エンジン性能を100%引き出す。これがスパークプラグ(以下プラグ)に与えられた役割だ。デンソーはボッシュ技術を導入することからスタートし、1960年代には低速から高速まで対応できるワイドレンジプラグを開発した。
1970年代に入ると公害問題が深刻化し、プラグにも環境性能という軸が加わった。さらに1982(昭和57)年には業界初のメンテナンスフリー化を実現。白金プラグの誕生である。この流れを受け、1997(平成9)年には究極の長寿命を誇るイリジウムプラグが誕生。
高着火性、長寿命、燃費向上、有害排出物の低減と、いくつものメリットを併せ持つこの製品は、高品質プラグの代名詞となった。さて次なる革新はどこから来るのか? ヒントは歴史の中にあった。
- ■文:佐藤洋美 ■写真:木引繁雄、赤松 孝
- ■監修:石橋知也
- ■写真協力:デンソー、吉村不二雄 ■取材協力:デンソー、ヨシムラ
第一次オイルショックの影響が表面化した1975年、アメリカに渡るチューナーと技術者
プラグはガソリンエンジンを燃焼させる重要部品だが、基本構造そのものは誕生当初からほとんど変化していない。わずか数センチのボディ中央には電流を伝える軸が通り、先端にあるふたつの電極で点火する。こうして最適燃焼させるための試行錯誤が“DENSO”を育てた。
デンソープラグの歴史を紐解く時、二輪レースプラグの開発はヨシムラの存在を抜きには語れない。
株式会社ヨシムラ・ジャパン(YOSHIMURA JAPAN Co.,Ltd.神奈川県愛甲郡愛川町)は、オートバイ・自動車用の部品・用品の開発・販売および、レース参戦を行っているチューナー・レーシングチームである。
その創業者である吉村秀雄(1922年10月7日〜1995年3月29日)は、エンジンチューニングにおいて神の手=ゴッドハンドを持つと言われ、アメリカ人から英語で「おやじ」を意味する「POP(ポップ)」と親しみを込めて呼ばれた。
車両の販売だけではなく、性能向上のための加工を行うチューニングをいち早く始め、世界で初めて二輪用集合管(4into1)を開発したことでも知られている。
1978年第一回インターナショナル鈴鹿8時間耐久オートバイレース(鈴鹿8耐)は、町工場のヨシムラと「無敵艦隊」と謳われた巨大企業の本田技研工業の対決となり、鈴鹿8耐人気の礎をとなった。
またアメリカのモーターサイクルレース(AMA=American Motorcyclist Association)で多くの実績を残し、秀雄は日本人としては本田宗一郎と並びAMA殿堂入りを果たしている。
秀雄は飛行機に憧れ、海軍飛行予科練練習生に14歳で合格、航空機関士となったが終戦を迎えた。その後米兵の頼みで始めたエンジンチューニングで名を馳せ、米国に進出、ヨシムラレーシングを設立(1973年5月・ロスアンジェルス近郊シミバレー)した。しかし商売の挫折、工場を火事で失い、そこからの家族と共に再生する波乱万丈な人生を送った。その生きざまは、書籍やTVドキュメンタリーで取り上げられてきた。苦難を乗り越え、勝利に拘った人生とその功績は伝説となっている。
その神の子の長男として1948年に福岡県で生まれたのが不二雄だった。家業を継ぐのは当然のことだと受け止めて、父を助け、マシン開発に精魂を込めた。不二雄と父・秀雄は新法人(Yoshimura R&D of America, Inc.)を1975年6月ロスアンジェルス近郊ノースハリウッドで設立し、経営を継承。父の神業を数値化し、コンピュータを駆使した計算・設計によるカムシャフト設計などを導入した。
昔ながらの手仕上げの技術を残しながらも、プログラミングを併用する新しいアプローチを採用する。「伝統(父の職人技)と現代(数値設計)」を融合させ科学的アプローチの先駆けとなる。
その不二雄とアメリカで出会い、ヨシムラエンジンを支えたプラグの開発、普及に努めたのが、当時、米国での二輪プラグ拡販の為にロスアンジェルスに駐在していたデンソーの山田昇吾だった。
二輪車は小型・高回転エンジンが多く、点火状態のわずかな変化がパワー・レスポンスに直結する。高回転域での失火はパワーダウンとなり、点火タイミングのズレはトルク感の不足を生む。電極の汚れは始動性に影響する。二輪車はイグニッションコイルが小型で、プラグ性能への依存度が高く、エンジン性能に対する影響が大きい。ライダーの近くにエンジンがあり、振動・温度変化の厳しさは顕著だ。レースの現場で研鑽されたデンソープラグは、北米だけでなく、欧州、アジアへとシェアを拡大して行く。
山田はその先駆けとなる働きをした。
山田は1946年、愛知県名古屋市で生まれた。工業高校に入学した当初は身長が152~153cmと小柄で、電車通学時につり革につかまるのがやっとだった。満員電車に揺られながら山田は「背を大きくしなければ」と誓い、運動部の中からハンドボールを選んだ。卒業時には170cmまで背が伸びた。
高校3年の夏の合宿にやってきた先輩がデンソーに就職していて「良い会社だぞ、女性も多いぞ」と言う(事実、オルタネーター、スターター等の電装品の組立ラインは女性が多く働いていた)。この先輩の言葉に刺激され山田はデンソーへの就職試験を受け合格する。
