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レース・イベント

我がレース人生に悔い無し! レーシングライダー・小室 旭
ひとりのライダーが、2021年シーズンをもって引退した。1996年がレースデビューというから、21年にわたって走り続けたことになる。レースをする者なら当然だろうが、目指すはチャンピオンだ。もちろん、彼もそのひとりだ。そして、2021年シーズン、チャンピオンの称号はすぐそこに、手の届くところにあった。しかし、わずか0.008秒という差で、彼の手からするりとこぼれ落ちた。レーシングライダー・小室 旭は、遂にチャンピオンになることはなかった。小室は、だが、「思い残すことはない」と、レース人生に終止符を打った。
■取材・文:佐藤洋美 ■写真:赤松 孝






 2021年をレース生活最後のシーズンと決めていた小室 旭(Sunny moto Racing)は、全日本ロードレース選手権J-GP3クラスにKTMで挑んだ。どうしても欲しいと願ったタイトル獲得を目指し、開幕戦もてぎは2位、続くSUGOで勝利、ホームコースでもある筑波ではダブルウィンを飾った。鈴鹿で2位、岡山国際で3位となり、小室はランキングトップで最終戦オートポリスに挑んだ。
 シリーズチャンピオンを争うライバルのHondaを駆る尾野弘樹(P.MU 7C GALE SPEED)とのポイント差は12P。その差は大きく、尾野が勝ったとしても小室は3位に入れば良かった。だが、元ロードレース世界選手権(WGP)GP125のトップライダーであり、2012年全日本J-GP3チャンピオンの徳留真紀が、後半に来て本来の速さを見せ2位に食い込み、高校生ライダー細野翼と小室は3位を争い、コントロールラインを並んで通過した。3位に細野で、小室は4位という結果。その差は0.008秒、瞬きにも満たない差で、尾野が逆転チャンピオンを獲得した。
 小室はランキング2位となり、21年間のライダー生活に終止符を打ち引退した。
 

最後のシーズンと決めていた2021年、小室は上々の滑り出しをみせていた。※すべての写真は、クリックすると別の写真が見られます。

 
 1977年1月23日生まれの小室は、男3兄弟の末っ子。兄がバイクに乗っていたことで興味を持ち、16歳で中型免許を取り、ガソリンスタンドでバイトをして1977年式のホンダCB400FOURを手に入れた。バイクで走り回るのが日課になり、18歳になると先輩のTZR250を借りて筑波サーキットを走った。チェッカーフラッグを見落とすほど楽しく、小室はレースに魅了されたのだ。
 1996年、本格的にレースをしようと決意して93年型のホンダRS125を新車で購入する。地方選でも予選は2組もあり、サーキットは参加者であふれていた。旧型のマシンを持ち込んだ小室は、注目の人となる。倒立サスペンションが主流なのに、正立サスペンションのマシン、装着タイヤも違い、小室は「それくらい何も知らなかった」と振り返る。翌年には最新型の新車を購入し直しレースへとのめり込んでいく。
「同級生の頭のいい奴に負けたのがきっかけで、頭で負けても、走りじゃ負けないって火がついて、エビスサーキットに練習に出かけ、山籠もり。とにかく練習して、同級生にも勝ち、筑波の予選も突破できるようになった。一度も開けたことのなかったエンジンを開けて、バイク整備もやるようになって夢中だった」
 

1996年からレースを始めた小室は徐々に力を付けていった。2001年には、全日本ロードレース選手権 GP125クラスで2位になる。写真は2002年で、この年のランキングは6位だった。

 
 2000年には国際ライセンスを取得して、新人ライダーの登竜門的レースのNGK杯で優勝を飾る。2001年から本格的に全日本GP125参戦を開始、トップ争いの常連となるが、初優勝を飾ったのは2017年全日本SUGO大会だった。母・京子さんが66歳で亡くなった後のレースで、母に捧げる勝利として「最も印象に残るレース」となった。
 その後はST600、GP-MONOと挑戦を続けた。J-GP3に戻ったのは2007年だった。この間、インストラクターの仕事で一緒になった宇井陽一(元WGPライダー、現在はテストライダー、エンジニアとして活躍)のマシンに対する洞察に感銘を受ける。
「バイクへの考え方を聞いて、それまでの自分は、勢いや感覚に頼ることが多かったと気が付いて、バイクの動きやセッティングに関して考えるようになり、よりレースが面白くなった」
 

2004年はレーシングチームS-WAYからエントリーし、ランキングは6位。
2009年はGP-MONOに挑戦。開幕戦で勝利し、この年ランキングは2位となった。

 

