさんの人々が来てくれたよ、小さな子供たちもね。何回サインを書いたか憶えてないくらいだ。おそらく、私がこの世界になにがしかの貢献をしてきたからこそ、人々が今も会いに来てくれて、皆の様々な思いをかき立てたことに感謝をしてもらえるのだろう。私はこの世界から多くのものを与えてもらったけれども、私もまた人々に多くのものを与えたのだろうね」

#46

―つまり、あなたは皆の〈心のチャンピオン〉である、と。

「そうだね。言い得て妙だと思う。たとえばある年のスパで勝った翌日に、ベルギーのマルシネル炭鉱で働いていたイタリア人鉱夫たちはイタリア国旗を掲げて採掘場に入っていったそうだ。つい数ヶ月前にその鉱山跡を訪問したのだが、彼らの働いていた過酷な環境を思うと胸が塞がれる思いがした。じっさいにその炭鉱では、たくさんの人々が事故で命を落としているんだ」

―自分の性格を三つの言葉で表すとすれば?

「ひとつは、真面目さ。情熱を持って真摯に取り組んできたからね。そして、自覚。自分自身について、ずっと考えてきたから。三つ目は、思慮深さ。なにごとに対してもこの慎重さがあったからこそ、幾たびも事故を避けることができた。そしてまた、勝利を重ねてゆくこともできた」

―人生で大切な三つのこととは?

「健康。金持ちになっても、健康でなければ意味がないからね。そして、家族とこのスポーツだ」

―マリア夫人という伴侶を得たことは幸運でしたね。

「(夫人が少し離れた場所から睨みつけているのを確認して微笑みながら)もちろん!  人生では最良の伴侶を見つけ出すのは簡単なことではない。私たちはかなり違う性格だが、大切なのは尊敬の念を抱いて相手を信じる、ということだ。私は晩婚だけれども、理由はまだその時期ではないとずっと思っていたからなんだ。当時は南アやオーストラリアの選手たちが家族を連れて転戦していたけれども……。考えてみたまえ、これから決勝レースだというときに5歳のジャコモジュニアが目の前にいて、ひょっとしたらもうこの子に会えないかもしれない、という思いがよぎったりすれば、ラップタイムは遅くなるだろうしレースで勝つこともできないだろう。実際に、私の父もサーキットに来たときには私のところへは顔を出さなかった。息子に心配をさせまいと考えていたそうだよ

―お子様のヴィットリアとピエルジャコモに教えた最も大切なことは何ですか?

「謙虚であること、正直な人生を送ること、そして一所懸命に働くこと」

#46

―記憶から消し去ってしまいたい瞬間は何かありますか?

「1965年の最終戦鈴鹿で350cc初タイトルのチャンスを逃したときかな。ラスト数周まで、350ccのタイトルが目前に迫っていた。他の選手たちをいわば皆殺しにしたような状態だったのに、最後になって振動の影響で点火系ケーブルの溶接が外れてしまったんだ(※レースは5位で終えている)。あれは本当にがっかりした。今も時々、思い出すことがあるくらいだ」

―あなたと競う理想のフロントロー2列を作るなら、どんなライダーを選びますか。

「マイク・ヘイルウッド、ケニー・ロバーツ、ヤルノ・サーリネン、ロッシ、マルケス、そして私かな。でも、2列では足りないね。3列目にはフィル・リードとジム・レッドマン、そしてマルコ・ルッキネリに並んでもらおう。このメンバーなら、世界のどこでレースをしても40万人くらいの観客が集まるんじゃないかな」

―あなたのことをまったく知らない子供に対して、自分自身のことをどう説明しますか?

「世界選手権でどれだけ勝って何回チャンピオンを獲得したか、を説明せざるをえないだろうね。それがなければ、ただの年寄りだから。そういえば、つい先日のポールリカールで面白い出来事があったよ。とても可愛らしい子供が近寄ってきたので、被っていた帽子にサインをしてあげたんだ。するとその子供がこう言ったよ。『じゃあぼくもあなたにサインしてあげるね』って。もちろん、サインをしてもらったさ」

―122回の優勝と15回の世界タイトルというあなたの記録を破る選手は出てくると思いますか?

「出てくると思うよ。今すぐに、というわけではないにしても。現役選手ではちょっと思い当たらない。マルケスが以前のような強さを甦らせて復帰するなら、可能性があるかもしれないけれども。彼には本来の強さを取り戻して復帰してほしいとは思うが、3年間のシーズンを失っているうちに年齢は重ねていくわけだから、15回の世界タイトル獲得はちょっと難しいかもしれないね」

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【パオロ・イアニエリ(Paolo Ianieri)】
国際アイスホッケー連盟(IIHF)やイタリア公共放送局RAI勤務を経て、2000年から同国の日刊スポーツ新聞La Gazzetta dello Sportのモータースポーツ担当記者。MotoGPをはじめ、ダカールラリーやF1にも造詣が深い。


[第27弾カルメロ・エスペレータに訊くへ]





2022/06/24掲載