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技術のデンソーとパワーのヨシムラ──この両社の間には50年に及ぶ「挑戦と革新」の歴史がある。それは、“ポップ”吉村秀雄・不二雄親子と、デンソーの若き開発者・山田省吾の出会いから始まった。
知人から聞いたポップ吉村という人物に会うために、ロスアンジェルス近郊にあるリバーサイド・インターナショナル・レースウェイを訪れた。そこにいたのは、独特のオーラを放つ強面の職人だった。「使ってくれませんか?」と、山田はデンソープラグを差し出した。1976年春のことだった。
■文:佐藤洋美 ■写真:木引繁雄
■監修:石橋知也
■写真協力:デンソー、吉村不二雄 ■取材協力:デンソー、ヨシムラ

ライバルのライダー・チューナーらの励まし・支援でデイトナ出場へ

 1970年代前半からアメリカのバイク市場は、日本車が急速に拡大し、欧州車を圧倒していた。オイルショックによる、燃費志向も日本車の評価を高めていた。
 750cc初の並列4気筒量産車であるHonda CB750F OURが“世界最初のスーパーバイク”と呼ばれ大ヒット。“信頼性・扱いやすさ・低振動・低価格”で人気となる。一方でKawasaki H1(500SS マッハⅢ)/H2(750SS) は「世界一の加速」と言われ、爆発的人気となる。さらにKawasaki Z1(900cc、1973〜75年) が“キング・オブ・スーパーバイク”としてアメリカで大ヒットした。
 YAMAHAの2ストローク(DX、RX、RDシリーズ)は軽さ、加速の良さ、ハンドリングが高評価を得る一方で、オフロードバイク(2スト DT、4ストXT)も大成功する。またSUZUKIは新たな4ストロークモデルで、そこに追いつこうとしていた。

 そして1973年、秀雄念願のアメリカ進出を果たした現地法人ヨシムラレーシングは、販売する製品が順調に売れ、ホンダ車に関してはシェアの50%あまり、Kawasaki Z1においてはほぼ独占的なシェアを誇った。
 1973年はヨシムラの記録ラッシュだった。まず、Kawasaki Z1のプロモーションで、3月にデイトナインターナショナルスピードウェイ(東西に31度バンクを持つ超高速サーキント)を舞台に、24時間連続走行記録を含む8つの世界/AMA記録を樹立。エンジンチューニングはもちろんヨシムラだった。8月のボンネビル(ユタ州にある塩湖)で行われた最高速チャレンジでKawasaki Z1、Honda CB750 FOUR/CB500 FOURをエントリーさせ、12個もの世界記録を樹立した。同年9月にはフランスのル・マン、ボルドール24時間耐久ロードレースへ参加するシデム・カワサキへZ1エンジンを供給すると4台が完走し、2位を筆頭に4位、5位、7位を獲得した。

#技術のデンソー、パワーのヨシムラ
#技術のデンソー、パワーのヨシムラ
サイクルニュースやモーターサイクルウイークなどの新聞・雑誌にも積極的に広告を出した。

 売り上げは好調だったが、アメリカの共同経営者からの送金が日本にいる日本のヨシムラの元に届かなかった。それでも秀雄は、共同経営者を信じて日本の工場を整理して1974年にアメリカへ渡る。そこで、会社が乗っ取られていることに気が付く。裁判となるが、勝訴の可能性はなく、すべての権利を放棄して帰国し、不二雄をアメリカで新たな企業設立の準備にあたらせた。
 秀雄は1975年4月、再び渡米(不二雄は一時期、「森脇 護と加藤昇平」の協力を受け新会社への新商品の立上げ・仕入れ・出荷等の為、日本へ帰国し米永住権取得後に父に合流)、1975年6月1日、ノースハリウッド(ロスアンジェルス近郊)に「YOSHIMURA R&D of America」を設立する。このときはカタカナ名の「ヨシムラ」も失っていた(その後長い裁判の末取り戻した)。

 1976年夏、秀雄はスズキが初めて開発した並列4気筒の4ストロークエンジンを搭載するGS750に興味を持った。アメリカの雑誌「サイクル誌」にエンジンの透視図が掲載されていたのだ。そして8月になってスズキから連絡があり、ロスアンジェルスのUSスズキで当時二輪車全般の責任者であった横内悦夫と面会し意気投合。ここからスズキの4ストレースマシンにヨシムラが深く携わり、その関係は現在も続いている。
 YOSHIMURA R&Dはアメリカでの基盤を確立しつつあった。だが、1977年2月18日、3月のデイトナ参戦を目前に火災が起きた。