Team KOMURO with HARCでGP-MONOにエントリーした2010年。
元WGPライダーの宇井陽一から大きな影響を受けた。

 
 2017年には、名門チームの「7C」に移籍してチャンピオンを目指す。豊富なキャリアを持ち、タイトルを狙う力を認められての抜擢でもあった。40歳の小室は、十代の若手ライダーとの戦いに備え、専任のトレーナーを雇い、走行後は冷水風呂に浸かるなど独自の方法で挑み、トップ争いを繰り広げた。この年ランキング2位。翌年はランキング3位となる。小室は「7Cは、2位には価値がなく、1位しかないチーム。言い訳の出来ない厳しさの中にいた。2位や3位じゃ満たされない気持ちでいた」と言う。
 2019年には、全日本J-GP3に参戦する20歳の村瀬健琉のアドバイザーとなり、実戦から離れた。この年、小室のバイク仲間であるプロスピーカーの比良愉弥子さんから「選択理論」を学ぶ。自分が変わることで相手が変わるという気付きがあった。小室は「村瀬に対して、最初は、自分の考えを押し付けるだけだったのが、村瀬の才能を認め、その力を引き出す方法を考えるようになり、村瀬の気持ちに寄り添うことで、いい方向に向かっていけた」と村瀬の信頼を得て、村瀬をランキング3位へと押し上げた。
 

名門チームである7Cに移籍したのは2017年。常に1位が求められる中、「2位や3位じゃ満たされない気持ちでいた」と言う。ランキングは、2017年が2位、2018年が3位だった。

 
 そして、小室の中に「人間的に変わることのできた自分がもう一度、走ることが出来たら、これまでと違うレースが出来るんじゃないか」という思いが広がる。そこへ、バイク仲間たちが手を差し伸べることになる。比良が支援を伝えチーム代表となり、監督は鎭波 晃(しずなみあきら)が務めることになる。鎭波は「タイトルを取る力があるのに、そこに届いていないのがもどかしかった」と語り、相談役となった山崎 武は「これまで、何度かチャンピオンになるチャンスがあった、力を示してほしい」と、続々と支援者が集まり「Sunny moto Racing」が出来上がる。全員がスポンサーという異色のチームが動き出すことになった。
 小室はホンダ車で走り続けて来たが、KTMを選択した。集まったスタッフは素人集団ではあったが、小室のために集まった仲間たちだった。小室の家族もスタッフに加わりチームを支えることになる。彼らは、全日本を転戦して、文字通りに小室を支えるのだ。だが、素人集団が、日本最高レベルである全日本で、どこまで戦うことが出来るのか、それは未知数だった。だが、その危惧を跳ね返す力を発揮する。それは、驚きであり、衝撃でもあった。
 

2020年、多くの支援者が集まりSunny moto Racingが出来上がった。マシンも、長年乗ってきたHondaからKTMとなった。

 
 チームが始動した2020年は新型コロナウィルスの影響で、開幕は8月、4戦の短期決戦となる。小室はチームを率いながら懸命に戦う。タイトルを争ったのは、教え子である村瀬だった。最終戦鈴鹿で激しいトップ争いを繰り広げ、勝った方がチャンピオンという緊迫した戦いで、村瀬が勝ちチャンピオンになった。
 1年という約束で始まったチームを継続しようと言い出すことは、誰にも出来なかった。チーム結成1年目でタイトル争いを見せたことは、充分過ぎる結果でもあり、悔しさもあったが、金銭的にも肉体的にも、それぞれに社会的な立場のあるスタッフにとって、全日本を転戦することは想像以上に大変なことだった。だが、そのスタッフから沈黙を破るように「来年も」という声が響く。エントリーギリギリで、最終決断され継続されることになるのだ。
「継続できるとは思っていなかった。感謝しかなかった。これが本当に最後のシーズン、もう1年はない」と小室は覚悟を決めた。

2020年、J-GP3でのランキングは2位だった。

 
 2021年シーズンが始まった。前述したように開幕戦のもてぎで2位に入り、2戦目のSUGOの勝利、3戦目筑波のダブルウィンと強さを示す。だが、順風満帆だったわけではなく、メカニックが徹夜したり、何度もエンジンを積みかえたり、修復が奇跡的に間に合い走行出来るなど、その勝利の影には、さまざまなアクシデントがあり、それをチーム一丸となり回避して戦い続けた。タイトル決定戦となった最終戦オートポリスでも事前テストに参加していないなど、目に見えないハンデがありながら、懸命に挑んだ。
 チャンピオンという栄光は、だが、わずか0.008秒という差で握りしめた拳からこぼれ落ちたのだった。
 