1964年に入社した山田はプラグ研究室に配属された。実験棟にあるエンジン試験室で、朝から晩までエンジンベンチ(エンジン単体で馬力・トルクを計る計測装置)でプラグをテストする。量産プラグ及び開発試作プラグの耐久性、着火性能、排ガス特性などの様々なテストを繰り返す日々だった。
来る日も来る日も同じ作業が繰り返される。「エンジンテストで俺の一生が終わるのかなぁ~」と思っていた。この時の経験が、その後に生きるとは、この時は思いもよらなかった。2年が過ぎた頃、山田は設計へと回された。ここで7年~8年のキャリアを積む。
山田は麻雀好きの上司と週末には卓を囲んでいた。ある日、会社の廊下で、麻雀仲間の上司に声をかけられる。「麻雀ですか?」とパイをつまむポーズをした山田に上司は「アメリカに行かないか」と打診した。
アメリカの営業所からプラグ拡販のための技術者を回して欲しいと要望があり、その技術者に選ばれたのだ。良いも悪いも、この時代の企業戦士には選択肢はない。
山田がアメリカへと渡った1975年は、第一次オイルショック(1973年)の影響が表面化した年で、日本経済は戦後初めてのマイナス成長を経験した。だがデンソーは省エネルギーと電子化で、長期的な成長基盤を固めた時期でもある。
燃費向上を最優先に技術開発を強化する。経営的には苦しいが、将来に向けて投資も守りながら攻めた。結果として1970年代後半〜1980年代に、世界トップの自動車部品メーカーへ飛躍する基盤を築いた。
山田はアメリカ行きを打診されてから2ケ月後の12月にはロスアンジェルスにある営業所に向けて旅立った。
アメリカに赴任し、当座の部屋探しやドライバーライセンスの取得に時間を取られる内にクリスマス休暇に突入。この期間に山田と同時期に赴任した営業担当と二人でサンディエゴ方面へいきなりの冒険ドライブ。
まだ、真珠湾攻撃を覚えているアメリカ人も多く、その要因以外にも有色人種に冷たい視線が集まる時代でもあった。その夜、コットンフィールドが広がる地域のレストランに入るとギョロリと睨まれた。頼んだハンバーガーを飲み込むように食べ、そそくさと後にした。
当座の部屋はアパート形式で、家賃を払いに行くと、鉄格子がはまっていて、その奥にいるスタッフと金銭のやり取りをした。日本では、鍵をかけずに外出するくらいに平和だったが、治安のあまりよくない異国の地に来たのだと思い知った。
赴任してからの半年は電話も取れず、会話もままならず苦労する。仕事終わりに地域のハイスクールで開催される夜間英会話教室に通い、様々な人種の人達と英語を学んだ。
プラグの品質確認のために大手ディーラーに行くと「lose face」と言われた。よく理解できずに、録音したものを会社で秘書に翻訳してもらうと「顔を潰された」と激怒していることを知る。「悪口だったんだ」と啞然とするが、その怒りを抑える対策のために奔走する。
技術者として、ディーラーでの信頼を築いて行く山田に「パーツマネージャーやサービスマネージャーがレース現場でプラグのサポートをすべきだ。(ロスアンジェルス近郊の)オンタリオやリバーサイドのサーキットに行けばポップ吉村という有名人がいるから相談してみるのが良い」とアドバイしてくれた。
1971年、秀雄はアメリカ・ペンシルベニアの大手ディーラー、クラウス・ホンダの依頼でHonda CB750FOURをチューニングして3月のAMA開幕戦デイトナ200マイルに参戦した。当時デイトナ200マイルは、マン島TTや世界グランプリと並んで世界屈指のビッグレースで、各メーカーのファクトリーチームも当然参戦していた。そんな中、プライベートチームのクラウス・ホンダ/ヨシムラのマシンを駆る、無名の若手ゲイリー・フィッシャーのライディングで10周にわたってトップを快走。残念ながらカムチェーンが切れてリタイアとなるが、その速さの衝撃は、アメリカのみならずイギリスのモーターサイクル雑誌にも掲載されるほどだった。このときヨシムラCB750FOURは、ノーマルの67馬力に対して何と97馬力を発生していたのだ(この時点では4気筒を4本のマフラーで排気していた)。
その速さに気を良くしたクラウス・ホンダは、継続してヨシムラの参戦(エンジンの供給)を依頼した。そして秀雄は画期的な秘密兵器を開発する。4 into 1マフラー、すなわち集合管だ。軽量化のために4本のエキゾーストパイプを1本にまとめる事を思いついたのだ。軽量化だけでなく、同時に馬力が上がり、トルクの谷も解消された。このヨシムラ4 into 1マフラーは、4輪のHonda S800などで実戦投入されていたが、二輪車では世界初だった。
ヨシムラ集合管は、1971年AMA最終戦オンタリオ250マイルでクラウス・ホンダCB750FOURに装着されデビューした(実は極初期型集合管は数戦前に極秘でテストされ、オンタリオには最終仕様が持ち込まれた)。結果は残せなかったが、速さは群を抜き、集合管独特の低回転域ではうなるように重厚で、回転が上げるにつれて澄んだ高音になっていく連続音が人々を魅了した。秀雄は、さらに集合管に改良を加え、翌1972年デイトナ200マイルに参戦(クラウス・ホンダCB750FOUR)。このときもリタイアに終わったが、ヨシムラの名は、不動のものとなった。
ヨシムラ(当時東京都秋川市に工場を構えていた)では、Honda CB750FOUR用の集合管、ハイリフトカムシャフト、ボアアップ用やピストンの注文が、生産が追いつかないほどに増加していた。(つづく)