 ノースハリウッドの工場でエンジンベンチを使ってエンジンテストをしていた際にセルモーターがショートを起こし火花がガソリンに燃え移り火災が発生した。秀雄は爆発を防ぐためガソリンタンクを抱えて外に持ち出すが、顔から腕にかけての火傷が酷く皮膚の移植手術が行われた。
 火災を最小限に抑えようとした秀雄の行動、献身的に秀雄を支える妻の直江、その姿は地元の新聞にも掲載され感動を呼んだ。

 事務所を除いて工場は全焼し、マシンもなくデイトナへの出場を断念することも検討したが、不二雄は、ヨシムラ契約ライダーのウェス・クーリーやライバルのライダー・チューナーらの励まし・支援(実際の作業もライバルチューナーが引き受けてくれた)を受けデイトナ出場を決意する。
 手元に残ったパーツでマシンを組み予選で最速タイムを記録し、決勝はクーリー(Kawasaki Z1)が3位となり、デイトナ独特のビクトリーレーンで表彰された。ヨシムラの惨事を知る関係者や観客は、総指揮という大役を務めた不二雄に惜しみない喝采を贈った。

#技術のデンソー、パワーのヨシムラ
Kawasaki Z1を駆るウェス・クーリー。写真は1977年、カリフォルニアのリバーサイド・インターナショナル・レースウェイにて。

 山田は地図を見ながら休日を使って、ロスアンジェルス近郊のリバーサイド・インターナショナル・レースウェイを訪れた。コースではデビッド・エムデが走っていた。初めて見るライダーだった(その後1978年第1回鈴鹿8耐で2位になるなど、AMA若手のホープだった)。
「コーナーでものすごく尻を振って走っているから大丈夫かな? と思った。バイクを降りたら、いい男でね。何でこんなことやっているのかと不思議だった。レースを見たこともない自分には全てが未知の世界だった」

 日本メーカーの積極的な進出の背景もあり、サーキットには日本人の姿もあった。山田は、声をかけやすそうな人を見つけて「吉村さんはどこにいるのか?」と尋ねた。
 秀雄は強面の職人、独特のオーラがあり、声をかけやすい雰囲気は微塵もなかった。思い切って声をかけるとチラッと睨まれたが、山田はデンソープラグを差し出し「これを使ってくれませんか?」と声をかけた。それを受け取った秀雄は頷いてくれた。
 緊張していた山田は拍子抜けしたように「どうして、こんなに優しいのだろう、どうして、こんなに素直に受け取ってくれたのだろう」と思った。
 不二雄は「速くなるのなら、エンジンのためになるのなら、何でも試してみよう、いいものを使いたいと親父は考えたのだと思う」と言う。
 そこから、デンソーとヨシムラの付き合いが始まる。1976年春のことだった。

 日本で1963年から鈴鹿サーキットで4輪のレースが始まり、4輪で使っている実績のあるプラグを山田はヨシムラに提供していた。山田は「一度も吉村さんから、プラグのクレームを言われたことがない」ことが自慢でもある。
 山田は、ハンチングを被り髭を生やした不二雄とも会う。第一印象は「キザな奴」だったが、お互いの理解者となって行く。

#技術のデンソー、パワーのヨシムラ
当時、ハンチングがトレードマーク(?)であった吉村不二雄とPOP(秀雄)。写真は1978年のボルドール24時間耐久にて(クリックすると別の写真を見ることができます)。

 1969年にバイクでアメリカを横断する映画「イージーライダー」が公開され、バイク文化の象徴となった。アメリカの広大な大地を大型バイクで旅をする文化が定着していった。巨大なディーラーがアメリカには各地にあり、アフターパーツ市場も巨大なものだった。
 不二雄は「バイクディーラーにはその当時としては画期的で高価な工作機械やアルミ溶接用のアルゴン溶接機まであり驚いた」という。山田も「これが、バイクディーラーか? と見上げるほどの巨大な建物だった」とアメリカの豊かさに圧倒された。

「モーターサイクルトレードショー」が毎年あり、西海岸カリフォルニアのアナハイムから始まり、南部テキサスのヒューストン、中西部オハイオのシンシナシティ、東海岸フロリダのデイトナビーチを巡った。
 巨大なバイク関連の見本市があり、プラグだけでなく、オイルやチェーンなど、モーターサイクルの補修部品が並ぶ。同時に各地で何らかのレースが開催され、最後のデイトナがフィナーレとなり最高の盛り上がりを見せた。
 レースとバイク、アフターパーツは巨大なマーケットとなり広がって行った。