最後と決めていた2021年シーズン、開幕戦は2位だったが、第2戦菅生で優勝、続く筑波は2レースが行われダブルウインを飾った。

 
 チーム代表を務めた比良は「右も左もわからないサーキットに来て、パドックは、ピットはどこ?というところから始まりました。小室さんの心労は大きかったと思います。シーズン途中には帯状疱疹になってしまったり……。それでもチームをまとめて戦い続けるのを応援出来たことは、かけがえのない時間だったと思います。すべてが印象に残っていますが、SUGOで勝てたことが、私とっては初めての優勝だったので、嬉しかったです。チームを作って良かったと思えました。2年間やり、たくさんの人と絆を感じることが出来て、すがすがしい気持ちでいます」と語った。
 監督として参加した鎭波は「2020年の最終戦の鈴鹿もエキサイティングなレースでした。2021年の筑波も、チーム内ではエンジンを載せ替えたりと大変な状況の中、残り5分でトップタイムを出し、ダブルポールポジションとなって、ダブルウィンを飾ってくれました。正直、2年間、大変でした。生半可な気持ちでは出来ない世界でした。それでも、やれて良かったと、応援出来て良かったと思います」と語った。
 相談役の山崎は「13年くらい、彼のレースを見ています。悔しいシーズンがたくさんありました。でも、今回はチームに恵まれたと感じています。素人さんの集まりとはいえ、成長が早く、チームワークが強くなっていることを感じました。そして、小室の走りで、7Cを本気にさせてしまったのだと思います。チャンピオンにはなれなかったけど、たくさんの感動がありました」と笑顔を見せた。
 

最終戦を前にランキングでトップに立っていた。ポイント差は12P──この差は大きく、ランキング2位の尾野弘樹が優勝したとしても、小室は3位に入ればよかった……。

 
 そして小室は振り返る。
「自分は頑張っているのにと思うと、勝てなかった時、結果が残らなかった時、誰かのせいにしたり、何かのせいにしていたような気がします。でも、この2年間は、全て自分なのだと思い、最善を尽くした結果だと思いました。振り返って、どのレースも、勝ったレースも、負けたレースも、その時のベストなんです。だから、チェッカーを受けて、もう一年という気持ちにはならなくて、そんな思いは、頭に、一切なく……。こんな気持ちになったのは初めてでした。心のままに、自分らしく戦わせてもらいました。背伸びせず、応戦してくれる人達の気持ちをもらいなら、ありのままの自分でいることが出来ました。悔いを残すことのない、いい辞め方が出来たと思います」

 小室とバイクで出会い、彼の夢を、願いを一緒に追いかけた人々は、それぞれに、日常から切り離されたレースという特別の世界に身を置き、様々な思いを抱き、絆をつないだ。だから小室は「絆を伝えて行きたい」と語った。親子や友人、先輩後輩、どんな形でも、バイクを通じて、その繋がりを広げて行きたいと言う。
「子供たちが、サッカーや野球をするように、気軽にバイクに乗れる環境を作りたい。バイクに乗る技術に不安を持っている人には、ライセンス制度を設けて、そのテクニックを認められたらと思う。年齢やキャリアに合わせた指導が出来たら良い……。やりたいことが、たくさんあります。それを、これから、具体的に進めて行きたい。もともとバイクが好きで、競い合うことが好きだったわけじゃない。サーキットを走って、自分のタイムが上がって行く、うまく行った時が楽しかった。だから、その魅力を伝えたい」
 小室は、もう違う夢や目標を見つけていた。
 

2021年シーズン、小室 旭はJ-GP3で3勝を挙げた。ランキングは2位だった。

 
追記:取材に来てほしいと筑波に呼ばれたのが2020年のシーズン前だった。それは、スタッフ全員がスポンサーという異色のチームだった。筑波でシェイクダウンのマシンは、そこでは走らずで、「おい、大丈夫か?」と心の中でつぶやいた。でも、小室のために集まった人たちは、社会的地位もある大人で、生き生きとした表情で、小室を支えたいと語り、とても魅力的だった。レースをよく知らないというスタンスが新鮮で「ぜひ、レースの魅力にどっぷりとはまって下さい」と願った。こんな大人を惹き付けることこそ、レース界にとって大事なことだと思った。そして、こんな素敵な人達を惹き付けた小室の魅力は、とてつもない大きなものなのだと実感した。
 小室は厳しく自分を追い込み、勝利を、タイトルを追い求めていた。その願いは叶わなかったけど、チャンピオンという称号以上のものを手に入れたのではないかと思う。最後の2シーズンは、懸命に走り続けた小室へのレースの神様からのご褒美だったようにも思う。そして、「やりきった」と引退出来ることは、とても幸運なことだ。多くのライダーは、まだ、もっと、もっと出来るのにという後悔を抱えながら辞めていく。レースは、マシン、タイヤ、メカニック、そして、天気や運と、全てがかみ合わなければ、ライダーだけが頑張っても勝利に辿り着くことが出来ない。だから、こうだったら、ああだったらと思うことが、とても多いスポーツだ。それを、全部ひっくるめて、小室は「思い残すことはない」と言った。全力を尽くした結果をまるごと受け止めて、「自分らしくいられた」と言った。だから、前を向けるのだ。「バイクが好きだから、この業界を盛り上げて行きたい」と……。
 
 小室が、バイトで初めて購入した1977年式のホンダCB400FOURは、今も小室の元にある。
(レポート:佐藤洋美)
 

 



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2022/03/14掲載