 山田はレースだけでなく、プラグ拡販のためのディーラー回りも重要な仕事で、広大なアメリカの、ほとんどの州を巡りセミナーを開催した。朝食を用意して、食事を終えると技術的な講義をして、プラグへの理解を深めた上での販売に努めた。このセミナーは好評で、物を売りつけるだけではない、きめ細やかなサービスを伝えることで、プラグの信頼度を高めた。このノウハウは、山田がアメリカを離れ、アジア地域へと拠点が変わっても続けられた。
「デンソープラグの技術は素晴らしい」という評判は、不二雄の耳にもと届き、プラグの信頼性を改めて感じることになる。

 デイトナ200マイルは、国民的イベントとなり、アメリカのモータースポーツが世界の中心に躍り出た時代でもあった。世界最高峰のロードレースである世界選手権(WGP)で、1970年代後半から1990年代にかけてアメリカ人のケニー・ロバーツ、フレディ・スペンサー、エディ・ローソン、ウェイン・レイニー、ケビン・シュワンツらのチャンピオンを輩出していった。
 ビッグレース後にパーティは必須で、山田は代理店に誘われて参加することが多かった。派手なケンカをする者もいて、警察が駆けつけることもあった。
「映画で見たことのある乱闘シーンが、目の前で起きて、驚くことばかりだった」と山田は言う。パーティは日常で、不二雄も「仕事がしたいのに、パーティに誘われることが多く、親父に参ったよ、何とかならないかと愚痴った」ことは一度や二度ではなかった。
 レースを終えると不二雄の元に、胴巻きに現金を詰めた男性がやってきて、バイクを売ってくれと詰め寄られたこともあった。断っても「ほしい金額を言ってくれ」となかなか引き下がらず、不二雄は「こんなことが、実際にあるのだな」と面食らった。

 不二雄との関係を深めた山田はレースに帯同するようになる。
「どんな小さなレースにも休日返上で駆けつけてくれていた。こんなに熱心な駐在員はいない。AMAを走っていた若手ライダーには、山田さんにお世話になったライダーがたくさんいる。ヨシムラだけでなく、いろんな人を支えてくれていた」
 若きエディ・ローソンもその一人、山田のもとにプラグをもらえないかと訪ねて来た。
「無口な大人しい青年だったが、あれよあれよという間に世界チャンピオンになった。AMAには才能あるライダーが多くいて、積極的にデンソープラグを使ってくれていた」

 デイトナレースにはプラグのサービスのために訪れている山田だが、レースウィーク終盤になると目の色変えて、寝食を忘れてレースにのめり込んでいるライダーやスタッフたちを近くに感じるようになる。
 プライベートで渡米しレースに挑む日本人の若手ライダーは、金欠で食事まで手が回らない者もいた。そんなライダーたちへ食事を差し入れするようになる。
 デイトナ・インターナショナル・スピードウェイは、夜8時を過ぎるとコースゲートが閉まり、スタッフたちはサーキットを追い出される。仕方なく宿泊先のモーテルの部屋や駐車場にマシン、エンジン、パーツを持ち込んで整備するのが常だった。ヨシムラの常宿はホリディインで、部屋でエンジンをばらし、1階の通路でピットインの練習をしていた。
 デイトナ・スピードウェイのコースインゲートの前は「フレドリィ」というカフェレストランと「ホリディインHotel」があって、マクドナルドは数100m東にいった所(1~2ブロック先)にあった。
 山田は、マクドナルドに差し入れのために通った。ロスアンジェルス近郊のサーキットにもデンソーサービスのバンを置き、プラグを使うライダーやスタッフの休憩に利用してもらった。そこは、貴重な技術情報や体験談を収集する場所でもあった。
 デンソー主催のレースを開催したこともあった。条件は「デンソープラグを使うこと」だった。少額ではあったが賞金も用意した。走る場所があるのなら「走りたい」と願うライダーたちは、自慢のバイクを引っ提げて参加した。表彰台でレースを手伝いに来ていた女の子が、勝者にキスのプレゼントまでして大いに盛り上がった。
 山田は「キッスはしなくても良いのではないか」と驚いた。協力した不二雄は「ローカル色満載のレースで何でもあり、何をしてもライダーたちが喜んでくれた。あの当時は、ウイロースプリングスを1日貸し切っても20ドルの時代だった」と振り返る。
 サーキットでは国籍は関係なく仲間として受け入れてくれ、誰もが思い思いのスタイルでバイクを楽しんだ。(つづく)


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2026/01/07掲載